第四話 令嬢の帳簿が、真っ赤に燃えている
「こちらが、当家の帳簿ですわ」
領主館の執務室――と呼ぶにはあまりにも殺風景な、机と椅子と本棚がひとつずつあるだけの部屋で、リーゼロッテ様は分厚い革表紙の束をどさりと机に置いた。
埃が舞った。
「……最後に開いたのは、いつですか」
「三か月前ですわ。開いた瞬間に頭痛がして、三日寝込みましたの」
胸を張って言うことではない。
俺は一番上の帳簿を手に取り、ページをめくった。
――そして、三秒で閉じた。
「カイ様?」
「……いえ、ちょっと、目にゴミが」
嘘だ。
ひどい。想像の五倍ひどい。
まず、字が汚い。いや、それはいい。たぶん先代か先々代の筆跡だろう。問題は中身だ。収入と支出の欄がぐちゃぐちゃに混ざり、日付は飛び飛び、計算は三か所に一か所は間違っている。
そして何より――赤い。
どのページを開いても、赤字、赤字、赤字。
年間の収入が金貨八百枚に対して、支出が金貨二千枚。その差額は毎年借金で埋められ、借金の利息がさらに借金を呼んでいる。典型的な、多重債務の雪だるまだ。
俺はもう一度、覚悟を決めて帳簿を開いた。
今度は【帳尻合わせ】の目も使って。
――瞬間、紙の上の数字が、燃え上がるように赤く光った。
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【グラウヴァルト辺境伯家 総合台帳】
■負債の部
・銀竜ヴェルミナへの負債(二百年契約)
元本:金貨十万枚
未払い利息:金貨二十八万四千枚
・ゲラルト商会への借入金
金貨一万二千枚(年利四割)
・王国への未納税
金貨三千枚
■資産の部
・領地(地力負債により評価額マイナス)
・領主館(老朽化により評価額ほぼゼロ)
・芋 約二千個
■純資産: ▲金貨 二十九万九千枚
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「……芋が資産に計上されてる」
「お芋は大事な財産ですわ!」
リーゼロッテ様が真顔で抗議した。いや、そこじゃない。
金貨二十九万九千枚の債務超過。
王国の年間予算の一割に迫る額だ。辺境の一領地が抱えていい借金ではない。
「リーゼロッテ様。この、銀竜ヴェルミナへの負債というのは」
「……それが、当家の呪いですわ」
リーゼロッテ様の表情が曇った。
彼女は本棚の一番上から、一冊の古い本を取り出した。グラウヴァルト家の家史だという。
「二百年前、この地方を大飢饉が襲いましたの。作物はすべて枯れ、領民の半分が飢えて亡くなったと記録にありますわ。そのとき、当時の当主だったご先祖様が、東の霊峰に住む銀竜ヴェルミナに助けを求めたのです」
「竜に?」
「ええ。銀竜は大地の豊穣を司る古き竜。ご先祖様は竜と契約を結び、金貨十万枚分の『豊穣』を借り受けた――と、家史には書かれていますわ」
豊穣を借りる。
つまり、土地の地力を前借りしたということだ。
「その力で領地は飢饉を乗り越え、むしろ以前より栄えたそうですわ。けれど、借りたものは返さなければならない。契約では、毎年の収穫の一部を利息として竜に納めることになっていたのですけれど……」
リーゼロッテ様は家史のページをめくった。
「五十年ほど経った頃から、収穫がどんどん減っていったのです。利息が払えなくなって、払えない分がまた利息に上乗せされて。そうして領地から豊穣が失われるにつれて、東の霊峰から瘴気が湧き出すようになりましたの。竜の怒りだと、皆は言っていますわ」
「その間、竜と直接話をした人は?」
「おりません。霊峰の瘴気が濃すぎて、誰も近づけないのです。ご先祖様の時代に何度か使者を送ったそうですけれど、誰ひとり戻ってきませんでしたわ」
俺は台帳をもう一度見た。
元本、金貨十万枚。未払い利息、金貨二十八万四千枚。
……おかしい。
俺の経理担当としての勘が、どこかで警告を発していた。
二百年で元本の三倍近い利息。単純計算で年利一・四割程度――いや、複利で計算すれば年利はもっと低くなるはずだ。法外というほどではない。だが、それならなぜ、土地の地力がここまで――マイナス八百二十まで落ち込んでいるのか。
利息を払えていないなら、竜は取り立てに来るはずだ。
取り立てに来ないなら、利息は帳簿上に積み上がるだけで、土地から豊穣が吸い上げられ続ける理由はない。
払っていないのに、吸い上げられている。
吸い上げられているのに、借金は減っていない。
――じゃあ、吸い上げられた豊穣は、どこに消えている?
