第九話 この契約書、改ざんされてますね
銀竜ヴェルミナの巨体が、岩棚の上でゆっくりと首をもたげた。
近くで見ると、その大きさは常軌を逸していた。
頭だけで、領主館の半分ほどはある。白銀の鱗の一枚一枚が盾のように大きく、呼吸のたびに、山頂の空気そのものがかすかに震える。
『ふん。グラウヴァルトの血の匂いがする』
紫水晶の瞳が、俺の背後に立つリーゼロッテ様を捉えた。
『そこの娘。お前が、今のグラウヴァルトの当主か』
「…………っ」
リーゼロッテ様の肩が、小さく震えた。
無理もない。目の前にいるのは、伝説に語られる古き竜だ。その気になれば、吐息ひとつで俺たちを灰にできる存在。
だが、彼女は一歩、前に出た。
「は、はい。グラウヴァルト辺境伯家当主代行、リーゼロッテ・フォン・グラウヴァルトでございます」
声は震えていた。
それでも、背筋はまっすぐに伸びていた。
「銀竜ヴェルミナ様。二百年もの間、当家がお約束を果たせずにいたこと……心より、お詫び申し上げますわ」
リーゼロッテ様は、深々と頭を下げた。
『……詫び、だと?』
竜の声に、怒りが滲んだ。
『二百年だ、娘。二百年、我は待った。お前の先祖は、飢えに苦しむ民を救ってくれと、この山頂で額を地に擦りつけて我に乞うた。我はそれに応え、我が身に蓄えた豊穣の力を、惜しみなく貸し与えた』
ごう、と竜の鼻息が岩肌を撫でた。
『だが、どうだ。最初の五十年こそ、律儀に利息を納めてきた。それがいつしか途絶え、督促を送っても梨の礫。我が力は日に日に衰え、今ではこの山頂から動くことさえままならぬ。それを――詫びのひとつで済ませるつもりか!』
山が、震えた。
竜の怒りが、物理的な圧力となって俺たちに襲いかかる。リーゼロッテ様の髪が激しくなびき、足元の小石が吹き飛ばされていく。
「……っ、決して、詫びだけで済ませるつもりはございませんわ! 当家は、必ず――」
「失礼します」
俺は、リーゼロッテ様の隣に並んだ。
『……なんだ、お前は。グラウヴァルトの血の匂いがせぬな』
「グラウヴァルト家の文官、カイ・ロウエルと申します。本日は当家の代理人として、債務の件でご相談に伺いました」
『代理人だと?』
「ええ。ヴェルミナ様、ひとつお伺いしたいのですが」
俺は、竜の巨大な瞳を真っ直ぐに見上げた。
「あなたは今、『利息がいつしか途絶えた』とおっしゃいましたね」
『そうだ。百五十年ほど前から、グラウヴァルトの地から届く豊穣は、年を追うごとに細り、やがて完全に途絶えた』
「おかしいですね」
『……なに?』
「グラウヴァルト領の土地からは、この二百年間、一度も途絶えることなく豊穣が吸い上げられ続けています。それも、最初の頃よりはるかに多い量が。そのせいで、領地の土地は地力がマイナスになるまで痩せ衰えました」
『……………』
竜の瞳が、わずかに見開かれた。
「つまり、グラウヴァルト家は利息を払い続けていた。それどころか、払いすぎていた。にもかかわらず、それがあなたのもとには届いていなかった」
『馬鹿な。そんなはずが……』
「ヴェルミナ様。契約書の原本を、拝見してもよろしいですか?」
◇
竜は、しばらく黙って俺を見下ろしていた。
やがて、長い長いため息のような吐息をつくと、岩棚の奥の洞窟へと首を伸ばした。
そして、その口に何かをくわえて戻ってきた。
一枚の羊皮紙だった。
竜の巨体に比べれば、木の葉のように小さい。だが、そこから放たれる魔力の圧は、ゲラルトの裏帳簿などとは比べ物にならなかった。二百年前、竜と人とが血で結んだ、魂の契約書。
『読めるものなら、読んでみるがいい』
竜は、羊皮紙を俺の前の岩の上にそっと置いた。
俺は膝をつき、その文面に目を落とした。
古代語で書かれた、格調高い文章。
契約の当事者、貸借の対象、返済の条件、利率、そして両者の署名――。
【帳尻合わせ】の目で、俺は一行ずつ、その帳簿を読み解いていった。
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【契約書 精査中】
第一条 貸主:銀竜ヴェルミナ
借主:グラウヴァルト家当主
ヨハン・フォン・グラウヴァルト
→ 整合性: 正常
第二条 貸借の対象:豊穣 金貨十万枚相当
→ 整合性: 正常
第三条 利率:年一分(一パーセント)
→ 整合性: ……異常を検出
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――年一分。
俺は、思わず目を疑った。
年利一パーセント。
竜が提示した利率は、驚くほど良心的なものだった。二百年借りたとしても、単利なら利息は元本の二倍。複利でも七倍程度だ。
だが、それだけではなかった。
【帳尻合わせ】が、この条文の上に、別の文字列が重なっていることを示していた。
――上書きされている。
元の文字が削られ、別の文字が書き込まれている。
それも、魔力を使った極めて巧妙な手口で。肉眼では絶対にわからない。竜でさえ気づかないほどに。
