第六話 畑にも貸し借りがあるなんて、聞いてない
ゲラルト商会から金貨四千五百枚が届いたのは、それから三日後のことだった。
頑丈な鉄の箱が五つ。それを領主館の執務室の床に並べ、蓋を開けた瞬間、リーゼロッテ様は――。
「…………」
無言で、気絶した。
「お嬢様ーっ!?」
「リーゼロッテ様!?」
慌てて抱き起こすと、彼女はうっすらと目を開け、うわごとのように呟いた。
「……き、金色……床が、金色ですわ……お芋じゃない……金色の……」
「しっかりしてください。本物ですよ」
「ほ、本物……? 夢では、ありませんの……?」
「頬でもつねりましょうか」
「お、お願いしますわ」
俺は遠慮がちに、彼女の頬を軽くつまんだ。
白くて、柔らかかった。
「……いひゃい、れすわ」
「夢じゃないですね」
「……夢じゃ、ありませんのね」
リーゼロッテ様は、俺の腕の中でぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「わたくし……父が倒れてから、ずっと……ずっと、怖かったんですの。いつか全部、取り上げられてしまうんじゃないかって。領民たちを、守れなくなるんじゃないかって……」
「……はい」
「ありがとう、ございます……カイ様……本当に……」
泣きじゃくる彼女の頭を、俺はどうしていいかわからず、とりあえずぽんぽんと撫でた。
ハンスさんが、なぜかハンカチで目頭を押さえながら、そっと部屋を出ていった。気を遣わなくていいのに。
◇
さて、金貨四千五百枚の使い道である。
「まず、王国への未納税金貨三千枚。これは最優先で払います。滞納が続くと爵位の剥奪もありえますから」
「はい」
「残りの千五百枚のうち、五百枚は領主館の修繕費。屋根だけでも直さないと、冬が越せません」
「はい」
「そして残りの千枚で、種と農具と、家畜を買います」
「種と、農具と、家畜……ですの?」
リーゼロッテ様が首をかしげた。
「でも、カイ様。この領地の土は、何を植えても育ちませんのよ? 瘴気のせいで、お芋くらいしか……」
「ええ。だから、その前に土をなんとかします」
「土を、なんとか?」
「ちょっと、畑に出ましょうか」
◇
領主館から一番近い村、ハーゼル村。
五十戸ほどの小さな集落で、灰色の畑の中にぽつりぽつりと粗末な家が建っている。
俺とリーゼロッテ様が村に入ると、畑仕事をしていた村人たちが次々に顔を上げた。
「おお、お嬢様じゃ!」
「お嬢様、今日はどうなさいました?」
「お嬢様ー! 見て見て、お芋掘ったー!」
小さな女の子が、泥だらけの芋を掲げて駆け寄ってくる。
リーゼロッテ様は躊躇なくしゃがみこみ、その子を抱きとめた。
「まあ、ミア! 立派なお芋ですわね!」
「えへへー!」
……慕われているんだな、と思った。
貴族の令嬢が、泥だらけの子どもを当たり前のように抱きしめる。村人たちも、彼女を遠巻きに敬うのではなく、まるで家族のように親しげに話しかけてくる。
この領地の帳簿は真っ赤だ。
でも、領主と領民の間の帳簿は――たぶん、見事な黒字なのだろう。
「お嬢様、そちらの若いのは?」
白い髭をたくわえた老人が、杖をつきながら近づいてきた。村長のトマスさんだという。
「新しくいらした文官のカイ様ですわ。とっても頭がよくて、とっても頼りになる方ですのよ! ゲラルト商会の借金も、カイ様が全部なくしてくださったんですの!」
「なんと……あの、ゲラルトの借金を……?」
ざわっ、と村人たちがどよめいた。
「本当か!?」
「あのごうつくばりのゲラルトから……!?」
「た、ただ者じゃねえぞ、あの兄ちゃん……!」
いや、ただの経理なんだけど。
「それで、今日はこの村の畑を見せていただきたくて」
俺は、目の前に広がる灰色の畑に視線を向けた。
そして、【帳尻合わせ】を発動する。
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【ハーゼル村 第三区画 土地台帳】
■貸方(土地が受け取ったもの)
・村民による耕作労働: 二百年分
・村民による施肥: 二百年分
・村民による祈り: 二百年分
■借方(土地が支払ったもの)
・作物の実り: 本来の一割以下
■差引: 土地 → 村民への未払い
計上額:莫大
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――やっぱり、そうだ。
この土地の帳簿を初めて見たときから、ずっと気になっていた。
畑というのは、本来、貸し借りの関係で成り立っている。
人が土を耕し、肥料を与え、種を蒔き、世話をする。それが土地への『貸し』だ。そして土地は、その貸しに応えて作物を実らせる。それが『返済』。
健全な畑では、この貸し借りが毎年きちんと釣り合っている。
でも、この村の畑は違った。
村人たちは二百年間、痩せた土地を必死に耕し続けてきた。祈り、肥料をやり、何度失敗しても種を蒔き続けてきた。
それなのに、土地はほとんど何も返していない。
土地が返すべきだった豊穣は、どこか別の場所へ吸い上げられている。俺の目には、畑の地中から細い灰色の糸のようなものが無数に伸び、東の山へと向かっていくのが見えた。
だが、それはそれとして。
帳簿上、この土地は、村人たちに対して、二百年分の『未払い』を抱えている。
