第十一話 【Side:聖女セリカ】置き去りの帳簿
聖女セリカがその帳簿を見つけたのは、まったくの偶然だった。
金獅子亭を追い出されたのは、二週間前のことだ。
宿代の未払いが解消できず、支配人に丁寧に、しかし有無を言わさず退去を求められた。今、勇者パーティの三人は、王都の下町にある安宿の、雨漏りのする狭い部屋を借りて暮らしている。
荷物を整理していたセリカは、トランクの底に、見覚えのない革表紙の束が押し込まれているのに気づいた。
「……これは」
表紙には、几帳面な字でこう書かれていた。
『勇者パーティ 会計帳簿 第三期』
カイの字だった。
そういえば――とセリカは思い出す。
あの夜、レオンは言った。『パーティの共有財産は置いていけ』と。カイはその言葉に従い、パーティの名義で管理していたものは、すべて置いていった。この帳簿も、パーティの共有財産として。
追い出されたときに金獅子亭から運び出した荷物に、紛れ込んでいたのだろう。
「……今さら、こんなもの」
セリカは、帳簿を放り出そうとした。
だが、なぜか手が止まった。
顔を覆う薄布の下で、頬の黒い痣がずきりと痛む。
毎日神殿で何時間も禊を続け、ようやく三分の一ほど薄くなった。それでも、まだ人前に素顔を晒せる状態ではない。
――この三年間、なぜ自分の顔には、穢れが溜まらなかったのか。
神殿の老司祭の言葉が、ずっと耳から離れない。
『まるで、誰かがずっと肩代わりしていたかのようだ』
セリカは、震える指で、帳簿の最初のページを開いた。
◇
それは、ごく普通の会計帳簿だった。
日付。項目。金額。
宿代、食費、装備の修繕費、ポーション代。整然と並んだ数字の列は、几帳面なカイらしく、一つの乱れもない。
だが、ページをめくるうちに、セリカは気づいた。
各ページの余白に、小さな字で、何かが書き込まれている。
『四月二日。レオンさん、聖剣使用三回。付け替え済み』
『四月二日。ガルドさん、上級魔法十二発。回路の焼損、付け替え済み。さすがに多い。明日それとなく注意する』
『四月二日。セリカさん、治癒の奇跡八回。穢れ、付け替え済み』
――付け替え済み。
セリカは、息を呑んだ。
次のページ。その次のページ。
どのページの余白にも、同じような書き込みがあった。毎日、毎日、一日も欠かさず。
『四月十五日。セリカさん、治癒十四回。うち九回は、レオンさんの擦り傷。もったいない気もするが、セリカさんが楽しそうなので黙っておく』
『五月三日。セリカさん、今日は少し顔色が悪い。昨日の分の穢れの付け替えが間に合わなかったか。今夜は二回分、多めに付け替えておく』
『六月二十日。睡眠時間、本日一時間。代償の付け替えは、俺が起きて働いている間しか進まない。宿の掃除と装備磨きを、夜のうちに済ませておく』
「……な、に……これ……」
セリカの指が、震えた。
付け替え。
穢れを、付け替えていた。
自分の顔に浮かぶはずだった穢れを、カイが、毎晩、引き受けていた。
そのために、彼は毎晩ほとんど眠らずに働いていた。
――セリカは思い出す。
野営の夜、いつも最後まで起きていたカイの背中を。朝、誰よりも早く起きて火を熾していたカイの姿を。
あれを、自分はなんと言った?
『ずっと起きてらっしゃるのね。夜中にこそこそと、何をしていらっしゃるのかしら。気味が悪いですわ』
「……あ……」
ページをめくる手が、止まらなかった。
『七月八日。セリカさんの誕生日。王都の菓子店でケーキを買う。パーティの経費では落とせないので、自腹。レオンさんが「俺からのプレゼントだ」と言って渡していたが、まあ、喜んでくれたのでよしとする』
「…………っ」
覚えている。
あの日、レオンが差し出してくれた、苺のたくさん載った白いケーキ。
嬉しくて、レオンに何度もお礼を言った。カイは、いつものように部屋の隅で帳簿をつけていた。セリカは彼の方を一度も見なかった。
『九月十四日。セリカさん、また宝石を「神への捧げ物」として購入。金貨八十枚。パーティの予算を大幅に超過。仕方がないので、来月の自分の給料から補填する』
『十月二日。今月の自分の給料、ゼロ。まあ、宿と食事はあるので問題ない』
『十一月二十日。セリカさんに「あなたは何の役にも立っていませんわね」と言われる。事実なので、反論はしない。戦闘では役に立っていないし。代償の付け替えのことは、言っても信じてもらえないだろうし、言えば恩着せがましくなる。黙っておく』
ぽたり、と。
帳簿の上に、雫が落ちた。
自分の涙だと気づくのに、少し時間がかかった。
「……ばか……ですわ……」
声が、かすれた。
「なんで……なんで、言ってくださらなかったの……っ」
言っても、信じなかっただろう。
セリカは、それを誰よりもよくわかっていた。
あの頃の自分は、自分が神に愛されていると信じていた。穢れが溜まらないのは、自分が特別だからだと。カイのような地味な男が、聖女である自分を支えているなどと言われたら、鼻で笑って取り合わなかっただろう。
最後のページ。
日付は、カイが追放された、あの夜だった。
