第八話 瘴気の山と、二百年分の怒り
「――霊峰に、行こうと思います」
俺がそう切り出したのは、ハーゼル村の麦畑が実ってから二週間後のことだった。
その間に、俺は領内の四十二区画すべての土地の未払い債務を精算し終えていた。グラウヴァルト領は、今やどこを見渡しても黄金色の麦畑が広がっている。
近隣の領地からは「何が起きたのか」と使者がひっきりなしに訪れ、王都の商会からは小麦の買い付けの申し込みが殺到していた。ゲラルト商会の代わりに、まっとうな商会と正規の相場で契約を結んだおかげで、領地の財政は見違えるように改善しつつある。
だが、根本的な問題は何も解決していない。
「畑から吸い上げられている豊穣の流れは、今も止まっていません。今は二百年分の未払いを精算したおかげで地力が戻っていますが、このままでは数年で、また元の灰色の土地に戻ってしまう」
「……竜への、利息の支払い、ですわね」
リーゼロッテ様が、表情を引き締めた。
「ええ。それに、竜への借金の元本と利息、合わせて金貨二十八万四千枚が、まだ帳簿に残っています。これを何とかしない限り、グラウヴァルト領に本当の意味での未来はありません」
「でも、霊峰の瘴気は……今まで、誰ひとり戻ってきませんでしたのよ?」
「たぶん、大丈夫だと思います」
俺は、窓の外の東の空を見た。
霊峰の頂は、いつも灰色の雲に覆われている。
だが、俺の【帳尻合わせ】の目には、その雲の正体が見えていた。
「あの瘴気は、竜の怒りというよりは……『未払いの請求書』が具現化したものだと思います。竜が受け取るはずだったものを受け取れず、その不満が積み重なって形になったもの。だから、『債務者側の人間』が近づけば、取り立てのために襲いかかってくる」
「債務者側の人間……」
「グラウヴァルト領の人間、という意味です。これまでの使者が戻らなかったのは、たぶんそのせいでしょう」
「では、カイ様も危険ではありませんの!?」
「俺は、グラウヴァルト家の人間ではありませんから。雇用契約上は、ただの外部委託の文官です」
「が、外部委託……?」
「そういう契約にしておきました。念のため」
リーゼロッテ様は、しばらくぽかんとしていたが、やがて、ぎゅっと唇を引き結んだ。
「……わたくしも、行きますわ」
「リーゼロッテ様。話を聞いていましたか? あなたは債務者側の当主です。瘴気に一番狙われる立場ですよ」
「だからこそ、ですわ」
リーゼロッテ様は、立ち上がった。
「グラウヴァルトの借金は、グラウヴァルトの当主が向き合うべきものですわ。それを、雇ったばかりの文官ひとりに押しつけて、自分は安全な館で待っているなんて……そんなの、ご先祖様に顔向けできませんもの」
「…………」
「それに」
彼女は、少しだけ頬を染めて、目を逸らした。
「カイ様は、剣が使えないでしょう? 霊峰には魔物も出ると聞きますわ。護衛が必要ですわよね?」
――そう言われると、反論できない。
俺は戦闘能力ゼロだ。ゲラルトの護衛たちのように、話の通じる相手ばかりとは限らない。
「……わかりました。ただし、危ないと思ったらすぐに引き返すこと。それが条件です」
「はいっ!」
リーゼロッテ様は、満面の笑みで頷いた。
なんとなく、引き返す気はまったくなさそうな笑顔だった。
◇
霊峰エルシュタインは、グラウヴァルト領の東端にそびえる、標高三千メートルを超える岩山だ。
麓の森を抜けると、空気が変わった。
じっとりと重く、肌にまとわりつくような湿気。草木は枯れ、岩肌は灰色に変色している。
「……カイ様。少し、息苦しいですわ」
「瘴気が濃くなってきましたね。リーゼロッテ様、これを」
俺は、懐から一枚の紙を取り出して、彼女に手渡した。
「なんですの、これ?」
「仮の『債務引受契約書』です。リーゼロッテ様がこの山にいる間、グラウヴァルト家の債務者としての立場を、一時的に俺が引き受けるという内容です」
「……え?」
「これで、瘴気はリーゼロッテ様ではなく、俺を狙ってくるはずです」
「ちょ、ちょっと待ってくださいまし! それではカイ様が――」
「大丈夫ですよ。前のパーティでは、三年間で二千八百件くらい他人の代償を引き受けてましたから。慣れてます」
