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*68 朱に染まる

「んなもん、お前がその気になったら1日で書けるだろーが。いいから、いますぐ行け?」

 

 

「……すみません。今日は帰ります。蓮見先生には適当に言っておいて下さい」

 

「あ~、わかったわかった。さっさと行け」

 

 樋田さんが犬でも追いやるような仕種をする。

 

 樋田さんが青筋を立てた笑顔で言ったから、ではなく、僕は僕の意志でコートとバッグを片手に研究室を飛び出す。

 

彼に逆らったらただでは済まない、という訳ではなく、スロースターターな僕の起爆スイッチを押しただけなのだと……出来ればそう思いたい。

 

「……馬鹿な奴ら」

 

 室内に響いたのは誰の独り言か。

 

 くわえた煙草に火を付けると紫煙が立ち上り始める。

 

その煙がうっとおしいとでも言うように、目を細めた。

 

本来、この学内は禁煙が義務付けられているが、誰もいないときは隠れて吸うこともある。

 

研究生の中には気付いている者もいるだろうが、幸い未だ直接注意を受けたことはない。

 

 樋田は、市田が研究室棟から飛び出して行くのを眺めていた。

 

 

 

 (はし)る。

 

改札を定期ですり抜けて、バスを待つ時間すらももどかしくて。

 

息が切れだす。

 

最近忙しさにかまけて、走り込みをサボってるからか?

 

思ったよりも体力が落ちているようだ。

 

 こんな情けない姿で行ったら笑われるのは目に見える。

 

そんなことを考えて緩んでしまう口元も。

 

 よくもまぁ、やるよな。

 

ここまでするか?

 

当の自分ですらそう思う。

 

全てが彼女に会いたいが為、なんて。

 

 諦めのいい、聞き分けのいい方の人間だと思ってた。

 

結局そんなことはなかった。

 

表面を装って、壁を作って、人当たりの良い自分を演じて、本心を隠して。

 

心の底のドロドロとした欲望を隠して。

 

でも、結局彼女を欲してる。

 

じゃなきゃ、息を切らしてまで走って彼女の元に向かう僕は何なんだ?

 

説明がつかないじゃないか。

 

 記憶だけを頼りに彼女の住むアパートに向かう。

 

築15年は経過しているであろう階段を一気に駆け上がる。

 

足音が響くが、そこを気にする余裕は今の僕にはない。

 

 通路の一番突き当たりの彼女の部屋を目指す。

 

心臓は早鐘を打つように収まることを知らない。

 

 ドアの前に立ち、収まらない心臓を沈めるように呼吸を整える。

 

今までにこんなに緊張したことはあっただろうか?

 

元々どちらかというと上がり症ではあるのだが。(そうは見えないとよく言われるけど)

 

 拒否されたらどうしよう?

 

会いたくないと言われたら。

 

悪い予感ばかりが頭に浮かんでしまう。

 

今日の僕は凄く情けない。

 

彼女にとっての僕の姿からはきっとかけ離れてる。

 

ドアの前でそんなことばかり考えて躊躇している姿なんて、君には見せたことはない。

 

その僕にとっての情けない僕を君の前に引きずり出そうとしている。

 

震える指でチャイムを鳴らした。

 

「はぁい?」

 

 チャイムを押してしばらくして、パタパタという足音と間延びした声の返事が返ってくる。

 

そして、僕が返事をするよりも先にドアが開いて、彼女が顔を覗かせる。

 

それもピンク色の手触りの良さそうな部屋着のままで。

 

「………あ」

 

「…………」

 

 目が合って、彼女が固まる。

 

「……君は」

 

「……あ、えと……」

 

「何回言ったら解るんだ!? あれほどドアを開けるときはチェーンをかけてからって言っただろう!? これが僕じゃなかったらどうするつもりだったんだ!? 大体、その恰好で出るのがおかしいのが解らないのか!?」

 

「……え、そっち……?」

 

 佐伯が反応に困ったような表情で僕を見上げる。

 

その目線は結構やばいかもしれない。

 

ささやかな加虐心を煽る。

 

「……話がある。部屋、上げて」

 

 彼女の返事なんて求めていない。

 

来客の顔も確かめずにドアを開けた君が悪い。

 

「あ、うん。散らかってるけど、どうぞ」

 

 勝手に押しかけたのはこっちなのに。

 

全く素直なのかなんなんだか。

 

もしかして、本当に安全パイだと思ってる訳じゃないよな?

 

「……なんか飲み物でも」

 

「いい。いらない」

 

 この気まずさを打開しようとした彼女の行動は無駄だ。

 

立ち上がろうとした彼女の腕を掴んで、引き寄せる。

 

彼女の体が思うよりも簡単に腕の中に収まる。

 

掴んだ腕の細さに、腰に回した腕に伝わる柔らかさに彼女が女だと再認識させられる。

 

「……いっ市田!?」

 

 僕の腕の中で佐伯が抗議の声を上げる。

 

「……佐伯」

 

 名前を呼んで、見上げてやる。

 

見る見る朱に染まっていく彼女が僕を見下ろしていた。

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