第十話 債権者(もふもふ)が家に住み着いた件
「――カイ様。そこに、お座りなさいまし」
霊峰から戻った翌朝。
領主館の執務室で、俺はリーゼロッテ様の前の床に正座させられていた。
前世の日本式の正座ではない。この世界にそんな文化はない。だが、なぜか本能的に、俺は膝を揃えて床に座っていた。それくらい、今のリーゼロッテ様には迫力があった。
「これは、なんですの?」
リーゼロッテ様が机の上に叩きつけたのは、一枚の羊皮紙だった。
霊峰で使った、『債務引受契約書』。
「えーと……契約書、ですね」
「わたくしの署名が入っていますわね」
「入って、ますね」
「わたくし、こんな契約書に署名した覚えはございませんけれど?」
「……リーゼロッテ様が、出発の前に書いてくださった『カイ様、お気をつけて』というお手紙の署名を、その、少々転記させていただいて……」
「それを世間では、文書偽造と言いますのよ!!」
ばんっ、と机が鳴った。
「はい、すみません」
「すみませんで済んだら、王国に衛兵はいりませんわ!」
「はい、すみません」
「それに! 何よりも!」
リーゼロッテ様は、ぐいっと身を乗り出した。空色の瞳が、俺を真っ直ぐに睨みつけている。
――いや、睨んでいるのだが、その目の縁がほんのりと赤い。
「わたくしの代わりに、あなたが瘴気に襲われるなんて……そんな契約、わたくしが承諾するはずがないでしょう!? あの時、灰色の霧があなたに一斉に飛びかかっていったとき、わたくしが……わたくしが、どんな気持ちだったか……っ」
声が、震えた。
「……死んでしまうかと、思いましたのよ」
「…………」
俺は、何も言えなかった。
前のパーティでは、三年間、誰の代償を引き受けても、誰にも気づかれなかった。気づかれないのが当たり前で、それが俺の仕事だと思っていた。
だから、こんなふうに――自分のために怒ってくれる人がいるなんて、考えたこともなかった。
「……すみません。本当に」
「…………もう、二度としないと約束してくださいまし」
「…………」
「カイ様?」
「……善処します」
「善処ではなく、約束ですわ!」
「努力目標として、前向きに検討させていただきます」
「それは前世のお役所言葉か何かですの!?」
どうして前世のことを知っているのかと一瞬驚いたが、たぶん、言い回しが胡散臭かっただけだろう。
『――おい、いつまで痴話喧嘩をしておるのだ』
机の上から、不機嫌そうな声がした。
見ると、銀色の毛玉――もとい、ヴェルミナ様が、リーゼロッテ様のティーカップの縁に前足をかけて、中の紅茶をぺろぺろと舐めていた。
「ち、痴話喧嘩ではありませんわっ!」
『ふん。我には、そうとしか聞こえなかったがな』
「ヴェルミナ様っ!」
リーゼロッテ様が真っ赤になって抗議する。
霊峰から戻る道中、ヴェルミナ様は当然のような顔をして、俺の肩に乗ってついてきた。
『我はお前たちと債権者団を結成したのだ。共同債権者として、代理人であるお前の仕事ぶりを監視する義務がある』
というのが、本人――本竜の言い分だった。
だが、本当のところは違うと、俺は思っている。
【帳尻合わせ】の目で見た、ヴェルミナ様の帳簿。
その片隅に、小さく記されていた一項目。
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・孤独: 二百年分(未精算)
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二百年間、たったひとりで山頂にいたのだ。
怒りと恨みだけを抱えて、誰とも言葉を交わさずに。
……監視でも何でも、好きなだけしてくれればいい。
「ヴェルミナ様。紅茶、お気に召しましたか」
『む。悪くはない。人間の飲み物にしては上出来だ』
「それはよかったです。お茶菓子もありますよ。ハンスさんが焼いた麦のビスケット」
『ほう? 寄越せ』
ビスケットを一枚差し出すと、ヴェルミナ様は両前足でそれを抱え込み、さくさくと夢中でかじり始めた。
小さな尻尾が、ぱたぱたと左右に揺れている。
「…………」
リーゼロッテ様が、その様子をじっと見つめていた。
さっきまでの怒りはどこへやら、その顔はふにゃりと緩みきっている。
「……か、かわいい……」
『かわいいと言うな! 我は誇り高き古の銀竜であるぞ!』
「ごめんなさいまし。でも、その、ほっぺにビスケットのかけらが……」
『む?』
ヴェルミナ様が、小さな前足で口元をくしくしと擦った。
「……っ!!」
リーゼロッテ様が、両手で顔を覆って机に突っ伏した。肩が小刻みに震えている。
『……おい人間。この娘は、どうしたのだ』
「たぶん、尊さに耐えきれなくなったんだと思います」
『とうとさ?』
◇
その日の昼過ぎ、驚くべき知らせが館に届いた。
「お嬢様ーっ! お嬢様ーっ!」
ハンスさんが、普段の落ち着きぶりからは想像もつかない勢いで廊下を走ってきた。燕尾服の裾が乱れている。
「どうしましたの、ハンス?」
「だ、旦那様が……旦那様が、お目覚めになられました!」
「――え?」
リーゼロッテ様の手から、ティーカップが滑り落ちた。
