第11話 穏やかな光
焼き鮭の皮がちりちりと焦げる音が、リビングに響いていた。
いつも通りの、朝の匂いだ。
味噌汁から上がる湯気が、私の顔を温める。
「あかり、昨日はよく眠れた?」
お玉を握る母の指先が、わずかに強張る。
母がこちらを振り返る。
「うん、ばっちり。十時間は寝た気がする」
私の背中の裏が、どうにもむず痒くなる。
「……そう。ならいいんだけど」
カチリ、と母の手元の箸先が、皿に当たる音が半拍遅れて響いた。
私の言葉が母に触れる直前で、音もなく吸い込まれて消える、冷たい真空の層がそこにあった。
「目が、少し赤いよ。疲れてない?」
「平気平気。ただの寝不足」
私の口元は、鏡の前で練習したわけでもないのに滑らかに横に広がった。
母はそれ以上何も言わずに、鮭のお皿をテーブルに置いた。
テーブルの向こうで、灯真が黙って箸を動かしている。
いつもなら「願望だろ」と即座に突っ込んでくる弟が、今朝は妙に静かだった。
箸先で鮭の身を黙々とほぐし、伏せた睫毛の陰に目を隠したまま、一度もこちらを見ようとしない。
ごちそうさま、と箸を置く。
玄関へ行って、制服のブレザーを羽織った。
ローファーに足を差し込む。
そのとき、左の足先が、靴の側面に突っかかった。
「……あれ」
見ると、左のローファーだけ、つま先が内側に巻き込まれて歪んでいた。
足を差し入れても、左の親指のあたりが、どこか遠い感覚がする。
奥歯に力を込め、力任せに靴を履き直した。
立ち上がる。
床を踏みしめる感触は、いつも通りだった。
◇
午前中の二時間目の授業。
黒板を滑るチョークの音が、退屈に響いていた。
そのとき、校内スピーカーが悲鳴を吐き出した。
甲高い警報音だ。
緊急応援要請。
「アマテラス班、および同行教官。直ちに特別警備区域・C等級ゲートへ出頭せよ」
クラスメイトたちの瞳が一斉に私の席を向いた。
背中の制服が、じっとりと皮膚に張り付く。
私は椅子を蹴って立ち上がり、ブレザーの裾を翻して教室を飛び出した。
廊下を走る。自分の足音が異常に大きく響く。
先ほど力任せに履いた左のローファーが、走るたびにかかとの裏を擦る。
それでも、痛みに構う余裕はなかった。
廊下の閉塞感から外へ出た瞬間、金属と消毒液の冷たい匂いが鼻をついた。
アスファルトの照り返しが、視界の隅を白く焼く。
◇
学校の敷地から少し離れた場所に、それは存在した。
特別警備区域にあるC等級ゲート。
普段の訓練用ゲートとは、まるで空気が違っていた。
医療班のテントが立ち並び、赤いストロボが音もなく回っている。
緊急応援要請。
その四文字の重さが、肌にまとわりつく。
「天瀬、あかり」
係の職員が、私の手首のORIGOと認可AIを端末でスキャンする。
「適合率、接続状態、ともに認可範囲内。——行け」
事務的な声が、私を送り出した。
待機スペースには、他班の生徒たちがいた。
誰も喋っていない。
膝を抱えて地面を見つめている女子生徒や、何度も焦点具の接続を確かめている男子生徒。
彼らの肩が、小さく震えている。
膝を震わせるくらいなら、支援科の私の特等席を譲ってやりたい。
手首のORIGOをきつく締め直し、浅くなる呼吸を強引に肺へ押し込んだ。
C等級。ここからは脅威も人も規模が変わる。
そして中の脅威を駆除するまで、井戸から出られない。
誰かが消えようが、班が全滅しようが、例外なく。
ふと、自分の足元を見た。
アスファルトに、私の影が落ちている。
影の輪郭が、アスファルトの上に異様なほど鮮明に落ちていた。
ざらついた道路のグレーと、私の影の黒が、一ミリのブレもなく分かれている。
世界が私を境界線の外へ切り離そうとする、明確な断絶線だった。
「行くぞ」
黒瀬先生が、ハッチのレバーを握りながら言った。
真広は右の肩関節を小さく回し、盾の固定具を黙々と締め直している。
こはるは端末の画面を凝視したまま、小刻みに震える指先で画面をなぞっていた。
律は白銀の焦点具を握る拳に、さらに力を込めた。
その視線が私の足元に落ちる。
「大丈夫、見えるから」
私の口元は、やはり滑らかに笑みの形を作った。
律はうなずかず、ただ、私の目の奥を見つめ返した。
