その1
「お前、その耳……」
「見ないで下さい!!」
大きく目を見開くフェリックスに、ミシェルはたまらず頭を枕で覆った。見るなと言われても、衝撃的な光景を目の当たりにして視線が外せない。
「この耳、なくなりますか? 犬に戻っちゃうんでしょうか!? わたし、どうすれば……」
混乱して質問攻めのミシェルに、「落ち着け。なったものはしょうがない」などと、我ながら間抜けな慰め方しかできなかった。
「たいちょーさんは驚かないんですか?」
「これでも充分驚いているんだが」
枕の間から覗き見るフェリックスは、相変わらず無表情だが本心は違ったらしい。
「とにかく顔を見せてくれ」
半分懇願に近いフェリックスの言葉に、枕を外したミシェルの頭には獣の耳がピンと立っていた。
「その耳は本物なのか?」
「本物です。動きそうなのでやってみます」
ミシェルの挑戦を、彼は片手を上げて制した。
だとしたら、人間の耳はどうなったのか。知りたくないので、フェリックスは敢えてその話題には触れずにいた。
「耳のほかに異常はないか?」
「今のところは」
「尻尾は?」
慌てて自身の尻を触ったが、ないことを確認すると二人同時に安堵の息をついた。
「実はお前が熱にうなされた時、同じことが起きた」
「この姿になったときですか?」
フェリックスはベッドの端に腰を下ろして語り始めると、新事実にミシェルは文字通り耳を傾ける。
「その頃は一時的なものだったがな。もしかしたら、明日にはなくなっているかも知れないから、今夜は様子を見よう」
ミシェルの頭に手を置いたら、触れた耳がくすぐったのかぴくっと動いた。こうしてみると、彼女は犬だと改めて思い知る。
「とにかく飯にしよう。考えるのはそれからだ」
フェリックスが立ち上がると、ミシェルが「あっ」と声を上げた。
「まだお料理、作ってませんでした」
「簡単な物で済ませばいい」
「……買い物もしていないんです」
買い物をする途中で、アランとひと騒動あってこの有り様である。項垂れる彼女を、フェリックスは責めなかった。
こんな事件が起きた後で、暢気に夕飯を作るほど彼女の神経は図太くない。手っ取り早く外食したいのは山々だが、奇妙なミシェルの容姿を世間に晒すわけにはいかない。
フェリックスが近くの店へ買い出しに行ったが、結局食卓には出来合いの総菜が多数並んだ。
「こんな物で悪いな」
「いいえ。わたしの方こそごめんなさい」
せめて食事らしくと皿に盛って二人は食べ始めたが、フェリックスは気になっていたことを口にした。
「いきなりなったとは思えんな。何かきっかけがあるんじゃないのか?」
「えっ?」
フェリックスの問いに、ミシェルはぎくっとしてフォークが止まった。明らかに動揺している彼女に、フェリックスもフォークを置いて見据える。
「あるんだな?」
「あ、ありません」
嘘がつけないミシェルは泳ぐ目で料理を食べ急いだ。挙動不審な態度に、フェリックスは職種がら嘘を見抜いてしまう。
ひと癖ある連中ばかり相手にしてきたのだから、少女の嘘を暴くくらい訳ない。
今朝はなんともなかったから、問題があったとしたら昼から夕方に掛けてだろう。確率として最も高いのは……。
「アランか?」
ガシャンッ!!
ミシェルの食器が派手な音を立てたので、フェリックスは図星だと確信した。
「アランとはなんでもありません。ただ『好き』と言われただけで」
「なんだと!?」
フェリックスの顔色がさっと変わったので、ミシェルはすぐに口を手で押えたが時すでに遅かった。
キス未遂事件やフェリックスへの恋心を隠そうとするあまり、つい先走ったのを後悔する。
フェリックスは、予想外の展開に愕然とした。
アランが彼女に好意を抱いているのは分かっている。いつか、こんな日が来るかもしれないと心のどこかで覚悟もしていた。だが、急に現実のものとなり心がざわつく。
沈着冷静と称される警衛隊長だが、この時ばかりは頭に血が昇った。険しい表情で詰め寄られて、ミシェルの瞳が潤み耳は垂れてすっかり怯えている。
「すまん。きつく言い過ぎた」
我に返ったフェリックスが謝ると、ミシェルが首を左右に振った。その後、二人は会話もなく殺伐とした空気の中で食事を続けた。
昨夜のフェリックスは、ミシェルの耳やアランの告白と驚きの連続でよく眠れなかった。ここ最近寝起きが最悪でバイオリズムも低下気味である。
翌朝、フェリックスが起きた頃には、キッチンでミシェルが朝食の準備に取り掛かっていた。二人の期待虚しく、犬の耳はミシェルの頭についたままである。
気配で振り向いたミシェルと目が合った。
「おはよう」
「おはようございます……」
ミシェルは小さな声で挨拶すると、テーブルに食器を並べ始める。そんな彼女を横目で見ながら席に着く。
朝食を済ませて、身支度を整えたフェリックスが玄関へ向かった。いつものミシェルなら嬉々して追い掛けてくるのに、今朝は近からず遠からずと微妙な位置を保っている。
よほどショックだったらしいが、それは彼も同じだ。フェリックスは靴を履くと、ミシェルを手招きする。
おずおずと目の前に立つミシェルに、腕を伸ばして頭を耳ごと撫でた。彼女が上目遣いで窺うと、頬を緩ますフェリックスがいる。
「なるべく早く帰るから、買い物は一緒に行こう」
「でも、この耳じゃ……」
「帽子でも被ればいい。とにかく一人で出歩かないように」
「お仕事があるのに、迷惑かけるわけにはいきません」
「余計な心配をされる方が迷惑だ。もっと甘えろと前にも言っただろう」
「だいだい、お前は小さい頃から……」とフェリックスの説教が続いた。普段は口数が少ないのに、彼女のことになると饒舌になる。ミシェルは、諭されているのにちっとも嫌な気持ちにならず、むしろ嬉しくて心地よかった。
一息ついたフェリックスが腕時計に視線を落とすと、出勤時間が近づいている。
「たとえ、犬に戻ってもお前は『ミシェル』だ。ずっと、ここにいればいい」
最も聞きたかった言葉に、ミシェルの顔が綻んだ。どんなに場合でも、この人は自分を大切にしてくれる。だから、好きにならずにいられなかった。
「はい!!」
ミシェルは、目に涙を浮かべて笑顔で返事する。その様子に安心して、フェリックスは家を出た。
警衛隊の待機室は隊員たちの談笑で賑わっていたが、隊長室では眉間にしわを寄せるフェリックスが座っていた。
近寄り難い雰囲気の主に、遠慮ない部下が入ってくる。
「今月の基地警備計画書だ。とっとと読んでサインしてくれ」
マシューが机の上に置いた書類を、フェリックスは手に取り読み始めた。
「最近構ってくれんと、隊長付きが嘆いていたぜ」
「子どもじゃあるまいし」
視線は書類に残したまま、ため息交じりに呟く。
「そういえば、お嬢ちゃんから土産をもらったぞ」
「ミシェルに手袋をあげたそうだな。嬉しそうに付けていた」
「そうだろ、そうだろ」とマシューは満足げに頷いた。
「そろそろミシェルの手料理が食べたいんだが、今夜あたり行ってもいいか?」
「今は体調が悪い」
「風邪か?」
「そんなところだ」
曖昧に流すフェリックスに、マシューは何か感づいたのか半眼でこちらを見ていた。




