第10話 記録の外で
―幕間・灯真―
夜の十一時を回ったところで廊下の電気が消えた。
母が寝た合図だ。
俺は机の上の端末から目を上げないまま耳だけを廊下に向けた。
階段を上がる足音が八段目で一度止まる。
姉さんの足音だ。
最近いつもそこで止まる。
ここ二週間で止まるようになった。
その前まではこうじゃなかった。
止まってそれから二段。
残りはゆっくり上がってくる。
俺の部屋の前を通って姉さんの部屋のドアが閉まる音。
ドアの閉まり方も最近少しだけ静かになった。
夕飯のとき母が独り言みたいに言ったやつがまだ耳の奥にいる。
「あかりの目、最近、疲れてない?」
姉さんは「疲れてないよ」と答えた。
今日は俺は何も言わなかった。
言えなかった、のほうが正しい。
心配を口に出すと姉さんは余計に笑う。
笑われるとこっちが何も持っていないことになる。
俺は端末の画面に視線を戻した。
◇
ホームAIのセッションを起こした。
白い対話面が机の高さに浮かぶ。応答待ちの薄い円がゆっくり呼吸している。
俺はキーで打ち込んだ。声は出さない。母の部屋に届く距離だ。
── 育成科の生徒が測定の後で目の不調を訴えるのは普通か。
円が三度回って答えが出た。
『ご家族の健康面のご相談は、お住まいの地域の認可医療機関へお繋ぎいたします。育成科ご在籍生徒には、校内保健室の認可AIサポートが常駐しています』
丁寧な定型だった。
予想していた答えと一語もずれていない。
俺は次を打った。
── 適性測定で目に出る副作用の事例。
『該当する確定情報はございません。能力測定に関する公式情報は、文教管理省広報をご参照ください』
ナビは親身に応答する。親身であればあるほど中身が空になる。
俺は最初から答えを求めて訊いていない。壁の厚みを測っている。
壁は厚い。想定の範囲だ。
もう一つだけ訊いた。
── 計測誤差で処理された案件の件数。
『恐れ入ります。お探しの情報はインデックスに登録されておりません』
三件並べた。それで十分だった。
俺はセッションを閉じた。対話面が下から畳まれて消えた。
◇
画面の余白が広く戻る。
ナビが拾わない場所だけが、まだ生きている。
俺はナビの外側へ切り替えた。
検索されるために作られていない場所。
検索されないまま、まだ残っている場所。
最初に開いたのは子育て掲示板の古いスレッドだった。
「うちの子、測定の日から目が乾くって言うんですけど」レス、四件。最後の書き込みは三年前。
誰が読んでいるのかわからないページだった。
もう一段下に滑った。
個人ブログ。
タイトルは「井戸に消えた家族を悼む」。
ヘッダー画像の解像度が荒い。サイドバーのカウンタは四桁の真ん中で止まっていた。
最終更新、一年半前。
コメント欄は0件。コメント欄の下に書き手自身が「だれもこないので、ひとりごとを書きます」と返信していた。
書き手は書き手のことを書いていなかった。代わりに消えた人のことを書いていた。誕生日。好きだった味噌汁の具。歯の生え変わる順番。
その合間に一行だけ、ぽつんと混じっていた。
「最後の数日、目だけが、こちらに近づいてきた気がする」
俺はその一行をしばらく見ていた。
画面の明るさを一段下げた。
別のタブで匿名スレッドを開いた。
タイトルは「再構成って、本当にあるんでしょうか」。
最終レスは四年前で止まっていた。
まじめに取り合っているレスはない。茶化すレスもない。
そのスレの中ほどに転載のキャプチャが貼ってあった。
◇
育成校の生徒らしき匿名の投稿のスクショだった。
何重にも転載されたあとの魚拓だった。
文字の縁に薄いノイズが乗っている。
ところどころ自動削除システムの黒い帯が文字の一部を切り落としていた。
アラートが落ちる直前に保存された不完全な一枚らしかった。
帯のあいだから読める文面はこうだ。
「計測誤差って書かれたやつ、本当に誤差だったことある? 班の子の目、誤差じゃ済んでない」
投稿の下に転載の表示が三件。
タップして辿ろうとするといずれも「投稿は削除されました」になっていた。
三件とも削除されました、だった。
元の発信者の欄を見にいくと「アカウントは存在しません」と返ってきた。
反応をつけている残骸はいつものオカルト系の共有が二つだけ。
俺はそのスクショを長押しした。
メニューが出る。画像を保存。
押す指が、一拍、遅れた。
保存した。
保存先はホーム画面の隅に今日作ったばかりのフォルダだった。中身はまだ一枚もなかった。
一枚目が今、入った。
投稿の末尾に半角の英数字でタグが一つ貼ってあった。
知っているタグだった。表のSNSに貼ればすぐ消される側の。ナビには絶対に通らない側の。
◇
検索窓にそのタグをコピーした親指が、貼り付ける直前で、止まった。
貼り付け、の小さなポップアップが浮いている。
その下のサジェスト欄は空のまま白く開いていた。
指を画面の上一センチのところで止めたままにした。
貼った瞬間に、こっちに飛んでくる。
なにが、とは言わない。
俺の端末が、俺のことを売る。
俺が、明日まで戻れない側に、行く。
俺は親指を画面から離した。
貼らないまま戻るのアイコンを押した。
スクショだけが端末の中に残った。
端末を裏返して机に置いた。
時計を見ると午前一時だった。
階段はもう誰も上がってこなかった。
◇
朝の三和土は、夜のあいだに冷えた空気がまだ床に残っていた。
玄関に姉さんの靴が揃えてあった。
よく見ると左の靴だけ、つま先が内側に巻き込まれていた。
右の靴は普通に揃えてあるのに、左だけが自分の意志で並べた向きではなかった。
昨日まではこうじゃなかったと思う。
姉さんは台所で母と何か話していた。
声の高さはいつもどおりだった。
ただ相づちを返す母の間隔がいつもより半拍長かった。
姉さんとの間に、母が薄い壁を一枚置きはじめていた。
たぶん母も気づいていない。
俺は何も言わずに自分の靴を履いた。
通学路でポケットの中の端末がいつもより少しだけ重い気がした。
スクショ一枚分。
画像のキロバイト数で言えば重さなんてない。
ポケットの布が太ももの外側に確かに当たっていた。
昨日貼らなかった文字列はコピー履歴のどこかにまだ残っているはずだった。
端末をポケットの中で一度握り直した。
信号が青に変わった。
それでも俺は一拍だけ渡れなかった。
ポケットの中で訊かなかった言葉だけが、まだ重かった。




