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*43 「ただいま」

 次の日、朝早く目が覚めた。


と言っても僕の場合はいつもと変わりないんだけど。


 寝てても仕方ないので服に着替え、身支度を整える。


細身のジーンズにグレーのTシャツ。


その上に黒のカーディガンを羽織る。


普段と変わらない。


 部屋を片付けて、階下へ降りていく。


物音がするので誰かは起きているだろう。


 階段を降りていくと朝食の支度をしているのか、良い匂いが漂ってきた。


「おはようございます」


「おはよう、市田君」


 居間には背広を着た佐伯の父親、まだ部屋着のままの明良君、台所には佐伯の母親が朝食の支度をしていた。


「随分早いのね、市田さんは。あの娘に爪の垢を飲ませたいわ」


「佐伯はまだ寝てますか?」


「全然。寝起き悪いからね、あの娘」


 一緒の時はそうでもなかったな、と思う。


そんなことは口が裂けても言えません。


「あの……ですね」


 僕は意を決して口を開く。

 

 昨日の夜から考えていたことだった。


というか、昨日の夜もそうするべきだったのだ。


「僕は今日のうちにお暇しようと思っています」


 ここは僕なんかのいるべき場所ではない。


……佐伯家の団欒を壊すわけには行かない。


 余程思っても見なかった申し出らしく、昨日あれだけ突っ掛かってきた明良君でさえも、目を丸くしている。


「暇するったって、あてはあるのかい?」と、佐伯父。


「普段は人に頼んで管理してもらってますが、両親の遺した家があります。たまに戻った時くらい様子を見に行かないと……。それにやることもありますんで」


 やることなんてない。


不動産屋にお金を払って管理してもらっているのだ。


そうでも言わなければ納得してもらえないに違いない。


「そうなの……」


 佐伯母が手を拭きながら台所から出てくる。


話は聞こえていたようだ。

 

「それは仕方がないわね。でも、あっちに戻る前の日は是非泊まって行って?」


「……それは是非」


 顔を出すのが礼儀だろう。


例え招かれざる客だとしても。


「実はまだ佐伯には言ってないんです。今から起こしついでに話をしてきてもいいですか?」


 夫妻が顔を見合わせる。


まだ若い娘が寝ている部屋にどこの馬の骨かもわからない男を入れて良いものか判断がつかないのだろう。


「姉貴の部屋は上がってすぐの部屋。蹴られんなよ」


 そう言ったのはすでに朝のニュースに見入っていた明良君。


それを聞いて僕はその場から退出した。

 

 

 

 一応ノックをする。


もちろん部屋の主の返事があるわけもなく、自らドアを開けた。


 一人暮らしの部屋とは違い、これぞ女の子という感じの部屋。


きっとこの家にいたころそのままなのだろう。


 陽に焼けたライティングビューロ、白地に小花を散らした壁紙。


本棚の隙間に納められたぬいぐるみ、ずらりと並ぶ少女マンガ。

 

 彼女はいまだベッドの上でキルトのベッドカバーに包まって寝ていた。


そのベッドの端に腰を降ろす。


「佐伯」


 顔を覆う髪の毛を直してあげながら、声を掛ける。


試験のために染め直したらしい茶髪が陽に透ける。


「起きてよ、佐伯」


 声を掛けながら、こんな姿を佐伯の家族には見せられないなと思った。


これで恋人ではないなんて誰にも信じてはもらえないだろう。


「……ん……」


「おはよう。朝だよ」


 ようやく薄く目を開いた。


眩しそうに顔をしかめる。


「……今、何時?」


「今、7時45分になるところ」


「……はや」


 佐伯は顔をしかめたまま、上半身を起こす。


ずり落ちそうになっているキャミソールの肩紐を直してやる。


「起きた?」


「……起きた。市田、おはよ」


 言いながらも目を擦る。


眠いのは眠いらしい。


もう少しはっきりと覚醒するまで待ってやる。

 

 先程階下でした話を佐伯にもする。


帰る前日に泊まるように奨められたことも話した。


「……そっか。家はあるんだものね」


「うん。だから、様子見てこようと思って」


「……わかった」


 少々不満そうに佐伯は言う。


本気で僕を帰省の間中、自宅に泊めるつもりだったのか。


いくらなんでもそれはどうなのかと思う。


「……あのさ」


「うん?」


「あたしさ……」


 佐伯が口ごもる。


言いたい事はあるが、どう口に出せばいいのかわからない様子だった。


「んー……、やっぱいい」


「何さ。気になるだろ」


「ごめん。着替えるから、先に降りてて」


「あ、うん」


 結局佐伯が何を言いたかったのかはわからず仕舞いだった。


部屋を締め出された僕は階下へ降りた。

 

 

 

 ポケットの鍵を取り出して、鍵穴にさす。


カチャリ、という軽い音がして鍵が開いたことを示す。


 ひとつ、深呼吸。


どうして久々の自宅に緊張するのか。


……誰も待つ人など、いないのに。


ドアを開けるのにこんなに勇気が必要だなんて知らなかった。


 ドアノブを回し、引く。


自宅の中の空気が鼻孔をくすぐる。


 ガランとした玄関。


人のいる気配はない。


 そして僕は言う。


誰もいない家に向かって。


「ただいま」

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