*30 祈り
いつの間にかうたた寝していたらしい。
気が付くとタクシーは佐伯の部屋の近くまで来ていた。
夕方のアルバイトでずっとPCで目を酷使していたからか。
佐伯の部屋の前で止めてもらう。
安くはないタクシー代を払って、佐伯と共に降りる。
「手を貸しましょうか?」
「大丈夫です」
運転手の気遣いを断り、彼女を担ぎ上げる。
まだ、目覚める気配はない。
彼女の部屋は二階の角だ。
階段を上がって部屋に向かう。
「……鍵」
断りもなく、(そもそも聞ける状態にない)彼女のバッグをあさり鍵を探す。
鍵はすぐに見付かった。
まだ眠っている彼女をベッドの上に降ろし、その傍らに腰を下ろす。
眠る寝顔がひどく幼い。
さらさらの髪を撫でた。
改めて部屋を見回す。
彼女を運ぶ時にはそんな余裕はなかった。
初めて入った彼女の部屋。
普段の彼女からすると、もっとごちゃごちゃしているもんだと思っていたが、意外にすっきりしている。
カラフルな色を好む彼女の部屋は、反対にモノトーンで占められていた。
「……嫁になれって言ったの誰だよ……」
片付いてるじゃないか。
僕が嫁になる必要なんてないじゃないか。
佐伯はどこからどこまでが本気なんだ……?
近付いても近付いたとは感じない。
手に入れたと思っても、すり抜けていく。
抱き締めても、心まではわからない。
『捕まえた』と感じたあの夜から、僕はずっと不安に苛まれている。
「……自信がないのは僕の方だな」
『あれは気の迷いだった』
『たった一度くらいで』
君の口からそんな言葉が出るかもしれないことが耐えられない。
そんな最悪な想像をしてしまう自分が嫌になる。
「……いっそ結婚でも申し込んでおけば良かったか?」
そんな考えもしないような一言が口をついて出る。
彼女の耳には届いていないことを祈る。
「……市田?」
名前を呼ばれて、思わず肩が跳ねる。
悪いことなんて何もしていないのに。
「なんでいるの? ……あたしの部屋?」
彼女が寝惚け眼でムクッと起き上がる。
ちょっと新鮮かも知れない。
「……佐伯が酔い潰れて、迎えに行って、さっきここまで連れてきた」
ごく簡単に説明をする。
「そっか、ごめん。飲み過ぎた、かな?」
「多分。後で藤原君には謝っておきなよ」
「……そうする。冷蔵庫の水取ってくれる?」
「あぁ……うん」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、キャップを外して渡す。
それをごくごくとノドを鳴らして飲むのを眺めた。
「それじゃ、僕は帰るから」
こんな夜中に彼女と二人切りは耐えられない。
……嫌だという訳ではなくて。
「は?」
彼女が眉間にシワを寄せて睨みつける。
「いや、だって、僕がいると寝にくいだろ? 僕だって寝たいし」
「今何時だと? どうやって帰るつもり?」
「……歩きでも、タクシーでも」
「この辺、この時間にタクシーなんていないから。歩いたらかなり時間が掛かるけど?」
「……なんとかなるかなって」
やばい、口で勝てる気がしない。
嫌な汗が背中を伝う。
不意に手首を掴まれる。
そのままベッドに引きずり込まれた僕に、彼女は満面の笑みで言う。
「ここで寝なさい?」
それは、断れるんだろうか?
勿論、頷くしか選択肢はない。
「はい、ジャケット脱いで」
言われるがままにジャケットを脱ぎ、ベッドの傍らの椅子の背に掛ける。
「次はこっちね」
「……ちょっと待て!」
人のベルトを外そうとする彼女を慌てて止める。
いくらなんでもそれはどうかと思う。
「だって、寝るんでしょ?」
「だからって、脱がせて貰わなくてもっ」
「あたしも脱ぐよ?」
そう言って目の前でためらいもなく、服を脱ぎだす彼女に、慌てて背を向ける。
一体、彼女はどういうつもりなんだ?
気にしているつもりはないのに、衣擦れの音が耳につく。
「……律儀だなぁ。終わったよ」
振り返ると、彼女は薄手の光沢のあるキャミソールのパジャマに着替ていた。
「市田も脱いでここに来る!」
ベッドの自分の隣のスペースを、ポンポンと叩いて僕を促す。
また、脱がそうとされるのも困る。
急いで脱いでインナーと下着の姿でベッドに滑り込む。
「腕枕!」
「……はいはい」
右腕を彼女に貸して、後ろから抱きしめるような格好で落ち着く。
僕よりちょっと高めの体温に、甘いシャンプーの香りに、腰に回した腕に佐伯を感じる。
……いつしか、彼女は規則正しい寝息を立てていた。
──俺は寝てもいいんだろうか。
うとうととしながらそんなことを考えた。
──明日、佐伯が俺を引きずり込んだこと忘れてなきゃいいけど。




