*60 見覚えのない
佐伯が深沢先輩に研究室から連れ出された後も、僕は研究室に残っていた。
佐伯の事が気にならなかった訳ではない。
しなければならない仕事があったからだ。
こう言うとなんだか僕が気にも掛けていないように見えるかもしれないが、別にそういう訳じゃない。
内心、というか頭の中は、はっきり言ってぐちゃぐちゃだった。
解ってはいたものの、実際目の前に突き付けられたモノが自分の思う以上にショックだった。
それでもしなくちゃいけない仕事をこなして、夜9時頃研究室を後にする。
「帰って支度するのも面倒だな」
大学の最寄りの駅に着いてからそんなことを思う。
支度、というのは夕食のことだ。
そういえば、今朝の朝食の支度に冷蔵庫を開けた時、その中身が随分寂しい状態だった。
このまま自宅に戻っても大した食事にはありつけそうにはない。
定期の入ったパスケースをトートバッグにしまい、代わりに長財布を取り出す。
街中まで出ようと思ったのだ。
街中ならこんな時間でも食事は出来る。
──藤原君の店にでも行こうか。
彼にもしばらく会っていない。
しばらく会っていないのは彼だけではなく、他の友人達もそうだが。
──皆は元気だろうか。
まぁ、何も言って来ない所を見ると元気なんだろうけど。
そんなことを電車の中で考えた。
相変わらずの喧噪。
そして、ネオンの海。
こんな時間だというのに明かりは煌々とし、人は絶えることがない。
行き交う人の波を掻き分けて、目当ての雑居ビルへと向かう。
ここにたどり着くまでに、一体何人振り切ったのだろう?
……多分、からかわれてるんだろうな、と思うが。
こんな学生風情が行くような店ではないはずだから。
『Cafe & Bar La noche』
そう書かれたプレートをオレンジのライトが照らしている。
年期の入った重たい木製のドアを押し開けると、ベルの澄んだ音が鳴った。
「……いらっしゃい」
カウンターの中のやけにガタイの良い、バーテンダー風の格好の藤原君が迎えてくれる。
カウンターの奥に一人の女性客がいた。
心なしか彼がほっとしたような表情を浮かべたように見えた。
「……珍しいな、一人か?」
「あぁ、うん。一緒ではないよ」
答えながら、コートを壁のハンガーに掛け、カウンターに着く。
そういえば、彼女と二人でこの店に来たことはない。
「メニュー貰える? まだ夕飯食べてなくて」
そう言うと、すぐに革表紙のメニューを手渡された。
「とりあえず、チキンピラフのセットで」
「……わかった」
そう返事をした藤原君は、奥に座る女性と小声で二言三言言葉を交わしてから、奥の厨房へと姿を消した。
藤原君を待つ間、目の前に出された水のグラスに手を出す。
一口飲むと微かな酸味が広がる。
レモンを搾った水らしい。
変な所に凝ってるんだなと感心する。
「……初めまして。市田先輩ですよね?」
奥に座っていた女性客がいつの間にか二つ隣の席に移ってきていた。
驚いて彼女を見るが、見覚えは全くなかった。
「……? どこかで会ったことありましたか?」
──いや、彼女は『初めまして』と言っていた。
染めたことのなさそうな黒髪を肩の辺りまで伸ばし、顔立ちは中々勝ち気そうな感じ。
僕よりはいくらか若いだろう彼女をまじまじと見つめた。
彼女に見覚えは全く、ない。




