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隊長さんちのわんこ《ミシェル》  作者: 芳賀さこ
第六章 大いに悩む同居人
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その5

 ミシェルは幼い頃と比べて嗅覚と聴覚がやや劣ってきたが、その代り意識すれば犬の気持ちが分かるようになった。それだけ彼女も大人になった証拠かもしれない。

 言葉を話せない犬と人間の懸け橋になれば理想だが、ミシェルにしてみればいいことばかりではない。


 この日はリゼットが用事で不在なので、ミシェルは久々にフェリックスと外出した。

 目的は、月に一度行われる市場の大売出し。せっかく二人きりなのに色気もそっけもないが、平凡な日常こそ彼女にとって幸せなのだ。

 大売出しは財布を預かる主婦にとって重大なイベントで、早く行かないと売り切れるほどの盛況ぶりである。数日前に市場の人からこの話を聞いて、ミシェルは使命感に燃えていた。

 冷蔵庫や収納棚にある食材を調べて、買う物をメモ用紙に書き出す。

 コーヒー豆もそろそろなくなりそう。タンザリアとマンデリンン、どちらにしようかなあ。

 難しい顔でキッチンに立つ彼女はまるで軍の調査官さながらで、フェリックスが躊躇いがちに声を掛けた。


「買い物か?」

「はい。今日はわたしの戦いでもあるんです」


 それは穏やかではないと、ミシェルに訳を訊いたら市場の大売出しという。


「わざわざ人が多い日に行かなくてもいいだろう」

「私もそう思っていたんですが、一度行ってみたら意外と楽しくて。お目当ての物が買えたあの喜びにハマりました」


 ミシェルは瞳を爛々とさせて、大売出しの醍醐味を熱く語り始めた。そんな彼女に、フェリックスはため息をつく。

 一段と所帯じみてきたな……。

 同じ年頃の娘はファッションだ恋だと騒いでいるのに、彼女ときたら無頓着で家事に勤しんでいる。悪いことではないが、果たしてこんな生活がミシェルのためにいいのか。

 口にすればまた気を使わせるので、せめてのもの罪滅ぼしに荷物持ちを買って出ることにした。


「私も行こう」

「ええっ!? たいちょーさん、人が多いの嫌いですよね?」

「好きではない」

「だったら無理しないで下さい。わたし一人で大丈夫ですから」

「荷物持ちくらいにはなる」

「生活費も持ってもらっているのに、荷物まで持たせるわけにはいきません」


 こいつ、うまいこと言うようになったな。

 などと、くだらないことに感心した。『行く』『行かない』でしばらく揉めると、フェリックスの声色が不機嫌になってくる。一緒に行きたいのはやまやまだが、迷惑がかかる。矛盾する感情に頭を悩ました。


「そんなに私と行きたくないのか!?」


 この台詞で、ミシェルは即座に「お願いします」と頭を下げた。


 

 まさかフェリックスが行くとは思わず、嬉しい誤算にミシェルの足取りも軽い。日差しが強く汗ばむ陽気に、見上げると真っ青な空に白い雲が浮かんでいた。季節は夏に近づいている。

 たいちょーさんと出会ったのが冬だったから、もう半年経つんだ。

 しみじみ時間の経過を辿っていると、向こうからダルメシアンと男性が歩いてきた。


『あの人、素敵だわ。きっとわたし達が好きなのね、そんな匂いがするもの』


 メス犬が近づくにつれて、彼女の思考がミシェルの頭に流れ込む。

 無駄な肉のないしなやかでスリムな体、白と黒の美しい斑点。そんなダルメシアンが、今のミシェルにはタイトなドレスを着た淑女に見えた。フェリックスと並んで歩く姿を想像したら、悔しいほどに似合っている。


