その10
アラームが鳴り、ミシェルが目を覚ましたのはベッドの中だった。
あれ? わたし、いつの間に?
モニカの店を手伝って、くたくたの体で風呂へ入り、ソファーで寛いだまでは覚えている。そして、夢うつつでフェリックスの声を聞いた気がした。
キッチンへ向かう際にフェリックスの部屋を通りかかり、ドアをノックすると返事がない。そっと開けてみると、ベッドから覗く黒髪に思わず笑みがこぼれた。
たいちょーさん、お帰りなさい。
心の中で挨拶して、またそっとドアを閉めた。
朝食の支度をしていると、フェリックスが起きてきた。シャワーを浴びてそのまま寝たらしく髪に寝癖がついている。
「おはようございます。お戻りになってたんですね」
「ああ。また行かなきゃならんが」
「大変ですね」
「仕事だから仕方ない」
『仕事』の言葉に、ミシェルの胸がちくっと痛んだ。フェリックスの相談なしに、モニカのドッグカフェを手伝っていることを話すべきかどうかを悩んでいると
「ミシェル。落ち着いたらどこか遊びに行こう」
「え?」
「一泊しようと考えている」
「ええっ!?」
フェリックスとお泊り。それは願ってもない嬉しい申し出だが、ふと頭を横切ったのはアルバイトのことだった。
「いつですか?」
「今週末はどうだ?」
「今週……ですか?」
「都合が悪いのか?」
「い、いえ。あの、その……」
勝手に休みを決めたら、モニカが困るかもしれない。しかし、フェリックスもわざわざ時間を割いて休暇を取るという。だったら、今話すしかないとミシェルは重い口を開いた。
「実は……」
「別に今すぐじゃなくていい。あとで都合のいい日を教えてくれ」
フェリックスの台詞で出鼻を挫かれ、ミシェルはついに言い出せなかった。
ほんの数時間だがベッドで眠るありがたみを噛み締めて、フェリックスは出勤した。隊長室のソファベッドは、妙にクッションが効いて身体に合わず体中が痛い。
ミシェルの手料理も味わって気分も晴々とするところだが、どうも先ほどの態度が気になった。二つ返事で快諾すると思っていたが、予想に反してミシェルは歯切れが悪かったのである。
リゼットに気兼ねしているのか、それとも先約があるのか。自分よりも優先すべき相手とは、一体どこの誰なのか。
部隊まで十五分の道のりを悶々とした気持ちで歩いていく。奇妙な同居人と暮らし始めて、フェリックスは振り回されっ放しだ。気ままな独身生活から一転、いきなり娘みたいな少女を世話することになった。その少女は美しく成長して、今では逆に彼が世話されている。
突然の強い風が士官帽を吹き飛ばすと、フェリックスは我に返った。まるで『気持ちを切り替えろ』と叱られたようである。
腰を折り、背後に落ちたそれを拾い上げて、今度は目深に被る。もうすぐ差し掛かる部隊の門に一歩踏み入れれば、警衛隊長としての自分が待っているのだった。
一方、ミシェルも胸の高鳴りをそのままにドッグカフェのバイトをしていた。久しぶりに会ったフェリックスに、泊りがけの休暇を提案されて嬉しくないはずがない。
だが、秘密を持った彼女はすぐに返事が出来ず、察したフェリックスが保留にしてくれた。
ああ。バイトのこと、言えばよかった。
悔やんでもあとの祭りだ。いっそのことバイトを辞めようかと思ったが、モニカの顔がちらついて躊躇う。
誰にも相談せず、自分で考えて行動した結果がこれだ。
「なにか悩み事?」
「え?」
床掃除を終えたモニカが、モップの柄に顎を乗せて見つめている。
「心ここにあらずって感じ」
「す、すみません!!」
「別に謝らなくてもいいわよ。なにも失敗してないし」
開店前の、ただでさえ忙しい時間にぼうっとしていては迷惑に違いない。ミシェルは、急いで残りのテーブルを拭いた。
「その様子だと、まだコールダー隊長に話してないのね?」
核心を突いたモニカの言葉に、ミシェルは驚きのあまり口から心臓が飛び出しそうだった。
「言いづらいなら、わたしが言ってあげる。正直、今辞めたら困るのよ」
ミシェルがバイトに入って数日だが、すっかりここの看板娘となっていた。犬の気持ちがわかるのに加えてよく働く。一生懸命な姿勢に、モニカを始め訪れる客達に好意的な視線を送っていた。しかもあのコールダー隊長の姪ということで、あわよくば……と下心がちらほらである。
「わたしもこの仕事、好きです。たいちょーさんは犬が好きなので大丈夫だと思うんですが」
「へえ!! あの人、犬好きなの!?」
意外だと言わんばかりにモニカが驚いた。
「どんな犬でも懐いちゃうんです」
「ふうん」
どんな犬でも懐くから、ミシェルはいつもやきもきしなければならない。犬の気持ちがわかるだけに、嫉妬の対象は人間の女性だけではなくなったのだ。
「人は見かけによらないものね。前いたバイトの子は、彼氏が犬嫌いだったんだって」
モニカは当時を思い出して肩を竦める。本人は犬が好きなので安心していたが、まさか彼氏の影響があるとは思ってもみなかった。
この仕事のせいで、二人が別れたとなれば夢見が悪い。仕方なく了承したという。
「お仕事って大変なんですね」
「好きなことイコール仕事にはならないわ」
人間の世界は、本当に複雑で大変だ。これまで人間になりたいと願ってきた思いが揺らぎそうになる。
「モニカさんも?」
「まあね」
モニカはパティシエになりたかった。幼い頃からよくお菓子を作って、家族や友人に振る舞い喜ばれていた。大人になった彼女は専門学校へ通い始めたが、自分より実力がある学生の多さに絶望する。
そんな時、力になってくれたのが飼っていた犬だという。会話が成り立つわけではないが、話し掛けていると気持ちが落ち着いた。
やがて卒業したモニカは、有名なケーキ屋に就職して有意義な生活を送っていた。たまに帰る度に、飼い犬が年老いて見える。事実、犬は人間よりも成長の速度が速い。
飼い犬の九回目の誕生日に、モニカはこれまでの感謝をこめてケーキを作った。もちろん、犬に合わせた特製のものである。鼻を突っ込んで美味しそうに食べる姿が、モニカが見た最期となった。
その後もパティシエとして忙しく働いたが、どうも心に引っ掛かるものがある。釈然としない日々を過ごしたある日、モニカは突然店を辞めた。有望だった彼女を引き留めようと、店の経営者は説得したが決心は変わらない。
「お世話になりました」と、晴れ晴れした笑顔で挨拶して店をあとにした。
語り終わったモニカが、壁時計に首を巡らす。
「あら、もうこんな時間。さ、今日も一日頼んだわよ」
いつの間にか開店時間となっていた。「はい!!」と元気よく返して、ミシェルはエプロンを付けた。
「ふうん、こんな所にカフェがあったのね」
この店の前を通りかかったのはリゼットだ。フェリックスが不在なので伯父の家へ泊まっていたが、そろそろ帰ってくる頃だと女の勘が告げる。
そして、接客するミシェルを見つけて大声を上げそうになった。
ミシェルったら、こんな所で何をしてるのかしら!?
大きなガラス張りの窓にへばりつくリゼットを、客の犬達が不審者と間違えて吠え始めた。