俺はとっさにそれを空中でつかんだ。ヴェルミナ様が中に頭を突っ込んでいたので、ついでに竜も救出することになった。
『ぷはっ! 何をする!』
「お父様が……!?」
リーゼロッテ様は、もう走り出していた。
◇
館の最上階の、一番日当たりのいい部屋。
大きな寝台の上で、痩せこけた壮年の男性が、身体を起こしていた。
リーゼロッテ様と同じ、プラチナブロンドの髪。今は白いものがかなり混じっているが、かつては精悍な武人だったのだろう。その面影が、落ちくぼんだ目元にかすかに残っている。
「……リーゼ」
「お父様……っ!」
リーゼロッテ様は、寝台に飛びついた。
「お父様、お父様……! 本当に、お目覚めになったのですね……!」
「ああ……すまない、リーゼ。長いこと、眠っていたようだ」
グラウヴァルト辺境伯、アルブレヒト・フォン・グラウヴァルト。
二年前に原因不明の病に倒れ、以来ずっと昏睡状態にあったという。
その病の原因を、俺はなんとなく察していた。
「……失礼します。グラウヴァルト家で文官を務めております、カイ・ロウエルです」
「君が……」
辺境伯は、娘の頭を撫でながら、俺に目を向けた。
「夢を、見ていたんだ。長い長い夢を。灰色の霧の中で、ずっと何かに縛りつけられているような……それが、昨日突然、ふっと解けた」
「……グラウヴァルトの当主は、土地と結びついているんだと思います」
俺は、【帳尻合わせ】で見た辺境伯の帳簿について、慎重に言葉を選びながら説明した。
「領地の豊穣が奪われ続けたことで、その負担が当主であるあなたの身体にも及んでいた。二百年の間に、代々の当主の多くが若くして病に倒れていますよね。おそらく、それも同じ原因です」
「…………」
「昨日、竜との契約が正しく精算されて、豊穣の搾取が止まりました。それで、あなたの身体を縛っていたものも解けたのでしょう」
辺境伯は、しばらく俺の顔をじっと見つめていた。
それから、ゆっくりと、寝台の上で頭を下げた。
「……ありがとう。娘を、領地を、そして私を救ってくれて」
「い、いえ、俺はただ、帳簿の帳尻を合わせただけで――」
「カイ様」
リーゼロッテ様が、涙で濡れた顔を上げた。
「謙遜は、時と場合によっては失礼にあたりますのよ」
「…………はい」
「素直に、受け取ってくださいまし。わたくしたちの、感謝を」
――感謝。
前世の会社では、帳尻を合わせても、合わせて当然と言われた。
前のパーティでは、帳尻を合わせていることにすら、誰も気づかなかった。
感謝の受け取り方なんて、俺は知らない。
「……どう、いたしまして」
ぎこちなく、そう言うのが精一杯だった。
リーゼロッテ様が、泣き笑いの顔で、ふふっと笑った。
『ふん。人間というのは、面倒な生き物だな』
俺の肩の上で、ヴェルミナ様が鼻を鳴らした。
だが、その小さな尻尾は、なぜかずっとぱたぱたと揺れていた。
◇
その夜。
俺は、自室の机に向かって、ゲラルト商会から押収した裏帳簿の写しを広げていた。
『――まだ起きておるのか、人間』
机の端で丸くなっていたヴェルミナ様が、片目を開けた。
いつの間にか、この部屋がヴェルミナ様の寝床になっていた。理由を聞いたら『代理人の監視だ』と言われた。
「すみません、起こしましたか」
『構わん。竜は、もともと眠りが浅い。……それは、例のMとやらの手がかりか?』
「ええ。ゲラルト商会は、毎年、利益の三割を『M様への上納』として送金していました。送金先の記録を辿れば、Mの正体に近づけるかもしれません」
『ふむ』
「ヴェルミナ様。契約を結んだ二百年前のこと、何か覚えていませんか? 立会人として署名したMについて」
ヴェルミナ様は、しばらく黙って天井を見上げていた。
『……思い出そうとしておるのだが、妙に霞がかかっておる。だが、確かに、ヨハンの隣にもう一人いた。人の良さそうな笑みを浮かべた、商人風の男だった』
「商人風の男」
『ヨハンが言っておった。『飢饉の中、領地に食糧を運んでくれた恩人だ』と。だから契約の立会人を頼んだのだと。我も、そのときは何の疑いも抱かなんだ』
……人の良さそうな笑み。困っているときに、手を差し伸べてくれる恩人。
まるで、ゲラルトと同じ手口だ。
『名は……確か……メル、なんとか……』
「メル……」
『いや、違うな。あれは偽名だったのかもしれぬ。だが、ひとつだけ、はっきりと覚えていることがある』
ヴェルミナ様の紫水晶の瞳が、暗闇の中で鋭く光った。
『あやつが契約書に署名したとき、その指先から、ほんのわずかに硫黄の匂いがした』
硫黄の匂い。
この世界で、それが意味することはひとつだ。
「……魔族、ですか」
『おそらくはな。それも、二百年も生き続け、竜の目さえ欺くほどの――相当な大物だ』
俺は、裏帳簿の最後のページに目を落とした。
『M様への上納』。
送金先は、東の国境の向こう。魔族の領域。
霊峰から伸びていた灰色の糸と、同じ方角だった。
「……二千七百七十万枚、か」
『む?』
「いえ。取り立てる相手が誰であれ、帳尻は、きっちり合わせてもらおうと思っただけです」
ヴェルミナ様が、小さく喉の奥で笑った。
『ふん。頼もしい代理人だ』
窓の外では、黄金色の麦畑が、月明かりの下で静かに揺れていた。
――収穫祭まで、あと十日。




