その4
ミシェルが大きく目を見開いて驚くと、フェリックスは罰悪そうに目を逸らした。自分の代わりはいくらでもいる、そんな自虐的な発言が無性に腹が立ったのだ。こんなことは初めてで、彼自身も大いに戸惑っている。
すっかりしょげてしまったミシェルに、どんな言葉を掛けたらいいか分からない。重苦しい空気の中、会話もなく淡々と食事を進めていると
「ごめんなさい」
蚊の鳴くような小さな声が聞こえた。
「私の方こそ大声を出してすまん」
「たいちょーさんは悪くないです。ごちそうさまでした」
自分の食器を持って寂しげな背を向ける彼女に、フェリックスはただ目で追うのみである。テーブルには、リゼットの外泊で余った分とミシェルがほとんど食べなかった料理で溢れていた。ミシェルが後片付けをしないで自分の部屋へ戻るのも珍しく、それだけショックの大きさが窺える。
残されたフェリックスも食欲が失せて、料理を保存容器に移して冷蔵庫に投げ込んだ。
自分の部屋に戻ったミシェルは、ベッドに背を預けて蹲ると膝に顔を埋める。いろいろな感情が押し寄せて、頭の中で鐘が木霊すような頭痛が襲う。
部隊での彼はどうか知らないが、あんなに鋭く怖い声は初めて聞いた。少なくとも彼女に向けられたことは一度もない。怒らせるつもりはなかったのに、結果的にはそうなった後悔がじわりとやってきた。
一番怖いのは、フェリックスに必要とされないこと。
幸せに慣れ過ぎて、強欲になっていく自分に身震いした。
フェリックスも自室で仕事に取り掛かったが、ノートパソコンの画面は数分前と変わっていない。ミシェルの様子が気になって、一向に捗らないのだ。そろそろコーヒーの差し入れがあってもいい時間だが、今夜はいつまで経っても来そうにない。
賢く気が利くといっても、半年で少女から大人へ成長の階段を一気に駆け登ってきた。感情が追いつかないのも当然である。
それに人間の娘と一日中関われば、感化されることもあるのではないか。なぜ最後まで話を聞いてやれなかったのか、フェリックスもまた後悔しきりだ。
このまま部屋で、一人悶々と考えていても埒が明かない。フェリックスは立ち上がると、ミシェルの部屋へ向かった。
ミシェルは、こちらへ歩いてくる足音に慌ててベッドへ潜り込む。フェリックスは、ドアを二回ノックしたが返事がなかった。
もしかして体調が悪いのではと、心配になり少しだけドアを開けた。暗がりに寝ているミシェルを見つけると、ベッドの端に腰掛ける。
「ミシェル」と静かに呼ぶと、彼女の頭がわずかに動いた。
「具合が悪いのか?」
彼女の小さい額に手を当てると、掌にほのかな温かさを感じた。
「少し熱がある。リゼットの世話で疲れが出たかもしれんな」
人間なら薬を飲んで一晩寝れば治るかも知れないが、ミシェルはそれができない。ましてや、人間と犬の間をさまよう不安定な時期だ。いつ何時異変が起きるか分からない。
「冷やした方がいい。待ってなさい」
熱を帯びた彼女の頬をなぞると、フェリックスは部屋を出ていった。
やっぱり、たいちょーさんは優しい。
ミシェルは枕をぎゅっと胸に抱きしめた。
昨夜はあのあと、フェリックスが額に冷却シートを貼ってくれた。冷たい感触が、頭痛と熱でぼんやりした頭に気持ちいい。それから彼が安心して部屋を引き上げたのは、東の空が白んできた頃だった。
まどろんでいたらフェリックスは既に出勤していて、リビングのテーブルにはパンと牛乳、そしてサラダが載ったハムエッグの皿が置いてあった。
彼の気遣いが、ミシェルの気持ちを重くする。
「はあ……」
頭痛がすっかり治ったミシェルは、買い物へ来たたがため息の連発だ。リゼットの帰宅とフェリックスへの詫びも兼ねて、腕を振るおうと市場へ来てみたが気分は憂鬱である。
また迷惑掛けちゃったなあ。
途中、通りがかりの公園のベンチで休んでいると、足元に一匹のプードルがやってきた。
「こんにちは」
ミシェルが挨拶すると、プードルは顔を上げて潤んだ瞳を向ける。
「どうしたの?」
屈んで相手をしていると、太った中年女性が血相を変えて向こうから駆け寄って来た。ペットに悪さをするのではと、慌ててプードルを抱き上げると睨んだ。
「あなた、わたしのアンジェラに何してるの!?」
「彼、肉球にとげが刺さってひどい怪我をしてます。早く病院へ連れていって下さい」
それだけ伝えると一礼して、ぽかんとしている女性と公園を後にした。
その日の夜、フェリックスが家へ帰るとエプロン姿のミシェルが出迎えた。
「ただいま」
「……お帰りなさい」
まだ昨夜のことが堪えているのか、ミシェルまったく目を合わそうとしない。フェリックスが紙袋を差し出したので、条件反射で受け取った。
「これは?」
「帰る途中、女性に呼び止められてお前に渡してほしいと頼まれた。公園のお礼だそうだ」
心当たりがあるのか、ミシェルが「あっ」と声を上げた。
「知り合いか?」
「今日、会った方です。足を怪我していたので、病院へ行くように勧めました」
「それにしては、元気だったが?」
フェリックスが見たところ、太ってはいたが歩きは達者だった。
「女の人じゃなくてプードルです。ああ、ちゃんと聞いてくれたんですね」
「ミシェルが教えなかったら、手遅れになるところだったらしい」
ペット想いの飼い主でよかったと、ミシェルは胸を撫で下ろす。傍から見れば、奇妙な人物だと思われても仕方がない状況だった。
「よかったな」と口角を上げる彼に、ミシェルは笑顔で頷く。
「お前は、お前のできることをすればいい」
彼女の心の靄に、一筋の光が差し込んだ。役に立たないと悲観するのではなく、誰かの役に立ちたいと思い実行する。現に自分は幼い頃からそうしてきたではないか。
ああ、わたしはいつからこんな当たり前のことを見失ったんだろう。
そして、フェリックスはその都度見失った心を思い出させてくれる。だから、彼が好きなのだ。
「たいちょーさん、ありがとうございます!!」
やっと笑顔になったな。
会心の笑みを浮かべるミシェルに、フェリックスも頬を緩ます。二人見つめ合い幸せモードに入り掛けたその時、玄関のドアが勢いよく開いた。振り向くと、煌びやかなリゼットお嬢様のご帰宅だった。
隣にいたミシェルをお尻で突き飛ばして、フェリックスに媚びる瞳を向ける。
「まあ!! フェリ様、わたしのためにお出迎えを!?」
勘違い甚だしい台詞に、フェリックスは一瞥するとさっさと自分の部屋へ行ってしまった。
「会えて嬉しいものだから照れちゃって」
身をよじるリゼットに、飛ばされた際に打った腰をさすりながらミシェルが挨拶する。
「リゼットさん、お帰りなさい」
「ミシェル、フェリ様と何もなかったでしょうね!?」
「え?」
一瞬目が泳いだのを、リゼットは見逃さなかった。
「何かあったのね!? 白状なさい!!」
目を剥いてミシェルの肩を揺する様子は、もはや社長令嬢ではなく猛獣である。
「な、何もありません」
「嘘、おっしゃい!!」
部屋の外でわめくリゼットに、フェリックスは盛大なため息をつくとミシェル救出へ向かうのだった。




