第三話 暴力歌・4
「お疲れみたいですね」
「ええ、まあ」
十三たちのいる部屋に戻り、時哉と並んでベッドに腰掛け、二人は十三の淹れたオレンジペコを飲んでいた。
「で。でも、どうだ。伝わったか」
と、時哉に問いかけると、時哉はあっさりと、
「割に合わないって思っちゃった。他の可能性はないのかなーみたいな」
と率直に言い放った。
「だから、お父さんはお前に、頑張ることの素晴らしさを……」
「可能性とはいい言葉ですね」と、そこで十三が横槍を入れた。「科学の世界はいつだって可能性の世界です」
可能性といえば……確かに、それは大切なことではあるのだが……と、時成は複雑な気持ちになった。そんな時成を見て、時哉はやはり心配そうな顔で疑問を述べた。
「何でまたそんなに今の場所にこだわるのかわからない」
と言われれば、もちろんその答えは決まっている。
「それは、家族のために」
「もっと自分の体を大切にしてほしいなぁ、そんなに家族のためにって言うなら」
「……」
「他にやりたいこととかないの」
「それは……」
やりたいこと。昔から走ることが好きだった。ホノルルマラソンにチャレンジしたいという夢が若い頃からずっとあった。そもそも走ること自体が好きなため、実は叶うなら毎朝天気のいい日にジョギングをしてみたいとずっと思っているのだ。しかし、今の会社の在り方ではそんなことはとてもできない。ストレスの発散のために毎日の昼食にコンビニでドーナツを買っているせいで今の会社に勤めてから十五キロも太ったことを思う。
「それは……」
「変化を拒むって言うのは、お父さんの言うところの戦ってないって言えるんじゃないですかね」
「……」
十三の言葉に時成は頭を抱えた。頑張るということと自分の可能性を大切にすることは両立するはずだが、しかし……今の自分は闇雲に頑張って自分の可能性を無碍にしている、と、思う。
十三は言った。
「お父さん、ちょっと夢の痕跡が残っているようですね。だいぶお疲れ気味ですし。しばらくお休みされてはいかがですか」
「そうします」
と、即答しながらふらふらになって立ち上がる。やはり戦場で殺されて死ぬというのは夢の世界であってもインパクトのあることだった。
「でもあの、さっきのベッドは、ちょっと」
例のシミュレーションが嫌な思い出になってしまった。
「リビングにソファがあるので」
「わかりました。じゃあちょっと、失礼します。時哉、博士にご迷惑をおかけするんじゃないぞ」
と、ゆっくり部屋を出ていく時成に、十三は投げかけた。
「お疲れ様でした」
お疲れ様。その言葉は基本的に、言われて言うセリフであった。自分は会社に一人居残ることが多いので、何も言わず無言で立ち去ることが多い。
会社の人間関係自体は良好だが、いつも孤独を感じている。
おれ、仕事辞めようかなぁ。おれにとってあの会社って何なんだろう。もうちょっと自分のことを大切にしてあげようかなぁ。家族のことを大切にしたいって思うように、もっと自分のことを大切にしてあげられたらなぁ。ああ、おれ、あの会社辞めようかなぁ。
などと思いながら、時成は部屋を出ていくのだった。
そして部屋には十三と時哉の二人になった。
オレンジペコをちびちびと飲む時哉に、十三はウインクをした。
「ま、頑張るっていうのはね。頑張りすぎないようにやるものなんだよね」
不思議そうな目で時哉は十三を見つめる。十三はやがて椅子に座り、膝の上で両手を組んで時哉に説明した。
「今回、二人で同時に実験したから、お互いの集合的無意識が混ざった結果だね。だからメカニズム的にお父さんの真の願いってわけでもなければ君の真の願いってわけでもない。同期したときのものということ」
「はあ」
「君の真の願いは?」
柔和な笑みで、しかし自分の目をまっすぐ見つめる十三の瞳に、何だか時哉は吸い込まれそうになった。
自分の真の願い。時哉は考える。そりゃあ、学校に普通に通えたらいいなと思う。勉強もわかるようになりたい。授業についていけるようになりたい。体育も家庭科も音楽も、もちろん万能というのを目指さないまでも、やれる範囲でやれるようになりたい、とは、思う。
さっきは時成にああ言ったが、実際、時哉は息子として父親に感謝している。家族のために身を粉にして働いているのが夢とはいえ会社の風景でちょっとわかったし、その努力を意味がないとまでは流石に思わないし思えないし思いたくない。ただ、だからと言って、それにしてももっと穏やかな働き方のできる会社なんていくらでもありそうなものなのにと思う自分は、果たしてまだまだ子どもなのだろうかとも思う。しかし……だからと言って、体や心を壊してしまっては元も子もないはずだ、と、思うのだ。
しばし逡巡し、やがて時哉は答えた。
「でも、お父さんの言うように、いろんなこといっぱい頑張れたらなぁって。あと、ちょっとしたことでいちいち落ち込まないようになれたらなぁって、それはそう」
「うん。そうだね」
「もっと、なんか、お父さんみたいに、粘るのも大切だよなぁって、それはそう」
「そういうことはね。ゆっくりやっていけばいいんだよ。君のペースで」
時哉はちょっときょとんとする。
十三は続けた。
「そしたらいつか君のなりたい自分になれるかもしれないし、もちろん、なれないかもしれない。一生ね。例えば、学校も完全不登校になってしまうかもしれない」
「それは……嫌だなぁ」
「でも、“こう在りたい”って思って願って動いていれば、たとえ叶わなくとも、きっと夢は叶う。それは君の元々の真の願いとは違った形になるかもしれないけど、でも、絶対に幸せになれるから」
「本当? 絶対?」
「この天才科学者多鍵十三博士の言うことを疑うのか」
二人でクスッと笑い合う。
時哉はちょっと言ってみた。
「博士みたいな大人の人、あんまり周りにいないから、ちょっと新鮮」
「それは結局、私は要は、君の人生がどうなろうがそこは別にどうでもいいからだよ」
「ええー」ちょっとがっかりした。「そんなぁ」
「多分、今日ここでお別れをしたら、もう私と君は二度と会わなくなるだろ」
「かな?」
「でも、お父さんやお母さんは、ずっと君のそばにいる。学校の先生も、君が学校にいる限りずっとそばにいる。あ、異動になることはあるけど」
「?」
「だからそれだけお父さんには、君に責任があるんだよ。なんてったって、作った責任がある。それは無関係な私とは比べ物にならない重く大きな責任がね」
「責任」
「それだからこそ、ちょっと君にとって難しいことを言うことも、あるんだよ」
十三が何を言いたいのかは何となく感じ取れた。
「ぼく、お父さん好きです」
「それならいいんだ」
と、十三は微笑み、そして、優しく声をかけた。
「だからね。だらだらでいいし、一生懸命じゃなくてもいいから——しぶとくやっていこうよ、人生」
しぶとくやっていく。
それなら、自分でもできるかもしれない。
そしたら、自分のなりたい自分に、もしかしたらいつかなれるかもしれない……。
「はぁい」
「それじゃあね。あとでお父さんに、きちんと説明してご覧。やるべきことはちゃんとやるから、ゆっくり自分のペースで頑張らせてって」
「うん」
晴れやかな顔で素直に頷く時哉が何だか十三はかわいかった。
「そしたらそのうち、またいつかどこかでお会いしましょう」
というわけで、今回の実験は幕を閉じるのだった。