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第三条 利率
【原文】年一分。返済は毎年の収穫の
百分の一をもって充てる。
【改ざん後】年一分。返済は毎年の
土地の豊穣のすべてをもって充て、
その徴収は『第三者』が代行する。
第七条(原文に存在しない条項)
『徴収代行者は、徴収した豊穣のうち、
手数料として必要な額を差し引くことが
できる。手数料の額は代行者が定める。』
【署名欄】
貸主:銀竜ヴェルミナ → 正常
借主:ヨハン・フォン・グラウヴァルト → 正常
立会人: M → ……
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――M。
ゲラルトの裏帳簿に記されていた、『M様への上納』。
あれと、同じ署名だった。
「……なるほど」
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
全部、繋がった。
「ヴェルミナ様。リーゼロッテ様」
俺は、二人を――一頭と一人を、交互に見た。
「この契約書、改ざんされてますね」
『……なに?』
「え……?」
俺は、契約書の第三条と第七条を指し示しながら、説明した。
「原文では、利息の支払いは『毎年の収穫の百分の一』でした。それが、何者かによって『土地の豊穣のすべて』に書き換えられている。さらに、存在しなかったはずの第七条が追加され、利息の徴収を『第三者』が代行すること、そしてその代行者が好きなだけ手数料を抜き取れることになっている」
『…………』
「つまり、この百五十年間、何が起きていたかというと」
俺は、東の空を――霊峰のさらに向こう、魔族の領域がある方角を見た。
「グラウヴァルトの土地から豊穣が根こそぎ吸い上げられ、その全てが『徴収代行者』の手に渡っていた。そして代行者は、その九割九分を『手数料』として着服し、ヴェルミナ様のもとには、ほとんど何も届けなかった」
「……そんな」
リーゼロッテ様が、口元を手で覆った。
「では、当家は……ずっと、払っていたんですの? 利息を、払い続けていたのに……それが全部……」
「ええ。払い続けていました。百倍の額を」
グラウヴァルトの土地は、二百年間、竜への借金で苦しんでいたのではなかった。
竜と人との間に入り込んだ、何者かに、搾取され続けていたのだ。
そして竜は、グラウヴァルト家が不義理を働いていると信じ込まされ、怒りに身を焦がしながら、力を失っていった。
――二重の詐欺だ。
人と竜の、両方を騙して、その間で全てを掠め取る。
実に、悪質で、巧妙で、そして――経理担当として、絶対に許せない手口だった。
『…………ふ』
竜の喉の奥から、低い音が漏れた。
『ふ、ふふ……ふははは……っ』
笑っていた。
だが、それは喜びの笑いではなかった。
『そうか……そういうことか……!』
竜の全身から、凄まじい魔力が噴き上がった。
『我は……我は二百年もの間、ありもしない不義理に怒り、ありもしない裏切りを恨み、グラウヴァルトの民に呪いの督促を送り続けていたというのか……! 我を騙した外道の、手のひらの上で……!』
山頂の岩が砕け、空が裂けるような咆哮が響き渡った。
『許さぬ……許さぬぞ、M……! 我が誇りを汚し、我が友の子孫を苦しめた罪……八つ裂きにしても飽き足らぬ……!』
「ヴェルミナ様、落ち着いてください!」
『これが落ち着いていられるか、人間――!』
「落ち着いてください。まだ、精算が終わっていません」
俺の言葉に、竜の咆哮がぴたりと止まった。
『……精算、だと?』
「ええ。改ざんされた契約は、無効です。原文に基づいて、正しく帳尻を合わせ直します」
俺は、契約書の上に手のひらをかざした。
「【帳尻合わせ】――契約内容の、原状回復」
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【原状回復処理】
改ざんされた条文を、原文に復元します。
第三条:原文に復元しました。
第七条:原文に存在しないため、削除しました。
立会人『M』の署名:無効化しました。
続いて、原文に基づく再計算を行います――
・元本: 金貨十万枚
・正当な利息(二百年):金貨二十万枚
・グラウヴァルト家の
実際の支払額(二百年):金貨二千八百万枚相当
差引:グラウヴァルト家の過払い額
金貨 二千七百七十万枚相当
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「…………」
「…………」
『…………』
山頂に、沈黙が落ちた。
数字が、大きすぎた。
「……カイ様」
リーゼロッテ様が、かすれた声で言った。
「わたくしの聞き間違いでなければ……今、二千七百七十万、と……」
「ええ。言いました」
「当家の、借金が……」