「カイ様?」
「……すみません。少し、考え事を」
まだ情報が足りない。
竜の契約書の原本がなければ、これ以上は何とも言えない。
「契約書の原本はありますか?」
「ご先祖様が竜と結んだ契約書は、竜の側が保管していると聞いていますわ。こちらにあるのは、写しの写しの、そのまた写しですの」
「なるほど」
なら、それは後回しだ。
俺は頭を切り替えた。
前世で学んだ鉄則。巨大な問題に直面したときは、まず手をつけられるところから片付ける。
「では、竜の件はいったん置いておきましょう。先に、もっと緊急性の高い問題から」
「緊急性の高い問題?」
「このゲラルト商会への借入金です。年利四割」
俺は帳簿の一点を指で叩いた。
「これは、竜の借金よりよほどまずい。年利四割というのは、王国法で定められた上限金利の倍です。明らかな違法金利ですよ」
「え……そう、なんですの?」
リーゼロッテ様がきょとんとした。
「でも、ゲラルト様は、当家が困っているときにいつもお金を貸してくださる、親切な方ですのよ? 他の商会はどこも相手にしてくれませんのに、ゲラルト様だけは『辺境伯家のためなら』と……」
……ああ。
典型的なパターンだ。
困窮した相手にだけ近づき、違法な高金利で金を貸し、骨の髄までしゃぶり尽くす。前世でもこの世界でも、こういう手合いは変わらない。
「ちなみに、ゲラルト商会との取引の明細は残っていますか? 借りた金額と、返済した金額と、日付が分かるものが」
「ええと……ハンス?」
「こちらでございます、お嬢様」
ハンスさんが、別の棚から紐で綴じた紙の束を持ってきた。
俺はそれを受け取り、一枚ずつ目を通していった。
十分後。
「……リーゼロッテ様」
「はい」
「この商会、毎年、領地の小麦と羊毛を『相場の半値』で買い叩いていますね」
「え?」
「それに、こっちの借入記録。『手数料』の名目で、毎回貸付額の二割を最初に差し引いている。金貨百枚借りたことになっていても、実際にリーゼロッテ様の手に渡ったのは八十枚です。なのに利息は百枚に対してかかっている」
「え、え?」
「さらに、こっちの返済記録。三年前の秋に金貨五百枚を返済したことになっていますが、商会側の借入残高はその分減っていません。おそらく『記帳漏れ』という名目で、なかったことにされています」
「えええええ!?」
リーゼロッテ様の目がぐるぐると回り始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいまし。つまり、どういうことですの?」
「つまり」
俺は紙の束を机に置いた。
「ゲラルト商会は、少なくとも十年以上にわたって、グラウヴァルト家から不当に金を巻き上げ続けています。俺のざっとした計算では、正当な取引であれば、この借金はとっくに完済されているはずです」
「…………」
「それどころか、過払い分を請求すれば、こちらが逆にお金を受け取れる可能性があります」
「…………」
リーゼロッテ様は、しばらく口を半開きにしたまま固まっていた。
そして、ゆっくりと、ハンスさんの方を振り向いた。
「……ハンス。わたくし、もしかして、ずっと騙されていましたの?」
「……お嬢様。誠に申し上げにくいのですが、おそらくは」
「…………」
リーゼロッテ様の肩が、小刻みに震え始めた。
泣くのだろうか、と思った。
十八歳の少女が、ずっと信じていた恩人に裏切られていたと知ったのだ。無理もない。
――しかし。
「……許せませんわ」
顔を上げたリーゼロッテ様の空色の瞳には、涙ではなく、静かな炎が燃えていた。
「わたくしのことはいいのです。世間知らずのわたくしが騙されたのは、わたくしの落ち度ですもの。でも――」
彼女は拳を握りしめた。
「そのお金は、領民たちが汗水垂らして育てた小麦と羊毛の代金ですわ。冬の寒さに耐えて、痩せた土地を耕して、それでも領地のためにと納めてくれた、大切なお金ですわ。それを……それを……!」
ばんっ、と机を叩く。
埃が盛大に舞った。
「カイ様!」
「はい」
「取り返せますの!?」
俺は、少しだけ笑った。
ああ、この人はいい領主だ。
自分が騙されたことより、領民の金が奪われたことに怒っている。
なら、俺の仕事は決まっている。
「取り返しましょう」
俺は帳簿を閉じた。
「ちょうど、帳簿の付け方を教えてあげたい人がいたところです」
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【帳尻合わせ】
対象:ゲラルト商会
取引記録の照合を開始します――
不整合を検出: 百二十七件
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悪徳商人の帳簿というのは、だいたい二冊ある。
表の帳簿と、裏の帳簿。
そして俺のスキルは――その両方を、同時に読むことができるのだ。




