*55 大人
携帯電話が鳴る。
ディスプレイを見なくても誰からか解る。
ここのところ、しばしば同じ時間にかけてくるのは彼しかいない。
「はい」
「こんばんは」
「こんばんは、庸さん」
テレビの側の目覚まし時計に目をやる。
ちょうど22時。
「……忙しかっただろうか?」
「いーえ? 部屋でくつろいでたとこです」
半分本当で半分は嘘。
部屋でネットサーフィンしてた。
そう言えないのは何故?
「そうか。よかった…」
よく通る低めの声に、抑揚の感じられない台詞。
ふっと吐いた吐息に、彼がこの電話にどれだけ気を使っていたのかがわかる。
思わず口元が緩んでしまう。
……だから嘘をつく。
嘘をついても簡単に見破って疑いの眼差しを向ける市田とは反対に、この人は警戒心が高い割に身近な人を疑うことを知らない。
一旦、懐に入れた人間を疑うなんてことはしない。
一つの会社を任される人なのに、根は素朴で素直な人なのだ。
……だからこそ傷つけたくない、心配させたくない。
やってることは真逆かもしれないが。
「変わりはないか?」
前に話したのはつい三日ほど前だというのに、毎回同じことを聞く。
彼なりに心配してくれているのだろう。
「うん。特には。庸さんこそ、変わりはない? 体調崩したりとか」
「私の方も変わりはないよ」
心なしか彼の声が明るくなった気がした。
「……来週」
「え?」
「来週、仕事でそっちに行く。食事でも付き合ってもらえないか?」
来週、何か用事があっただろうか?
大した用事は思い当たらない。
「ん、いいですよ。是非」
「じゃあ、日程がはっきりしたらメールする」
「うん。わかりました」
約束を交わして電話を切る。
わずか数分。
彼はその数分のために電話をかけたのだ。
「……ははっ」
……また、断れなかった。
お見合いの返事すらしていないのに、何度もこうやってタイミングを逃している。
もう、何度も電話で会話しているのに。
既にこの会話が返事だと思われているのではないだろうか。
友達の兄。
お見合いの相手。
庸さんはそれらの垣根を越えるべく、こうやって私に近づいて来る。
荒々しいタイプの人ではないから、徐々に自然に近づいて来るだろうが、私の目の前にたどり着くにはそうは掛からないだろう。
その時に私はどんな答えを用意するのか。
『ありがとう』?
それとも『ごめんなさい』?
そこまで近づいて来た相手に、それはないのではないか?
それまでに拒む権利は与えられていたというのに。
この歳で、こんな悩みを抱えるとは考えもしなかった。
付き合ってと言われて断るのとは違うのだ。
もう少し複雑で難解な問題だ。
「市田に相談する? ……いや、駄目だ」
彼に相談なんて出来ない。
それじゃあ彼を試して、利用しているみたいじゃないか。
そんなことは鋭い彼ならすぐに見抜かれてしまう。
彼に軽蔑されるのは嫌だ。
だからって、今の状況も良いものではないけれど。
誰にも相談は出来ない。
友達にも、両親にも、一番信頼してる人にも。
それが凄く苦しい。
「……大人になるって厄介だ」
側にあったクッションに顔を埋めた。