「借金どころか、過払いです。グラウヴァルト家は、竜への借金を百四十倍払いすぎていました」
「…………」
リーゼロッテ様は、ふらりとよろめいた。俺は慌ててその肩を支えた。
『……人間』
竜が、低く呟いた。
『その過払い分とやらは、全て、Mとかいう外道が着服したのだな?』
「ええ。正確には、徴収代行者が。そして今、契約が原状回復されたことで、代行者の徴収権限は無効になりました。つまり――」
俺は、霊峰の麓を、グラウヴァルトの大地を振り返った。
畑の地中から東へと伸びていた、無数の灰色の糸。
それが今、ぷつり、ぷつりと、音を立てて切れていくのが見えた。
「グラウヴァルトの豊穣は、もう、誰にも盗まれません」
◇
しばらくして。
『――で、だ』
怒りが少し収まったらしい竜が、ずいっと巨大な顔を俺に近づけてきた。
『我の取り分は、どうなる』
「取り分、ですか」
『そうだ。原文どおりなら、我が受け取るべき利息は金貨二十万枚。元本と合わせて三十万枚。それを、我は一枚たりとも受け取っておらぬのだぞ』
……確かに、その通りだ。
グラウヴァルト家は払いすぎた。だが竜は、受け取っていない。
払った分を盗んだのは、Mだ。
「本来であれば、ヴェルミナ様の債権は、グラウヴァルト家ではなく、着服したMに対して請求すべきものです。グラウヴァルト家の支払い義務は、すでに十分すぎるほど果たされていますから」
『ふん。理屈はわかる。だが、そのMとやらがどこの誰かもわからぬのでは、取り立てようもあるまい』
「ええ。ですから――」
俺は、少し考えてから、提案した。
「ひとつ、債務整理の提案があります」
『債務整理?』
「ヴェルミナ様は、Mに対して金貨三十万枚の債権をお持ちです。グラウヴァルト家は、Mに対して金貨二千七百七十万枚の過払い返還請求権を持っています。どちらも、相手は同じ」
『……つまり?』
「共同で、取り立てましょう」
竜の目が、ぱちくりと瞬いた。
「グラウヴァルト家とヴェルミナ様で、Mに対する債権者団を結成するんです。そして、Mを見つけ出し、まとめて取り立てる。そのための調査と交渉と手続きは、全部俺がやります」
『…………』
「その代わり、と言ってはなんですが」
俺は、ちらりとリーゼロッテ様を見た。
「グラウヴァルト家への督促は、取り下げていただけませんか。もう、あの土地を苦しめる理由は、どこにもないはずです」
竜は、長いこと黙っていた。
紫水晶の瞳が、俺を見て、リーゼロッテ様を見て、それから遠く、黄金色の麦畑が広がるグラウヴァルトの大地を見た。
『……二百年前』
ぽつりと、竜が言った。
『ヨハンという男がいた。グラウヴァルトの初代当主だ。この山頂で、泥だらけの額を地に擦りつけ、民を救ってくれと我に乞うた。……馬鹿な男だった。竜に借金を申し込む人間など、後にも先にもあやつだけだ』
竜の声が、ほんの少しだけ、和らいだ。
『だが、あやつは約束を守る男だった。だから我は、あやつの子孫が不義理を働いたと聞かされたとき……裏切られたと、思ったのだ』
「……ヴェルミナ様」
『娘』
竜が、リーゼロッテ様を見下ろした。
『お前の目は、ヨハンによく似ている』
「…………っ」
『よかろう、人間。その債務整理とやら、乗ってやる』
竜は、ふん、と鼻を鳴らした。
『グラウヴァルトへの督促は、取り下げる。今この時をもって、我とグラウヴァルトの間に、貸し借りはない』
その瞬間。
契約書が、まばゆい光を放った。
二百年の呪いが、ようやく解けた光だった。
そして――。
ぽんっ。
『……む?』
間の抜けた音がして。
山頂を覆い尽くすほど巨大だった銀竜の姿が、光の中に、しゅるしゅると縮んでいった。
家ほどの大きさに。
馬ほどの大きさに。
犬ほどの大きさに。
そして最後には――。
『な、なんだこれはあああああああっ!?』
猫ほどの大きさの、ふわっふわの銀色の毛玉に、小さな翼が生えたような生き物が、岩の上でじたばたと暴れていた。
「…………」
「…………」
『おい人間! なんだこれは! どういうことだ! 我の身体が! 我の威厳が!』
「……ああ」
俺は、【帳尻合わせ】で竜の帳簿を確認して、納得した。
「ヴェルミナ様の力は、もともとグラウヴァルトへの『貸し』として、契約に縛られていました。その契約が完済されて消滅したことで、力の大部分が宙に浮いてしまったんです。本来なら利息と元本の返済という形で戻ってくるはずだったんですが、それは全部Mが着服しているので……」
『つまり!?』
「つまり、Mから取り立てるまで、ヴェルミナ様の力は差し押さえられたままです。今のそのお姿は、手元に残った資産だけで維持できる、最小限の形……ということですね」
『ふ、ふざけるなあああああ!!』
小さな銀色の毛玉が、ぴょんぴょん跳ねながら小さな炎を吐いた。
ろうそくの火くらいの大きさだった。
「……か」
隣で、リーゼロッテ様が、震える声で呟いた。
「か、かわいい……っ」
『かわいいとか言うなあああああっ!!』




