第十二話 収穫祭と、令嬢の素顔
グラウヴァルト領で収穫祭が開かれるのは、実に百二十年ぶりのことだという。
「百二十年……」
「ええ。最後に開かれたのは、わたくしの曾々お祖父様の時代だそうですわ。それ以来、祝うほどの収穫がありませんでしたもの」
祭りの当日。
領主館の前の広場は、領内のあちこちから集まってきた人々でごった返していた。
広場の中央には、麦藁で編んだ巨大な人形が立てられ、その周りを色とりどりの布で飾った屋台がぐるりと囲んでいる。焼きたてのパンの匂い。煮込んだ羊肉の匂い。蜂蜜酒の甘い香り。子どもたちの笑い声と、素朴な笛と太鼓の音。
灰色だった領地が、今は、こんなにも色に溢れている。
「カイの兄貴ーっ! こっちの焼き串、食ってってくだせえ!」
元ゲラルト商会の護衛で、今は領地の警備隊長を務めるボルグさんが、屋台の向こうから大声で手を振っている。
「奇跡の文官様じゃ! ほれ、うちの蜂蜜酒も飲んでいきなされ!」
「カイ様、うちのパンも食べてって! 今年の麦で焼いた、初めてのパンなの!」
「いや、あの、そんなに一度には……」
気がつけば、俺の両手は焼き串と蜂蜜酒の杯とパンでいっぱいになっていた。
『おい人間。そのパンを寄越せ』
「ヴェルミナ様、さっきから三つ目ですよ」
『竜は燃費が悪いのだ。特に今のこの身体は、魔力が足りぬ分を食事で補わねばならん』
俺の肩の上で、ヴェルミナ様がふんぞり返った。
口の周りには、さっき食べた蜂蜜パイのかけらがついている。
「あら、ヴェルミナ様! こっちのクッキーもいかがですか?」
「竜様ー! うちのリンゴ飴も食べてー!」
「銀色のもふもふ様ー!」
『も、もふもふ様とはなんだ! 我は誇り高き銀竜――む、リンゴ飴? ……ひとつだけだぞ』
ヴェルミナ様は、すっかり領民たちの人気者になっていた。
最初は『伝説の竜』と恐れられていたのだが、そのあまりにも愛らしい外見と、食べ物を差し出されると抗えない性質が知れ渡るにつれ、今ではすっかり『領地の守り神』として親しまれている。本人は不本意そうだが、尻尾はいつも揺れている。
「――カイ様」
声をかけられて振り向いた俺は、そこで、言葉を失った。
リーゼロッテ様が、立っていた。
淡い空色のドレスだった。
泥だらけの古いドレスでも、丈の短い紺の礼装でもない。肩口に白いレースをあしらい、裾にかけて柔らかく広がる、春の空のような色のドレス。
プラチナブロンドの髪は丁寧に結い上げられ、麦の穂を模した小さな金の髪飾りが、陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
「…………」
「……あ、あの、カイ様? 何か、おっしゃってくださいまし」
「……あ、ええと」
何か言わなければ。
でも、頭が真っ白で、何も出てこない。
前世の三十数年と今世の二十二年、合わせて五十数年。その間、女性の服装を褒めるという経験を、俺は一度もしたことがなかった。
「……収支が、合ってますね」
「しゅ、収支……?」
「あ、いえ、その。似合っている、という意味で。色の配分といい、装飾の比率といい、全体の構成が、こう、完璧に釣り合っているというか……」
何を言っているんだ、俺は。
リーゼロッテ様は、ぽかんと口を開けて俺を見ていた。
それから――ぷっ、と吹き出した。
「ふふっ……あははっ! な、なんですの、それ! 『収支が合ってる』って……!」
「すみません。褒め言葉の語彙が、経理用語しかなくて」
「ふふ、ふふふっ……もう、カイ様ったら……!」
リーゼロッテ様は、お腹を抱えて笑っていた。
目の端に涙まで浮かべて。
ひとしきり笑ったあと、彼女は、少し頬を染めて、俺を見上げた。
「……でも、嬉しいですわ。カイ様にとっての、最上級の褒め言葉なのでしょう?」
「……はい。たぶん」
「なら、ありがたく受け取りますわ」
彼女は、ドレスの裾をつまんで、くるりと一回転してみせた。
空色の裾が、ふわりと花のように広がる。
「このドレス、母の形見ですの。仕立て直すお金がなくて、ずっとしまい込んでいたのですけれど……カイ様のおかげで、ようやく直せましたわ」
「……お母様の」
「ええ。わたくしが十歳のときに亡くなりましたの。瘴気の病で」
リーゼロッテ様は、少しだけ遠い目をした。
「母は、いつも言っていましたわ。『いつか、この領地が金色の麦畑でいっぱいになったら、このドレスを着て、収穫祭で踊りなさい』って。わたくし、そんな日は来ないと思っていましたの。だって、この領地は、ずっと灰色でしたから」
彼女は、広場を見渡した。
黄金色の麦藁人形。笑顔の領民たち。踊る子どもたち。
「でも、来ましたわ。カイ様が、連れてきてくださいましたの」
「……俺は、帳尻を合わせただけですよ」
「また、それですのね」
リーゼロッテ様は、くすりと笑った。
それから、少しだけ躊躇うように視線を泳がせて――意を決したように、俺に手を差し出した。
「カイ様。わたくしと、踊っていただけますか?」
「――え」
「母との約束ですもの。収穫祭で、このドレスを着て踊るって。……その最初のお相手は、カイ様がいいんですの」
「い、いや、俺、ダンスなんて一度も――」
