その6
クリスは席に着いたのはいいが、フェリックスは不機嫌そのものだ。
「クリスさん、お昼ご飯は?」と、ミシェルが尋ねた。
「まだだけど」
「よかったら、一緒にいかがですか?」
どう見ても隣の上官は良さそうにない。「あ、俺はいいよ」と言い終わらないうちに、ミシェルが手を上げてウエイトレスを呼んだ。
フェリックスは長い足と腕を組み、凍てつく瞳でこちらを見据えている。こんなピリピリした空気の食事が美味いはずがない。
「あの、よろしいでしょうか?」
恐る恐る上官に尋ねると、無言で頷いたので取り敢えず日替わりランチを注文した。料理がくる間、刺す視線を頬に感じながらクリスはミシェルに話し掛ける。
「今日は買い物?」
「はい。市場の大売出しでした」
「だから、人が多いのか。俺の母親もこういうの好きでさ、よく荷物持ちに付き合わされたよ」
「クリスさんのお母さんってどんな方ですか?」
「花が好きな普通のオバサンさ。そういえば、花壇の花、綺麗に咲いたね」
「そうなんです。テーブルに飾っていると、和みますよね」
いつしか話題は花壇に植えた苗へ移ったが、花に関心がないフェリックスは黙るしかなかった。確かに花があったら和むが、ただそれだけの感想しか思いつかない。花や野菜を楽しそうに世話するミシェルを、リビングの窓から眺めているだけだ。
野菜はともかく花など有名どころしか知らない彼は、「青」とか「黄色」とか色の認識しかない。それでも、ミシェルは楽しそうに花瓶に生けながら名前を教えた。
菜園の収穫には、マシューとクリスを招いて採れたて野菜の料理を振る舞う。収穫時期でなくても、部下二人はよく家に寄るようになった。おまけに『リゼット』という居候まで背負いこみ、我が家が賑やかになるのは良いのか悪いのか。
フェリックスは物思いに更けながら、会話する二人をぼんやり眺めていた。そんなこととは露知らず、睨まれたと勘違いしたクリスは食事がのどを通らない。
あの……、隊長。そんな怖い目で見つめないで下さい。料理の味がしませんから……。
緊張高まる会食に華やかな人影が躍り出た。伯父の所から帰ってきたリゼットである。
「フェリ様ー!!」
似合わない呼び名にクリスは吹き出しそうになったが、フェリックスの舌打ちにぐっと堪えた。
リゼットは後ろからの席から椅子を引きずり、フェリックスとミシェルの隙間へ強引にねじ込んだ。迷惑と困惑の二人にまったく動じない様子に、クリスは正直羨ましかった。自分にはとても真似できない。
「リゼットさん、お食事は?」
「ランチは伯父様と済ませたから、デザート食べようかな」
リゼットがメニューを取ろうと身を乗り出すと、フェリックスの大きく開いた胸元が視界に入った。人間は時として、おおっぴらな裸よりチラリズムに興奮を覚える。
「フェリ様ったら、随分大胆な着こなしをなさるのね」
「好きでこんな恰好をしているんじゃない」
彼女の注がれる熱い眼差しに、フェリックスは面倒臭そうに襟を正した。
「ひょっとして、わたしを誘ってる?」
フェリックスは呆れて返す言葉がない。
その後、犬の気持ちが理解できる件について、フェリックスは一切触れなかった。ミシェルはいつ切り出されるかと身構えていたのでほっとした。
目が合えば言いたげにしていたが、リゼットに邪魔されたり忙しかったりで口にすることはなかったのである。ひょっとしたら、ミシェルから話すのを待っているのではないかと考えたこともあった。それなら、ちゃんと応えるべきではないか。
ただし、時と場合を選ばないと、リゼットにばれてしまう。慎重に行動しなければ。
その日の夜、帰宅が遅いフェリックスを途中まで迎えに行った。リゼットが待ちきれず眠ったのを見計らってそっと家を出る。
頭上に輝く満天の星、外灯に照らされる夜道。この時分に一人で出歩くのは初めてで、昼間とまったく違う景色に心が躍った。
部隊と自宅のちょうど中間あたりで、聞き慣れた足音にミシェルが駆け出す。
「たいちょーさん!!」
「ミシェルか!?」
フェリックスは、こちらへやってくるミシェルに目を丸くした。まさか、こんな所まで迎えに来ているとは思ってもいなかった。
「夜、一人で出歩くなと言っただろう!!」
「ごめんなさい。でも、どうしてもお話ししたいことがあって」
琥珀色の瞳を潤ませて、ミシェルが重い口を開く。
「たいちょーさんのおっしゃる通りです。わたし、犬の気持ちがわかります」
意を決して告白したのに、彼は「そうか」の一言だった。二人はゆっくりした歩きで公園に差し掛かると、ライトアップした噴水が闇の夜に浮かび上がる。デートスポットとして恋人達に人気のある場所だが、フェリックスにとっては帰路の通過点に過ぎなかった。改めて見る幻想的な光景に目を細める。
「たいちょーさん、綺麗!!」
「ああ、綺麗だ」
瞳をキラキラさせて、ミシェルは噴水を眺めた。思い詰めた気持ちが一気に消し去る。
「もし、あの頃にミシェルがいたら聞いておきたかった」
「たいちょーさん?」
心なしか、フェリックスの瞳が悲しげで遠くを見据えていた。
「飼っていた犬がいたんだ。とても利口で優しくて大事な家族だった」
「その人が『ミシェル』だったんですね」
つまり、フェリックスは彼女に亡き『ミシェル』の影を重ねていたことになる。
「お前には悪いと思っている。違う名前を付けるべきだったな」
「なんとなく気付いていました。わたしはこの名前が好きです。だって、たいちょーさんにとって大切なものなんでしょう?」
ミシェルの方が大人だな。
フェリックスが苦笑した。
いつの間には、まばらだった恋人たちの姿がない。風が吹いて、噴水から流れ落ちる水が揺らめいた。
「もし、わたしがいたら『ミシェル』さんに何を聞きたかったんですか?」
「私と過ごした時間は幸せだったのか」
人間の勝手な愛情を押しつけたのではないか。家族と思っていたのは独りよがりではなかったのか。あの頃は『ミシェル』との絆を信じて疑わなかった。いつまでも一緒だと言っておきながら、彼の最期を看取ることが出来なかった。
『ミシェル』からもらったものは多いのに、自分は何を返せただろうか。
感慨深く語るフェリックスに、ミシェルの涙が止まらない。彼の指が頬を伝う涙を拭った。
「お前には酷な話だったな」
ミシェルは大きく首を左右に振ると、涙の雫が飛び散った。
「『ミシェル』さんは幸せだったと思います」
その言葉に、彼の口元が綻ぶ。
「ありがとう、ミシェル」
ミシェルは、この時少しだけ彼に嫉妬した。共に過ごした時間は思い出となって、フェリックスの胸にいつまでも留まる。なら、自分はどうなるのか? この人は覚えていてくれるだろうか。
ライトアップの終了となり、公園は外灯のかすかな明かりのみとなった。涙でおぼつかない足取りのミシェルの手を握る。はぐれないように、幼い頃からこうして大きな手で包んでくれた。
「たいちょーさん」
「ん?」
いつになく優しく応える彼に、ミシェルの心が揺れ動く。いっそのこと、胸に秘めた想いを伝えようか。黙った彼女に、フェリックスはじっと待っている。
「……なんでもないです」
あなたが好きです
たった一言が、禁断の呪文のように喉から先に出なかった。