「慣れてるとか、そういう問題じゃありませんわ!」
リーゼロッテ様が、契約書を握りしめて抗議した。だが、すでにサインは済んでいる。彼女が館で何気なく書いた『カイ様、お気をつけて』という手紙の署名を、ちょっと拝借させてもらった。
「……あとで、たっぷりお説教させていただきますわ」
「お手柔らかにお願いします」
◇
山頂に近づくにつれ、瘴気はさらに濃くなっていった。
視界はほとんど灰色に塗りつぶされ、数歩先も見えない。
そして、その灰色の霧の中から――『それ』は現れた。
『カエセ』
声。
いや、声というよりは、無数の囁きが重なり合ったような音。
『カエセ……カエセ……』
『ハラエ……ハラエ……ハラエ……』
霧が、形を持ち始める。
人の形。獣の形。名状しがたい何かの形。それらが灰色の霧の中で絶えず溶け合い、ねじれ合いながら、俺たちを取り囲んでいく。
「カ、カイ様っ……!」
リーゼロッテ様が剣を抜き、俺の前に立った。
「下がってくださいまし! わたくしが――」
「大丈夫です、リーゼロッテ様。剣は、しまってください」
「で、でも!」
「あれは、斬っても意味がありません。あれは『請求書』ですから」
俺は、灰色の霧の群れを見つめた。
【帳尻合わせ】の目に映る、それらの正体。
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【瘴気体 台帳】
・正体: 未払い利息の督促状(具現化)
・発行者: 銀竜ヴェルミナ
・請求先: グラウヴァルト辺境伯家
・請求額: 年ごとの未払い利息(計二百件)
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やっぱり、そうだ。
この霧の一体一体が、二百年間支払われなかった利息の督促状なのだ。
竜が受け取るべきものを受け取れず、その怒りと不満が凝り固まって、こうして山を覆い尽くしている。
『ハラエ……ハラエ……』
霧の群れが、一斉に俺に向かって襲いかかってきた。
「カイ様っ!!」
俺は、逃げなかった。
ただ、両手を広げて、それらを受け止めた。
「――確かに、受領しました」
瞬間。
灰色の霧が、俺の身体に触れたところから、ぱあっと白い光に変わっていった。
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【帳尻合わせ】
督促状 二百件を受領しました。
各督促状の内容を精査します――
……
……
……
精査完了。
【重大な不整合を検出】
請求額と、実際の徴収額が一致しません。
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「……は?」
思わず、声が出た。
請求額と、徴収額が一致しない。
つまり、こういうことだ。
竜は、二百年間『利息が支払われていない』と怒っている。だから督促状を出し続けてきた。
だが、実際には――グラウヴァルトの土地からは、毎年、膨大な豊穣が吸い上げられ続けている。
払っているのに、届いていない。
徴収された豊穣は、竜のもとに届く前に、どこかで消えている。
「カイ様! ご無事ですの!?」
霧が晴れていく。
灰色だった世界に、少しずつ色が戻ってくる。
「……ええ、大丈夫です。でも、リーゼロッテ様」
「はい?」
「どうやら、この借金――思っていたより、ずっとややこしいことになっているみたいです」
その時だった。
晴れた霧の向こう、山頂の巨大な岩棚の上で。
何かが、ゆっくりと、身を起こした。
月光を溶かしたような、白銀の鱗。
星を宿したような、紫水晶の瞳。
広げれば山頂を覆い尽くすほどの、巨大な翼。
――銀竜ヴェルミナ。
二百年の眠りから覚めた古き竜が、俺たちを見下ろしていた。
『……我が督促を、受け取った者がいるな』
山そのものが震えるような声だった。
『二百年ぶりだ。グラウヴァルトの者が、我が前に姿を現すのは』
紫水晶の瞳が、すうっと細められる。
その奥で、二百年分の怒りが、静かに、しかし確かに燃え盛っていた。
『――ようやく、借りを返しに来たか。不義理な人間どもめ』




