第五話 悪徳商会の帳簿は、だいたい二冊ある
ゲラルト商会の主人がグラウヴァルト領を訪れたのは、俺が着任してから五日後のことだった。
ちょうど、毎月の『利息の取り立て』の日だったのだ。
「いやあ、リーゼロッテ様! 今日もお美しい! そのお召し物も、ええ、大変趣がございますなあ!」
豪奢な四頭立ての馬車から降りてきたのは、樽のような体型の中年男だった。
指という指に宝石の指輪をはめ、絹の上着のボタンは腹の肉ではち切れそうになっている。背後には、剣を下げた屈強な護衛が四人。
商会主ゲラルト。
【帳尻合わせ】の目に映る彼の帳簿は、見事なまでに真っ黒だった。
「ごきげんよう、ゲラルト様」
リーゼロッテ様は、いつもの泥だらけのドレスではなく、館に一着だけ残っていたという紺色の礼装に着替えていた。少し丈が短いのは、たぶん十四、五歳の頃に仕立てたものだからだろう。
「さてさて、早速ですが、今月の利息の件で。金貨百二十枚、ご用意いただけておりますかな?」
「…………」
「おや? まさか、また『もう少し待ってほしい』などとはおっしゃいませんでしょうな? いやいや、わたくしも心苦しいのですよ。ですが商売は商売。これ以上滞るようでしたら、そろそろ領地の一部を担保として差し押さえさせていただくことも――」
「その件ですが」
俺は、リーゼロッテ様の半歩前に出た。
「当家の帳簿を精査させていただいた結果、お支払いの必要はないと判断しました」
「……は?」
ゲラルトの笑顔が、一瞬だけ凍りついた。
「どちら様ですかな?」
「失礼しました。先日からグラウヴァルト辺境伯家で文官を務めております、カイ・ロウエルと申します」
「文官……?」
ゲラルトは俺を頭のてっぺんから爪先まで値踏みするように眺め、それから鼻で笑った。
「はっ、こんな貧乏領地に文官ですか。それはそれは、物好きな方もいらっしゃるものですな。それで? 支払いの必要がない、とは?」
「言葉どおりの意味です」
俺は脇に抱えていた紙の束を、応接間のテーブルに広げた。
この五日間、ほとんど寝ずに作り上げた資料だ。
グラウヴァルト家とゲラルト商会の、過去十二年分の全取引記録。それを一件ずつ照合し、正しい金額に引き直した一覧表。
「まず、貸付時の『手数料』。毎回、貸付額の二割を天引きされていますが、王国商法第四十二条により、貸付時の手数料は一割を上限と定められています。超過分は利息とみなされます」
「な……」
「次に金利。年利四割。王国法の上限金利は年利二割です。超過分は無効。すでに支払われた超過分は、過払い金として返還請求が可能です」
「ま、待て」
「さらに、農産物の買い取り価格。過去十二年間、小麦と羊毛を王都の相場の平均五割二分の価格で買い取っています。これについては、借入金の返済と相殺する形で取引されていますので、相場との差額は実質的な追加の利息にあたります」
「待てと言っている!」
「最後に、三年前の秋。金貨五百枚の返済記録」
俺は一枚の紙を指で示した。
古びた受領証。ゲラルト商会の印章が押されている。
「こちらの受領証があるにもかかわらず、商会側の残高から差し引かれていません。これは単純な記帳漏れか、あるいは――意図的な横領ですね」
応接間が、しんと静まり返った。
ゲラルトの額に、脂汗が浮かんでいる。
だがさすがは海千山千の商人だ。すぐに表情を取り繕い、ふてぶてしく笑った。
「……ふん。なかなか面白い作文ですな。ですがね、文官殿。そんなものは、あなたが勝手に計算しただけの数字にすぎない。証拠は? わたくしの商会の帳簿には、そんな不正の記録はどこにもありませんよ」
「ええ、表の帳簿には、ないでしょうね」
「……なに?」
「ゲラルトさん」
俺は、静かに彼の目を見た。
「あなた、帳簿を二冊つけていますよね」
ゲラルトの顔から、すっと表情が消えた。
【帳尻合わせ】の目に、彼の帳簿が二重写しに見える。
王国の税務官に見せるための、綺麗に整えられた表の帳簿。
そして、彼の商会の地下金庫にしまわれた、真実の裏帳簿。
俺のスキルは、取引の『実態』を読む。
紙にどう書かれているかは関係ない。実際に誰が誰から何を受け取り、何を支払ったのか。その真実の流れが、俺の目にはすべて見えるのだ。
「裏帳簿の三十二ページ目。『グラウヴァルト案件・特別収益』の欄。この十二年で、合計金貨一万八千四百枚。それから四十ページ目には、隣領の代官への『心付け』として毎年金貨二百枚。グラウヴァルトの小麦を相場より高く買いたいという他の商会を、代官を通じて締め出していますね」
「き、貴様……っ、なぜそれを……!」
思わず口走ってから、ゲラルトは自分の失言に気づいたらしい。
顔色が、赤から青へ、青から白へと、目まぐるしく変わっていく。
「そして最後に、裏帳簿の一番最後のページ。毎年、利益の三割を『M様への上納』として送金している。……このMというのは、どなたですか?」
「――――ッ!」
その瞬間、ゲラルトの顔に浮かんだのは、怒りでも焦りでもなかった。
純粋な、恐怖だった。
「……知らん。何のことだか、さっぱりわからんな」
ゲラルトは震える声でそう言うと、勢いよく立ち上がった。
「もういい! 話にならん! お前ら、この小僧を黙らせろ!」
「へい!」
背後に控えていた四人の護衛が、一斉に剣を抜いた。
――ああ、やっぱりそうなるのか。
口で勝てない悪党は、だいたい最後に腕力に訴える。前世のブラック企業では、腕力の代わりに人事権だったけど。
「カイ様!」