「カイ様? どうかなさいましたの?」
「リーゼロッテ様。ひとつ、試してみたいことがあります」
俺は畑の端にしゃがみこみ、灰色の土に手のひらを当てた。
「この畑は、村の皆さんに二百年分の借りがあります。耕してもらった恩、肥料をもらった恩、祈ってもらった恩。それを、まだ一度もちゃんと返していない」
「土地が……借りを?」
「ええ。だから――そろそろ、返してもらいましょう」
俺は目を閉じた。
東の山へと流れていく灰色の糸。あれは、今の俺の力では断ち切れない。もっと根本的な、巨大な契約に縛られているからだ。
でも、この区画の土地と、この村の人々との間の帳尻なら――合わせられる。
「【帳尻合わせ】――未払い債務の、強制精算」
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【精算処理】
ハーゼル村第三区画における
土地から村民への未払い債務を精算します。
返済方法: 地力の回復による現物返済
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手のひらの下で、土が、どくん、と脈打った。
「――え?」
リーゼロッテ様の声。
灰色だった土が、俺の手を中心にして、じわじわと色を変えていく。
灰色から茶色へ。茶色から、しっとりと湿った、深い黒褐色へ。
それは波紋のように広がっていった。一歩、二歩、十歩、百歩。畑の端から端まで、まるで黒い絨毯を敷き詰めるように。
「な、なんじゃ……!?」
「土が……土の色が……!」
そして、その黒い土の中から――。
ぽこっ。
小さな、緑の芽が顔を出した。
ぽこっ、ぽこっ、ぽこぽこぽこぽこっ。
一つ、二つ、十、百、千。
村人たちが撒いたまま芽吹かなかった種が、二百年分の恩返しをするように、一斉に土を押し上げて伸び始めた。
見る見るうちに茎が伸び、葉が開き、蕾がふくらむ。
麦の穂が、黄金色に輝きながら風に揺れる。
ほんの数分の出来事だった。
灰色だった畑は、見渡す限りの黄金色の麦畑に変わっていた。
「…………」
「…………」
「…………」
村中が、静まり返った。
ミアの手から、ぽとりと芋が落ちた。
「……ふう」
俺は立ち上がって、膝の土を払った。
さすがに少し疲れた。二百年分の精算は、帳簿の規模が大きい。
「とりあえず、この区画は大丈夫そうですね。他の区画も、順番に精算していきましょう。全部で四十区画くらいでしょうか。一日五区画ずつやれば、八日で――」
「カ」
振り向くと、リーゼロッテ様が口をぱくぱくさせていた。
「カ、カイ様……い、今の……今のは……」
「土地の帳簿の、未払い分を精算しただけですよ。経理の仕事です」
「け、経理……? け、経理のお仕事って、畑を一瞬で麦畑にすることでしたの……!?」
「いえ、普通はしませんけど」
「普通はしないんですのね!?」
「でも、帳簿の帳尻が合っていないのは気持ち悪いので」
「気持ち悪いからで、二百年の呪いを……!?」
リーゼロッテ様が頭を抱えた。
次の瞬間、村人たちの歓声が爆発した。
「うおおおおおおおっ!!」
「麦じゃ! 麦が実ったぞおおおっ!」
「奇跡だ! 奇跡の文官様だ!」
「お嬢様が、奇跡の文官様を連れてきてくださったぞー!」
「いや、だから奇跡じゃなくて経理――」
「カイ様ーっ!!」
村長のトマスさんが、杖を放り投げて俺の手を握りしめた。皺だらけの目から、ぼろぼろと涙が溢れている。
「わしは……わしは、生きているうちに、この村に麦が実るのを見られるとは思っておらんかった……! わしの親父も、爺さんも、そのまた爺さんも、ずっと、ずっとこの土を耕して……っ」
「……はい」
「ありがとう……ありがとうございます……っ!」
気がつけば、村中の人々が俺の周りに集まって、口々に礼を言っていた。泣いている人もいた。笑っている人もいた。ミアは芋を拾い直して、なぜか俺にくれた。
俺は、その芋を受け取りながら、少しだけ困っていた。
前世でも今世でも、帳尻を合わせて感謝されたことなんて、一度もなかったから。
「……カイ様」
騒ぎの輪から少し離れたところで、リーゼロッテ様がそっと俺の袖を引いた。
彼女の空色の瞳は、黄金色の麦畑を映して、きらきらと輝いていた。
「あなたは……一体、何者なんですの?」
「ただの、元雑用係ですよ」
「……嘘ですわ」
リーゼロッテ様は、少しだけ拗ねたように唇を尖らせ、それから、ふわりと笑った。
「でも、いいですわ。あなたが何者でも。わたくしにとっては――」
風が吹いて、麦の穂がざあっと鳴った。
その音にかき消されて、彼女の言葉の続きは、よく聞こえなかった。
「――今、何か言いました?」
「な、なんでもありませんわっ!」
リーゼロッテ様は、なぜか耳まで真っ赤になって、ぷいっとそっぽを向いた。
◇
その夜。
俺は領主館の、雨漏りのしない一室(ハンスさんがわざわざ用意してくれた)で、ひとり考え込んでいた。
畑から東の山へと伸びていく、無数の灰色の糸。
あれは、竜への利息の支払いだと思っていた。
でも、今日あの糸を間近で見て、ひとつ気づいたことがある。
糸は、東の霊峰に向かっていた。
――だが、霊峰で終わってはいなかった。
山の向こう側。王国の外。魔族の領域がある、さらにその先へ。
糸は、細く、細く、どこまでも伸び続けていたのだ。