『第三期決算。収支は相変わらず赤字。でも、皆が無事に一年を終えられたので、帳尻は合っている』
『今夜、レオンさんに話があると言われている。たぶん、良い話ではないと思う。前世でも、こういう呼び出しはだいたいそうだった』
『もし、俺がこのパーティを離れることになったら。付け替えていた代償は、すべて本来の持ち主に戻る。それだけが心配だ』
『どうか皆さん、お身体にだけは、お気をつけて』
「――――っ」
セリカは、帳簿を胸に抱きしめて、声を殺して泣いた。
あの夜、カイは最後にそう言って頭を下げた。
お身体にだけは、お気をつけて。
あれは、皮肉でも、捨て台詞でもなかった。
本当に、心から、自分たちのことを心配していたのだ。
これから自分たちの身に何が起きるのかを、全部わかった上で。
◇
「――レオン様!」
セリカは、帳簿を抱えて、隣の部屋に飛び込んだ。
レオンは、窓際の椅子に座って、ぼんやりと外を眺めていた。
ここ数週間で、彼はまた少し老け込んだように見える。金色だった髪の半分は灰色になり、頬はさらにこけていた。
「……なんだよ」
「これを、読んでくださいまし!」
セリカは、帳簿をレオンの膝の上に押しつけた。
「カイさんの帳簿ですわ! わたくしたちの代償は、全部、カイさんが肩代わりしていたんです! 聖剣の代償も、わたくしの穢れも、ガルドさんの魔力回路も、全部! カイさんがパーティを抜けたから、それが全部わたくしたちに戻ってきたんです!」
「…………」
レオンは、膝の上の帳簿を見下ろした。
開こうとは、しなかった。
「レオン様!」
「……知ってるよ」
「え……?」
「そんなこと、とっくにわかってんだよ」
レオンは、乾いた声で言った。
「ギルドマスターにも言われた。神殿の司祭にも言われた。噂も聞いた。東の辺境で、『ただの経理』を名乗る男が奇跡みたいなことをやってるって。わかってるよ。全部、あいつだったんだろ」
「だったら――」
「だったら、なんだよ!」
レオンが、帳簿を床に叩きつけた。
「俺に、どうしろってんだよ! 頭下げて、戻ってきてくださいって頼めってのか!? 勇者のこの俺が、あの雑用係に!? 『お前を追い出したのは間違いでした、どうか許してください』って、這いつくばって泣きつけってのかよ!?」
「…………」
「できるかよ、そんなこと……っ」
レオンは、両手で顔を覆った。
その指の間から、絞り出すような声が漏れた。
「認めたら……俺は、何なんだよ。三年間、勇者だ勇者だってもてはやされて……全部、あいつのおかげだったなんて……俺は、ただあいつに守られてただけの……」
セリカは、何も言えなかった。
床に落ちた帳簿が、開いたページのまま、そこにあった。
『どうか皆さん、お身体にだけは、お気をつけて』。
――その時、部屋の扉が乱暴に叩かれた。
「勇者レオン殿! 勇者レオン殿はおられるか!」
王宮の紋章をつけた伝令兵だった。
「国王陛下、ならびに財務卿オズワルド閣下からの勅命である!」
伝令兵は、羊皮紙を広げて読み上げた。
「魔王軍四天王の一角、『強欲のマモン』が率いる軍勢が、東の国境に集結しつつあるとの報せあり。勇者パーティはただちに東部国境へ向かい、これを迎え撃つべし!」
「……東部、国境」
「なお、財務卿閣下より、付言がある」
伝令兵は、やや言いにくそうに咳払いをした。
「『勇者パーティの抱える負債、総額金貨七千二百枚については、本任務の成功報酬をもって相殺するものとする。任務に失敗した場合、負債は全額、勇者の称号の剥奪をもって王家が清算する』――以上である」
レオンの顔から、血の気が引いた。
勇者の称号の剥奪。
それは、彼にとって、死刑宣告にも等しい言葉だった。
伝令兵が去ったあと、部屋には重い沈黙が落ちた。
「……東部国境、か」
やがて、レオンが呟いた。
セリカは、はっとした。
東部国境。
王国の最東端。魔族の領域と接する、その場所にあるのは――。
「……グラウヴァルト辺境伯領」
レオンが、ゆっくりと顔を上げた。
その目に宿っていたのは、反省の色でも、後悔の色でもなかった。
追い詰められた獣のような、ぎらついた光だった。
「ちょうどいいじゃねえか」
「レオン、様……?」
「あいつに、会いに行ってやるよ」
レオンは、床の帳簿を踏みつけて、立ち上がった。
「あいつは、俺のパーティの経理担当だ。追放? ああ、取り消してやるよ。勇者の俺が、直々に迎えに行ってやるんだ。泣いて喜ぶに決まってる」
「レオン様、それは――」
「あいつは戻ってくる。戻ってこさせる。そうすりゃ、全部元通りだ」
レオンは、乾いた笑い声を上げた。
セリカは、その横顔を見て、ぞっとした。
この人は、まだ何もわかっていない。
いや――わかっていて、わからないふりをしているのだ。
セリカは、レオンに踏まれて汚れた帳簿を、そっと拾い上げた。
そして、最後のページを、もう一度だけ見た。
『どうか皆さん、お身体にだけは、お気をつけて』。
「……ごめんなさい、カイさん」
誰にも聞こえない声で、セリカは呟いた。
「わたくしたち、きっと……あなたに、ひどいことをしに行きますわ」