「降下する。掴まれ」
黒瀬先生の短い指示。
降下機が、重い振動とともに白峰の闇へ落ちていく。
直径十メートルの、巨大な光の井戸「白峰(C-TK-042)」。
冷たかった。
空気の冷たさじゃない。
空間そのものが、私という人間を拒絶する、圧倒的な無機質さ。
井戸の、あの感覚だ。
右の手首のORIGOが、脈打ち、熱を帯びる。
◇
ハッチが開いた瞬間、目が眩むほどの白い光が、視界を埋め尽くした。
氷を削り出した、無臭の冷気が肺の奥まで一気に流れ込んでくる。
「大きい」
十メートルはある。大きな白い井戸。
『解析中:──▒▒▒■──』
頭の奥に、ノイズの混ざったログが落ちてくる。
ORIGOが、井戸の縁に刻まれたあの読めない文字を拾っている。
壊れた文字列が、脳髄に直接焼き付く。
両手で耳を塞いだところで、無駄な抵抗でしかなかった。
その壊れたノイズは、鼓膜を介さず直接私の脳を揺らした。
瞬間、背後で重金属の噛み合う音が響いた。
ガゴン、と、低い音が耳の奥まで揺らす。
振り返ると、降下機の扉が完全に閉鎖されていた。
パネルの表示は赤く切り替わっている。
ハッチに手をかけるが、冷たい金属はびくともしない。
喉の奥が乾き、張り付く。
「おい、開かないぞ」
真広はハッチのレバーに両手をかけ、肩の筋肉を強張らせて引くが、金属は微動だにしない。
律は白銀の焦点具を握る指関節を白く浮き上がらせ、閉ざされた扉を凝視している。
「帰りたければ、任務を果たすしかない」
黒瀬先生が踏み出す。私も井戸へ一歩踏み出した。
目の前が反転する。視覚に気持ちが悪い歪みを感じて目を閉じる。
「うそ、なにこれ……」
こはるの声で目を開ける。
こはるの指先が、端末の角を壊れそうなほど強く握りしめた。
そこは、白く高い天井が礼拝堂を思わせる空間だった。
壁も、柱も、天井も、すべてが大理石の質感で、白く澄んでいる。
音が、すべて吸い取られていた。
白い床に、人が倒れていた。
一人じゃない。
何人も、倒れている。
先行隊だ。
彼らが、全滅していく瞬間だった。
一人の隊員が、仰向けに倒れていた。
その身体が、削られていく。
血は流れていない。傷口もない。
ただ、指の先から、腕へ、胸へと、ゆっくりと透明に透き通っていく。
削られた部分は、光の粒子になって、天井へ溶けていく。
あまりにも静かで、あまりにも綺麗だった。
けれど、それは人間が美しく死んでいるのではない。
殺されている。
それなのに、彼は穏やかな表情で、救われたと言わんばかりに感謝して消えていく。
剥き出しの狂気だ。
殺されながら感謝する男の姿に、喉が引き攣る。
「ありがとう」
声は聞こえなかった。
けれど、確かにその唇はそう動いた。
そのまま、彼は完全に透明になり、白い床から消え去った。
残されたのは、装備品だけだ。
「おいおい、なんだよこれ……」
真広の低い声が漏れる。
こはるが口元を押さえて、絶句していた。
その、あまりにも美しく削られていく光景を見つめながら、
胸の奥で、奇妙な感覚が広がっていく。
天井へと溶けていく白い霧が、私の頬に触れた。
お風呂の湯に浸かる、心地よい温かさが肌から染み込んでくる。
その快感の反射で、強張っていた頬の筋肉が、勝手に緩んでいく。
口元が笑みの形に歪む。
そして、私の頭の中に一つの言葉が落ちてきた。
──懐かしい。
涙がこぼれるほどの安らぎが、身体の内側からせり上がってくる。
「……あかり」
律の冷たい声が私を呼んだ。
その目が、私の歪む口元を鋭く射抜いている。
白銀の焦点具を強く握りしめながら、彼女は私の異変を凝視していた。
「……やめろ、私」
奥歯を噛みしめる。
けれど、ORIGOの腕輪は静かだった。
『表情出力:安定』
毎回、同じログだ。
安定の意味が、私の頭の中で歪み始める。
「警戒しろ!」
黒瀬先生の鋭い声が、大理石の空間に響いた。
遺体が消えた、その白い床の真ん中で、
何かが、顔を上げた。
全身が真っ白な光で形作られた、人の形をしたもの。
あの隊員たちを喰ったものと同じ、穏やかな光だった。
それは、ゆっくりと、こちらを向いた。




