*58 牽制
「佐伯奈津さんはいますか?」
研究室のドアの前に立っていたのは深沢先輩だった。
そう認識したら返答が出来なくなった。
──深沢(柴崎)ルミさんのお兄さんで、佐伯の見合いの相手の深沢庸さん。
その彼が立っていたのだから。
「……あ、」
「……君は確か、柴崎の友人だったか?」
先輩とは何度か会ったことがある。
中学、高校時代に何度か。
「……はい。市田、と言います」
「そうか、市田君だったか。……悪いが、佐伯さんを呼んで貰えるかな?」
たったそれだけの会話なのに、背中を嫌な汗が伝う。
凄くプレッシャーを感じている。
「佐伯」
こうして振り返っている間も、背後にいる彼の存在を感じている。
彼の視線が僕の背中を離れない。
「あたし?」
佐伯が首を傾げながらこちらにやってくる。
「……そう。深沢先輩」
彼女と入れ代わりにそこを離れる。
僕がいる必要はなくなり、間近のプレッシャーから解放される。
──牽制?
その可能性に思い当たり、先輩に目を向ける。
佐伯と小声で会話を交わす先輩と目があった。
その目は全く笑っていない。
その他の表情は柔らかいというのに。
彼はここまで僕に牽制をするために来たというのか?
どこまで知れているかはわからないが。
しばらくして、佐伯が僕の隣のブースに戻り、帰り支度を始めた。
先輩はまだドアの付近に留まっている。
「……あたし、今日はもう帰るから。また明日」
「……あぁ、うん」
先輩と行くのか?
そんなわかりきったことすら、聞けなかった。
聞く権利なんて僕にはないのだ。
「ではでは、お先に失礼します~」
トレンチコートとトートバッグを片手に掴み、開いた手をひらひらさせて彼女が去ると、研究室は騒然となった。
「あれは、誰!? ってか、佐伯の何?」
「……中学・高校のOB。で、友人のお兄さん」
さすがに佐伯のお見合いの相手とは僕の口からは言えない。
「……なんかあの人、見たことあるような気がする。何やってる人?」
腕組みした樋田さんがそう言う。
おぉ、まともな事言ってる。
「あ~、建設会社会長の孫にあたるそうです。役職までは知りませんけど、実質の経営者だって聞いてます」
「……あぁ! そっか深沢建設の! 新聞かなんかで見たことがあるんだな、多分」
僕の説明で思い出したらしい。
新聞とか雑誌に載ったことかあるんだ、あの人……。
「ふぅん。で、あれは佐伯の何なわけ? 恋人って訳でもなさそうだけど、友達って感じでもないし……」
……研究室での噂話は真実を掠め、どこまでも現実から離れていく。




