その11
犬達がこちらへ向かって吠え始めたので、リゼットは慌ててその場を立ち去った。やがて吠え声が遠のき、ガラス張りの窓の死角までくると胸を撫で下ろす。
遠目だが、あれは栗色の長い髪を一つにまとめたミシェルだった。彼女も喫茶店くらい行くだろうが、エプロンを付けてテーブルを回る姿はただの客ではなかったように思われる。
この間の会話では働いていないと言っていたし、そんな素振りもなかった。リゼットは首を傾げて、第二の我が家であるフェリックスの家へ帰っていく。
フェリックスは帰宅早々、ふくれっ面で出迎えたリゼットにげんなりした。
「フェリ様ったら、ひどい。帰ってきたなら連絡してちょうだい」
久々に聞く声は、相変わらず甲高く非難に溢れている。そもそも、彼女に知らせる義理もない。フェリックスの視線は、むくれるリゼットを通り越して奥にあった。
「ミシェルは?」
「キッチンにいるわ。ねえ、ミシェルなんだけど」
そう切り出すと、フェリックスがようやくこちらを見た。
「ミシェルがどうした?」
リゼットは何か言いたげだったが、「なんでもない」とリビングへ行ってしまった。いつもの気まぐれなのか、だが今回はやけに心に引っ掛かるものがある。
私服に着替えたフェリックスがリビングに現れると、ミシェルはまだキッチンにこもっていた。早い帰宅でもなかったのに、夕食ができていないとは珍しい。
実はバイトが長引いて、夕食の仕込みが遅くなったのだ。
「たいちょーさん、お帰りなさい。ごめんなさい、夕食の支度がまだなんです」
キッチンとダイニングテーブルを行き来する彼女をよそに、ソファーで寛ぐリゼットをフェリックスが咎める。
「少しはミシェルを手伝ったらどうだ」
「ええっ!? わたし、料理できないもん」
「皿くらい並べられるだろう」
「だってぇ」
駄々をこねるリゼットに、フェリックスの片眉が小刻みに動いた。これを見たミシェルは、動物的本能でまずいと感じて二人の仲裁に入った。
「もうすぐ終わりますから、お二人は座って待っててください」
「いいから、彼女にさせろ」
「わかったわよ」
渋々重い腰を上げたリゼットが、ミシェルに鼻を引くつかせると顔を顰めた。
「ミシェル、犬臭い」
この一言で、フェリックスとミシェルの心臓が大きく跳ねた。もっとも、二人の動揺の内容は違う。フェリックスはミシェルの正体について、ミシェルはドッグカフェのバイトのことである。
「わ、わたし、犬臭いですか!?」
「ええ。とっても」
「汗臭いだけじゃないのか?」
ガーン!! わたし、汗も臭いんだ……。
彼なりに機転を利かせたつもりだが、別の意味でミシェルを傷つけた。「お風呂、入ってきます」と、肩を落としたミシェルがリビングを出ていってしまった。気まずさに、フェリックスは思いきりリゼットを睨む。
「やだ。そんな怖い顔しないで」
「お前が余計なことを言うからだ」
「だって、本当のことだもの。実は今日……」
「もういい」
リゼットは今日の出来事を話そうとしたが、フェリックスの一蹴にぐうの音も出なかった。むっとして口を尖らす彼女を尻目に、フェリックスは食器をテーブルへ並べた。
いつもより念入りに体や髪を洗ったミシェルがリビングへ戻ると、二人は食事をせず待っててくれた。
「先に食べてよかったんですよ?」
「フェリ様が、三人で食べるって言い張るから待ってたのよ」
一人で食べる食事は侘しい。ミシェルとの同居がもたらした心境の変化だった。ミシェルは、風呂上りで上気した顔を綻ばせて食卓に着いた。
「さっきのことは気にするな」
夕食後、キッチンで洗い物をするミシェルに、フェリックスがそっと耳打ちをする。ミシェルとしては、彼のフォローの方が胸に刺さったのだが。
「だ、大丈夫です。気にしてませんから」
ミシェルは、視線を泡だらけの食器から外せずにいた。こんなにも気遣ってくれるのに、隠し事の後ろめたさでまともに彼が見られない。胸の鼓動が隣のフェリックスに聞こえるのでは心配した時、ふわりと頭にタオルが乗っかった。
不思議に思ったミシェルが見やると、フェリックスが「耳が出ている」と口の形だけで知らせた。彼限定で心拍数が上昇すると、犬耳が姿を現してしまうの体質へ未だ治らない。
ミシェルの顔色が蒼くなり慌てて周りを確認したが、幸いリゼットはこちらに背を向けて雑誌を見ている。
「ここはいいから、部屋に行きなさい」
「でも……」
フェリックスはシャツの袖を捲り、譲らないミシェルとシンクの間に体を割り込ませた。まだこの場にリゼットがいるので、変に意地張って気付かれたらまずい。
仕方なくここはフェリックスに任せて、ミシェルは足音立てずに自分の部屋へ行った。
「あれ、ミシェルは?」
ミシェルがキッチンを出てすぐに、リゼットがソファーの背もたれ越しに振り向いた。間一髪の状況に、フェリックスは人知れず安堵する。
「こっちへ来い」
「なに?なに?」
滅多にないフェリックスの誘いに、リゼットは嬉々してソファーを飛び下りると駆け寄った。フェリックスは彼女の手を取り、耳元に顔を近づける。耳に息が掛かり、くすぐったくてぞくっと身震いした。
フェリ様、ミシェルがいなくなるのを待ってたのね。
このあと言うであろう甘い囁きを待っていたが、現実はそう簡単にいかない。
「あとは頼んだぞ」
フェリックスが握らせたのは、泡まみれの食器洗いのスポンジだった。
「なにこれ? ちょっと!! 色仕掛けなんて卑怯よ!!」
わめき散らすリゼットには目にもくれず、フェリックスは缶ビール片手に自室へ引き上げていった。
深夜近く、フェリックスが廊下を通ると、ミシェルの部屋から灯りが漏れていた。先ほどはかなり落ち込んだ様子だったので、気になってドアをノックする。
返事がないので立ち去ろうとしたところへ、ドアが開いて犬耳のミシェルが顔を出した。目が合った彼女は、驚きながらもリゼットを起こさぬよう小さな声で尋ねた。
「たいちょーさん、どうしたんですか?」
「灯りがついていたから、まだ起きているのかと思ってな」
「なかなか眠れなくて」
「入っていいか」と尋ねたら、彼女は体を開いて部屋へ招き入れた。フェリックスがベッドに腰を下ろすと、ミシェルは床に座り二人向かい合う。
「まだあの言葉を気にしているのか?」
「いえ、そうじゃなくて……。あっ、さっきはありがとうございました」
考えがまとまっていないのか、要領を得ない話し方だ。おまけに、耳が垂れているので沈んだ気持ちは一目瞭然である。
「なにか悩み事でも?」
的を射たらしく、ミシェルが弾かれたように振り向いた。恐らく、決心がつかないまま部屋を訪れたて、どう切り出していいかわからないのだろう。
こういう時は二通りある。本人が言い出すまで根気よく待つか、さりげなく誘導するか。ミシェルの性格だと後者だと判断した。
「私とて完璧な人間じゃない。言葉にしないと分からないこともある」
「実はわたし、働いているんです。成り行きってやつで」
と、打ち明けられたらどんなに楽か。従順が故に、ミシェルの口は心同様重かった。