リーゼロッテ様の声が飛ぶ。
俺は戦闘向きのスキルを持っていない。剣も魔法も使えない。勇者パーティで三年間、戦闘中は後ろで突っ立っていた――とレオンは言っていたけど、実際には後ろで仲間の代償を付け替えていただけだ。
だから、真正面から剣で斬りかかられたら、普通に死ぬ。
――普通なら。
「【帳尻合わせ】」
俺は、斬りかかってくる護衛の男を見た。
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【護衛ボルグ 個人台帳】
・ゲラルト商会との雇用契約
報酬:月額金貨五枚
内訳:うち三枚を『危険手当』として未払い
・未払い賃金累計:金貨百八枚
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「ボルグさん」
「なっ……なんで俺の名前を」
「あなた、この三年間、危険手当が一度も支払われていませんよね。未払いの賃金、合計で金貨百八枚になりますよ」
「……は?」
護衛の剣が、俺の鼻先でぴたりと止まった。
「雇用契約書には、確かに『月額金貨五枚』と書いてあるはずです。でも実際に受け取っているのは二枚だけ。残りの三枚は、ゲラルトさんが『危険手当は危険な仕事をしたときだけだ』と言って、ずっと払っていない」
「そ、それは……そうだが……」
「でも、契約書のどこにもそんな条件は書かれていません。あなたは、毎月正当に金貨五枚を受け取る権利がある」
俺は残りの三人の護衛にも視線を向けた。
「そちらの三人も同じです。ロッシュさんは金貨九十六枚、ダンさんは百二十枚、ヴィクトルさんは七十二枚。全員、ゲラルトさんに賃金を不当に中抜きされています」
「…………」
「…………」
「…………」
四人の護衛が、ゆっくりと顔を見合わせた。
そして、ゆっくりと、雇い主の方を振り向いた。
「……旦那」
「な、なんだその目は! お前ら、まさかこんな小僧の言うことを信じるつもりか!?」
「いや、だってよお」
ボルグと呼ばれた大男が、ぼりぼりと頭を掻いた。
「俺、ずっとおかしいと思ってたんだよなあ。契約のとき、確かに五枚って言われたのに、毎月二枚しかもらえねえし」
「お、俺もだ」
「俺も」
「俺も。娘の誕生日に人形も買ってやれなかった」
護衛たちの目が、だんだん据わっていく。
「ま、待て! 払う! 払ってやる! だから今はこの小僧を――」
「お待ちになって」
凛とした声が、応接間に響いた。
リーゼロッテ様だった。
いつの間にか、彼女の手には一振りの長剣が握られていた。応接間の壁に飾られていた、グラウヴァルト家伝来の古い剣だ。
細い腕で、しかし微塵の揺らぎもなく、その切っ先をゲラルトの喉元に突きつけている。
「ひっ……!?」
「わたくしの大切な文官に剣を向けさせた罪。そして、我が領民の汗の結晶を十二年にわたって掠め取った罪」
空色の瞳が、氷のように冷たく光る。
「グラウヴァルトの剣にかけて、決して許しはいたしませんわ」
――後で知ったことだが。
グラウヴァルト辺境伯家は、もともと魔物の跋扈する東の国境を守るために置かれた武門の家柄だった。
そしてリーゼロッテ様は、病に倒れる前の父君から、幼い頃より家伝の剣術を叩き込まれていたのだという。
畑の石を一撃で掘り起こしていたあの腕力は、伊達ではなかったのだ。
「ゲラルト様。過払い金と、不当に安く買い叩かれた小麦と羊毛の差額。それから、着服された金貨五百枚。耳を揃えて、返していただけますわね?」
「は……はひ……」
ゲラルトは、その場にへなへなと崩れ落ちた。
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【帳尻合わせ】
ゲラルト商会との取引を精算します。
・過払い利息の返還: 金貨 九千二百枚
・不当廉売の差額: 金貨 六千八百枚
・着服金の返還: 金貨 五百枚
・グラウヴァルト家の借入残高: 金貨 一万二千枚
差引: グラウヴァルト家の受取額 金貨 四千五百枚
精算を承認しますか?
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「承認」
俺が呟いた瞬間、ゲラルトの懐から、金色の光の粒がさあっと溢れ出した。
それは彼の身体を離れ、応接間の空気の中をきらきらと漂い――リーゼロッテ様の手元の、古い帳簿の上に吸い込まれていった。
帳簿の一ページ目。
真っ赤だった『ゲラルト商会への借入金』の欄が、すうっと黒字に変わっていく。
「こ、これは……」
「借金、帳消しです。それと、金貨四千五百枚。数日中に、ゲラルト商会の金庫からこちらへ届けていただけますよね?」
「ひぃっ……は、はいぃっ……!」
――後日。
ゲラルト商会は、隣領の代官との癒着が王国の監察官に発覚し、営業停止処分を受けることになる。
匿名で送られてきた、たいへん几帳面な告発状がきっかけだったそうだ。誰が書いたのかは知らない。
ちなみに、四人の護衛たちは未払い賃金を受け取ったあと、そのまま全員グラウヴァルト領の警備兵として再就職した。
「旦那! いや、カイの兄貴! 一生ついていきやすぜ!」
「兄貴はやめてください」
――こうして、グラウヴァルト辺境伯家の借金は、一夜にして金貨一万二千枚減った。
残りは、二十八万七千枚。
竜の借金という、本丸が残っている。
それに、もうひとつ。
ゲラルトがあれほど怯えていた『M様』という名前が、俺の頭の片隅に、小さな棘のように引っかかっていた。




