*70 ちゃんとした約束
視界が歪む。
ちゃんとコンタクト入れてるのに。
見えない。
「市田、じゃなくて歩! ちょっ……泣かないでよぅ」
彼女の慌てたような声に、自分が泣いていることに気付く。
慌てて手の甲で目元を拭う。
でも、霞は取れない。
しまいにぼたぼたと零れだす。
「……っごめん」
涙が止まらない。
悲しい訳じゃないのに、痛い訳じゃないのに。
なんだか恥ずかしくて、情けなくて顔を背ける。
真っ直ぐに見れない。
「……ほんとごめん」
「ね、こっち向いてよ」
頬に少し冷たい彼女の指先が触れる。
僕の顔を挟むように添えられた手に、強制的に彼女の方へと向かされる。
瞬間。
額に柔らかな物が触れた。
触れた柔らかい物が、彼女の唇だということにはすぐに気が付いた。
額に触れたそれは滑り落ちるように瞼に触れて。
頬を伝って。
僕のそれへと触れる。
「……さ、」
「……佐伯じゃない、」
有無を言わせない。
そんな口調で。
再び口を塞がれる。
あぁ、いいのかな。
ずっと呼べなかった名前。
口に出来なかった言葉。
「……な、奈津」
「……やっと呼んだね」
やっとの思いで口にした名前に、彼女がにんまりと口の端をあげる。
いつもの自信ありげな表情。
僕がそれに弱いのを知ってか。
君のそれに僕は勝てる気がしないよ。
「……俺は君を好きだよ」
「……知ってる」
「……他の人を見る隙もないくらい、好きだから」
どう気持ちを伝えればいいんだろう。
いくら言葉を尽くしても足りない。
いくら言葉にしようとも、この情けないくらいの想いは伝えられない。
「……どうかなぁ?」
また、意地悪そうに微笑む。
こんなときくらい、茶化さないで。
「それはない。俺は多分、結構諦めが悪いと思うけど」
だって、高校生の頃からずっと君を好きで、それは今もそうで。
これが諦められなかった俺の成れの果てだから。
そこを否定しないで。
「あたしも歩が好きだよ」
「……っ」
多分、彼女にとって最上級の柔らかな笑顔で告げられる。
「……だから」
更に言葉を紡ごうとする彼女の唇に指で触れる。
それくらいは言わせて。
それが散々君を振り回した俺からの譲歩。
「……ずっと側にいて」
返事はさせない。
しなくたっていいだろ?
彼女の体を引き寄せた。
どれくらい経っただろうか。
部屋に刺す日の光が陰ってきて少し色付いた。
ただ抱きしめて、言葉も交わさずにそこにいた。
「……あ!!」
突然、腕の中にいた彼女が声を上げる。
「……何?」
もう少しこうしていたかっただけに、少し不機嫌になる。
もう少し、抱きしめていたかった。
「卒論! 歩、卒論終わったの!?」
「……データはもうある。論文は一日もあれば書ける」
そんなことか、とため息をつく。
今言わなくてもいいじゃないか。
「や、それは喧嘩売ってんのかな?」
「いや、事実だし」
「~~~~っ、完璧主義者めっ」
「それ、ちょっと違う。完璧主義は否定しないけど、僕は完璧じゃない」
さらっと言ってのける。
だって、間違ってはいないでしょ。
それが彼女の気に障るのは分かってるんだけど。
「とりあえず帰りなさい。そして書け」
「……やっぱり君は研究に向いてるよ」
「なんだって!?」
だって、ほら、そういう所が保田さんに似てきてる。
「いや、なんでもない。今日は帰るよ」
あまり逆らわないでおく。
後が怖いし。
「卒論が終わったら……」
ちゃんと顔を向かい合わせる。
ちゃんと話したいことがある。
「終わったら?」
「話したい事がある」
「……うん」
「……ちゃんと、するから」
「……うん」
そっとキスを落とした。