『この方は、わたしのご主人様です!!』


 ついムキになって淑女に釘を刺すと、鼻で笑われて心の耳がパタリと垂れた。

 フェリックスが足を止めて、犬の頭を撫でようと屈んだその時である。あろうことかダルメシアンが彼の口をペロリと舐めた。これはまさにキスしたも同然である。


「あーっ!!」


 突然の悲鳴に、フェリックスの全身と心臓がびくっと跳ねた。


「な、なんだ!?」


 動悸を鎮めようと胸を押える彼と、色目遣いのダルメシアン。両者を交互に見やるミシェルは涙目だ。


「たいちょーさん、早く行きましょう!! 大売出しが始まっちゃいます!!」


 行きすがりのメス犬に想い人の唇を奪われた挙げ句、大売出しまで逃したら当分立ち直れない。

 フェリックスの腕を強引に引っ張ると、足早にその場を立ち去った。


 

 案の定、市場に着いた頃には大勢の人でごった返していた。まだショックを引きずっているミシェルには、殺気立つこの場所はそびえ立つ城壁に見えて尻込みする。

 そんな彼女を見兼ねて、フェリックスが手を握ったお陰で正気に戻った。


「ミシェル、どこへ行けばいい?」

「え? あ、雑貨屋さんです」

「私についてこい」


 さすが軍で鍛えているだけあって、ふくよかなベテラン主婦軍団や大柄なやり手職人を諸共せず突き進んでいく。ぶつかって文句を言おうものなら、フェリックスの鋭い視線に口を噤んだ。

 一方ミシェルは、皆にもみくちゃにされてはぐれそうになる。そこへフェリックスが肩を抱いて、しっかりと支えてくれた。

 押されるたびに、彼が力強く抱きしめる。聞こえる息づかい、感じる胸の鼓動、密着した互いの体が熱い。

 ああ、幸せすぎてさっきの事故キスなんて忘れちゃいます!!

 くそっ!! なんて暑苦しいんだ!! こんなのを楽しいなんてどうかしてる!?

 軍の訓練なら容赦なく叩きのめすのに、一般人相手ではそうはいかない。フェリックスは苛立つ感情を必死に抑えた。


 

 どうにか各店を回り終えて、市場を出た二人はボロボロだった。特にミシェルを庇ったフェリックスは、シャツのボタンが取れて胸元がはだけている。

 昼食がてら近くのオープンカフェに寄ると、ちらっと覗く厚い胸板が女性の視線をさらった。もちろん、真正面に座るミシェルもその一人だ。


「ようやく一息つけるな」

「たいちょーさんのお陰でほとんど買えました。ありがとうございます」


 ほとんど!? 一体、どれだけ買うつもりだったんだ!?


 足元に置いた破けんばかりの買い物袋にげんなりする。ふと、フェリックスはあのダルメシアンを思い出した。


「ミシェル、ダルメシアンに会ったとき大声を上げただろう?」


 忘れていた苦い光景に、犬相手に嫉妬したと言えずに口ごもる。


「気にしないでください」

「お前は普段あんなことをしないから、余計気になる」


 もしも自分が犬だったら、その唇にキスできたかもしれない。そんなもどかしいさを見透かしたダルメシアンに腹が立った。そして、容易く許したフェリックスにも。

 

「ひょっとして、犬の心が分かるのか?」


 ミシェルの心臓がドクンと音を立てた。おずおずと顔を上げると、ダークグリーンの瞳に捉えられる。


「ど、どうしてそう思うんですか?」

「この間、公園で……」

 

 ちょうどそこへウエイトレスが注文した料理を持ってきたので、フェリックスは言葉を切った。


「デザートはいつお持ちしたしますか?」

「食後でいいな?」


 ミシェルに尋ねると、こくりと頷く。ウエイトレスがいなくなったところで、話を続けた。


「公園でプードルの足の怪我を……」

「ミシェルちゃーん!!」


 今度はなんだ!! 話が進まんだろうが!! 

 邪魔した声に凄む視線を投げると、そこにはぎょっとしたクリスが立っていた。


「えっと……、お邪魔でしたか?」


 安堵するミシェルと明らかに不機嫌な上官に、居心地とタイミングが悪いクリスだった。


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