「わたくしがお教えしますわ」
「足を踏みますよ。たぶん、何度も」
「構いませんわ。わたくしの足は、畑仕事で鍛えていますもの」
差し出された手は、まだそこにあった。
白くて、細くて、でも、鍬を握ってできたまめの跡が、指の付け根にうっすらと残っている手。
俺は、両手に抱えていた焼き串とパンと蜂蜜酒を、全部ヴェルミナ様に押しつけた。
『む? おい、なんだこれは――全部食べてよいのか?』
「どうぞ」
そして、その手を取った。
◇
結論から言うと、俺はリーゼロッテ様の足を十一回踏んだ。
「い、いたっ……! カ、カイ様、右! 右ですわ!」
「す、すみません!」
「そこでくるっと――ああっ、逆! 逆ですわ!」
「すみません!」
「ふふっ……あははっ! もう、カイ様、下手すぎますわ……!」
「だから言ったじゃないですか!」
周りで見ていた領民たちが、どっと笑った。
「兄貴ーっ! しっかりしてくだせえ!」
「文官様、意外と不器用だなあ!」
「お嬢様、頑張れー!」
顔から火が出そうだった。
でも、リーゼロッテ様は、ずっと笑っていた。
足を踏まれるたびに、痛い痛いと言いながら、本当に楽しそうに。
何曲か踊ったあと、俺たちは広場の端のベンチに並んで腰を下ろした。
「はあ……楽しかったですわ」
「俺は、心臓が止まるかと思いました」
「ふふ。でも、最後の方は、少し上手になっていましたわよ」
「十一回踏みましたけどね」
「数えていらしたのね……」
「経理なので」
リーゼロッテ様が、また笑った。
広場では、篝火が焚かれ始めていた。オレンジ色の炎が、踊る人々の影を長く伸ばしている。
「……ねえ、カイ様」
「はい」
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「カイ様の【帳尻合わせ】は、人の心の中も見えるんですの?」
俺は、少し考えてから答えた。
「見えるときもあります。帳簿に記されるような、はっきりした感情なら。『誇り』とか、『諦め』とか、『孤独』とか」
「……では」
リーゼロッテ様は、ドレスの膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめた。
「わたくしの帳簿にも……今、何か、書いてありますの?」
「…………」
俺は、彼女の方を見た。
そして、【帳尻合わせ】を発動した。
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【リーゼロッテ・フォン・グラウヴァルト 個人台帳】
・誇り: 満額
・諦め: ゼロ
・喜び: 本日大幅に増加
・カイ・ロウエルに対する――
【閲覧不可】
理由: 利益相反
(閲覧者本人に関わる項目のため、
スキルの公正性の観点から開示できません)
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「…………」
利益相反。
初めて見る表示だった。
確かに、経理の世界では、自分自身が当事者になる取引は、自分で処理してはいけないという原則がある。公正性を保つためだ。
まさか、それがスキルにまで適用されるとは。
「カイ様? な、何が見えましたの?」
「……すみません。見えませんでした」
「見えなかった……?」
「俺に関係する項目は、スキルの規則で、見られないみたいです」
「――――」
リーゼロッテ様は、一瞬きょとんとした。
それから、俺の言葉の意味を理解したらしく――みるみるうちに、耳まで真っ赤になった。
「か、カイ様に関係する項目って……っ、そ、そんなものが、あるってことですの!?」
「いや、あるかどうかもわかりません。見えないので」
「み、見えないのに、項目があることは、わかったんですのね!?」
「…………」
「…………」
篝火が、ぱちりと爆ぜた。
「……忘れてくださいまし」
「はい」
「今のは、全部、忘れてくださいまし……っ!」
「はい。忘れました」
「本当ですの!?」
「経理は、記録しないと決めたものは記録しません」
「それ、絶対忘れていない人の言い方ですわ!」
リーゼロッテ様は、両手で顔を覆って、ベンチの端っこまで逃げていった。
俺は、夜空を見上げた。
自分の顔が熱いのは、きっと篝火のせいだ。
たぶん。
――自分の帳簿は、【帳尻合わせ】では見られない。それもまた、利益相反だから。
だから、今、自分の胸の中で何が増えているのか、俺には数字ではわからない。
でも、数字でわからなくても、いいような気がした。
◇
『――ふん。若いな』
少し離れた屋台の屋根の上で、焼き串を三本まとめてくわえたヴェルミナ様が、二人の様子を眺めて鼻を鳴らした。
『二百年前のヨハンも、ちょうどあんな顔をしておったわ。嫁をもらう前の晩にな』
銀色の小さな竜は、満足げに目を細めた。
――そして、ふと、その目が鋭く光った。
『…………む』
広場の喧騒の、さらに向こう。
東の国境の方角から、風に乗って、かすかな匂いが流れてきた。
硫黄の匂い。
ヴェルミナ様は、焼き串をくわえたまま、じっと東の闇を見つめていた。
祭りの夜は、まだ続いていた。




