*72 猫と飼い主と
「……思ったより早かった」
私を認識した彼は、そう言って微笑む。
煙草を携帯灰皿にしまい、手招きする。
洗いざらしそのままの髪に普段はしない眼鏡が、なんか違和感。
「まぁ、座って」
ポンポンとベンチの上を叩いて促す。
彼の隣に腰を下ろすと、すかさず缶コーヒーが手渡される。
まだ、ちゃんと暖かい。
「卒論は?」
「徹夜で仕上げた。それでも二日かかったけど。今朝提出しに行って、さっきまで寝てた」
なんでもないことのように言う彼の目の下には、うっすらと隈が残る。
良く言う。
もう少しで卒業すらやばかったくせに。
「いつもはもっと早いのに」
「いつもならね。今回は君のことで手につかなかった」
……何も言い返せない。
「……あのさ」
彼にしては珍しく、その口を重たそうに開く。
これが彼の本題なのか。
「僕は君が好きだ」
あの日も何度も同じ事を言われた。
いや、それ以前から幾度か言っていた。
「あえて付き合おうとか言ったことはないけど、僕は君と一緒にいたいと思う」
「……うん」
「正直、結婚とかその先の事はまだわからない。でも、一緒にいたいと思うし、一緒にいて欲しい」
膝に目を落とす。
『正直、結婚とかその先の事はまだわからない。』
そんなこと正直に言わなくたっていいじゃないか。
言わなくたって一緒にはいられる。
今更、中学生や高校生の恋愛じゃないのだから、そんなことは解ってる。
でも、それを宣言しなくては済まないのが彼なのだろう。
「だから、一緒に暮らそう」
「……、……は?」
思わず耳を疑った。
空耳ではないのかと。
聞き間違えではないのかと。
だから、聞き返す。
だって、堅物な彼からそんな発言が出る訳ない!
「だから、一緒に暮らさないか?と言ったんだ」
あたしの反応に面白くなさそうに、片眉をあげて唇を尖らせる。
──あ、ご機嫌ナナメになった。
元々冗談でそんなことを言う人でないのは解ってるけど、意外だったのだ。
同棲しよう、だなんて。
「僕だって、独占欲はあるつもりだけど? 君をみすみす、糸屋や深沢先輩の元に行かせるつもりもない。大体、」
──君は危なっかしいんだ。
彼が言外に込めた意味は理解出来た。
自然に唇が上がる。
「……なんで、笑ってるかなぁ」
──見られてた。
自然とニヤけてしまっていたのを、見咎めるように彼は横目で見る。
あたしが馬鹿なことをやっている時のように、呆れたような顔で。
「……ゴメンゴメン。つい、ね」
「……僕は結構、真面目に話してるつもりなんだけどな」
「だから、ゴメンって」
あ、そっぽ向かれた。
なんか猫みたいだな。
飼い猫(市田)に構ってもらえない飼い主みたいな?
どっちかと言うと、王子様と召使な関係なんですけど。
俗に言う、ツンデレって奴なんだろーか。
「で?」
「?」
「どーすんの? 一緒に住む? それとも今のままがいい?」
……それ、今のままって答えて、本当に今まで通りでいられるのかな。
……断る訳もないけど。
「……一緒に住みたい、です」
「うん。断る訳ないと思ってた」
そう言って笑った彼は、めちゃめちゃ綺麗で。
……あぁ、あたし、こいつには勝てない。
そんなことを思った。
「何、考えてんの」
ぐい、と腕を引かれる。
あ、と思った瞬間には、彼の腕の中に収まっていた。
下から見上げるように顔を覗き込まれる。
「顔、近いって」
「うん。キスしようと思って」
含みのある笑顔で。
絶対、からかってやがる。
「……あたしで遊んでない?」
「さぁ?」
顔がもっと近くなって。
思わず目を閉じると、額に柔らかいものが触れる。
──騙された!
目を開けるとやっぱり悪戯が成功した子供みたいな笑顔。
解っててやってる分、始末が悪い。
「……意地が悪い」
「でも、好きなくせに」
「うっ」
あぁ、もう。
なんでこんな奴、好きなんだろ。
擦り寄ってきたかと思えば、勝手に離れてく。
かと思えば、また懐く。
……彼からしたら、あたしもそうなんだろうけど。
「歩」
彼の名前を呼ぶ。
彼の目があたしを見る。
手を伸ばして、彼の左目を覆う前髪に触れる。
瞬間、彼の身体が強張る。
でも、あたしの行為を止める訳でもなく。
前髪を払って。
滅多に見ることのない彼の両眼があたしを映す。
その薄い唇にキスを落とした。




