第三話 求人票の「給金応相談(払えるとは言っていない)」に惹かれて
十二時間、眠った。
目が覚めたとき、窓の外はもう昼だった。街道沿いの安宿『麦わら亭』の、藁の匂いがする粗末なベッドの上で、俺はしばらく天井の木目を眺めていた。
「……寝坊した」
口に出してから、気づく。
寝坊して、誰にも怒られない。
朝食の準備も、装備の手入れも、レオンの二日酔いの介抱も、ガルドの食べ散らかした皿の片付けも、セリカの『今日の髪型が決まらないのはあなたのせいですわ』という謎の八つ当たりもない。
「……最高だな」
前世を含めて、たぶん初めての経験だった。
◇
宿の一階で遅い朝食をとりながら、俺は今後のことを考えた。
手持ちは銀貨十二枚。贅沢をしなければひと月は暮らせる。だが、それまでに仕事を見つけなければならない。
冒険者として登録し直すのは難しいだろう。勇者パーティを追放された元雑用係を雇うパーティはまずない。レオンのことだ、ギルドにはあることないこと吹き込んでいるに違いない。
商会の帳簿係はどうか。
悪くはない。だが、正直に言えば、もう他人の金勘定はうんざりだった。
どうせなら、自分の手で何かを育てるような仕事がしたい。
「お客さん、求人なら、あそこの掲示板に貼ってあるよ」
宿のおかみさんが、食堂の壁を顎で示した。
古びたコルクの掲示板に、色あせた紙が何枚も留められている。
『荷運び求む 日当銅貨五十枚』『薬草採取 経験者優遇』『嫁募集 当方三十八歳・牛二頭あり』――最後のは見なかったことにしよう。
その中に一枚、妙に目を引く紙があった。
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【急募】文官(会計・事務全般)
勤務地:グラウヴァルト辺境伯領
仕事内容:領地の帳簿管理、その他なんでも
待遇:給金応相談(払えるとは言っていない)
住居あり(雨漏りあり)
三食付き(主に芋)
応募資格:やる気のある方。とにかくやる気のある方。
※どなたでも結構です。本当にどなたでも結構です。
お願いします。誰か来てください。
グラウヴァルト辺境伯家 リーゼロッテ
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「…………」
俺はしばらく、その紙を見つめていた。
突っ込みどころが多すぎる。
『払えるとは言っていない』と正直に書く求人票を、俺は前世も含めて初めて見た。最後の数行に至っては、ほとんど悲鳴だ。
「ああ、それかい」
おかみさんが苦笑した。
「グラウヴァルトの嬢ちゃんが、半年くらい前に貼ってったんだよ。けどねえ、誰も行きやしない。あそこは『呪われた辺境』だからね」
「呪われた?」
「二百年前に、ご先祖様が竜と何か契約したとかでさ。それ以来、領地のあちこちに瘴気が湧いて、作物は育たない、魔物は出る、借金は膨らむ一方。前の辺境伯様も心労で倒れちまって、今じゃ十八になったばかりのお嬢さんが、ひとりで領地を切り盛りしてるって話さ」
おかみさんは同情するように首を振った。
「あの子、わざわざ自分でこの紙を貼りに来たんだよ。泥だらけのドレスで、何度も何度も頭を下げてねえ。気の毒だけど、まあ、誰も行かないだろうね」
俺は、もう一度求人票を見た。
『お願いします。誰か来てください』。
その一文だけ、インクが少し滲んでいた。
書いた人間の、手の震えが伝わってくるような字だった。
……竜との契約。瘴気。膨らむ一方の借金。
俺の【帳尻合わせ】の目には、この紙一枚にさえ、うっすらと帳簿が見える。
紙代、インク代、そして――書いた人間の『切実さ』という、数字にならない何か。
「おかみさん」
「ん?」
「この紙、もらっていってもいいですか」
◇
グラウヴァルト辺境伯領は、王国の最東端にある。
乗合馬車を三回乗り継ぎ、最後の二日は歩いた。街道は東へ進むほど細く荒れていき、道沿いの畑は痩せ、すれ違う人もまばらになっていった。
そして、領地の境界を示す古い石碑を越えた瞬間。
「……うわ」
思わず声が出た。
目の前に広がっていたのは、灰色の大地だった。
いや、正確には灰色ではない。土は茶色いし、まばらに草も生えている。だが、俺の【帳尻合わせ】の目には、その土地全体に覆いかぶさるように、巨大な帳簿が重なって見えていた。
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【グラウヴァルト辺境伯領 土地台帳】
・地力: ▲八百二十(負債)
・瘴気汚染: 重度
・未払い利息: 計算不能
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▲――マイナス。
土地そのものが、借金をしている。
こんな帳簿は初めて見た。
普通、土地の帳簿というのは『どれだけ作物を実らせる力があるか』という貸方の数字が並ぶものだ。肥えた土地ならプラス、痩せた土地でもせいぜいゼロ。
それが、マイナス八百二十。
まるで、この土地の豊かさそのものが、どこかへ吸い上げられ続けているような――。
「……とりあえず、領主館を探すか」
俺は灰色の帳簿に覆われた道を歩き出した。
◇
領主館は、丘の上にあった。
――いや、館というより、廃墟だった。
石造りの外壁は半分ほど蔦に覆われ、窓ガラスはところどころ割れて板が打ち付けられている。屋根の一角は明らかに崩れていて、求人票の『雨漏りあり』は控えめすぎる表現だったと言わざるを得ない。
そして、その館の前の畑で。
ひとりの少女が、鍬を振るっていた。
「ふんっ……! ふんっ……! ええいっ、この石っ、この石めっ……!」
陽の光を受けて輝く、プラチナブロンドの長い髪。
それを無造作にひとつに束ね、泥だらけの古いドレスの裾をたくし上げて、少女は硬い土に鍬を打ち込んでいた。
ドレスは、かつては上等なものだったのだろう。袖口には繊細な刺繍が残っている。だが今は、膝から下が泥で真っ黒だった。
「やあっ……! とれ、たっ……!」
がちん、と鍬の先が石を掘り起こす。
少女は額の汗を手の甲で拭い、満足げにふうと息をついた。その拍子に、頬に泥の筋が一本増えた。
――そして、ふと顔を上げて、俺と目が合った。
空色の瞳だった。
澄んだ、真っ直ぐな、少しだけ勝気そうな目。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙。
少女の視線が、俺の顔から、俺の手元へと移った。
俺が握りしめている、色あせた一枚の紙へと。
「――っ!!」
少女は鍬を放り出した。
そして、泥を跳ね上げながら、ものすごい勢いでこちらに駆けてきた。
「あ、あのっ! そ、それ、その紙っ、わたくしの求人票ですわよねっ!?」
「え、ええ、はい。麦わら亭の掲示板で――」
「応募ですのっ!? 応募してくださるんですのっ!? 本当に!? 冷やかしではなくて!? 道に迷っただけとか、借金取りの方とか、そういうのではなくて!?」
「お、応募です。一応」
「――――っ」
少女の空色の瞳が、みるみるうちに潤んでいった。
そして。
「や……やりましたわあああああああっ!!」
少女は両手を天に突き上げ、その場でぴょんぴょんと跳ねた。
泥が飛ぶ。俺の服にも飛ぶ。
「ハンス! ハンスーっ! 来ましたわ! 応募者が来ましたわーっ! 半年ぶりの人間ですわーっ!!」
「お、お嬢様、そんなに大声を出されては……」
館の中から、白髪の老執事がよろよろと出てきた。燕尾服はところどころ繕った跡がある。
「見て、ハンス! 本物の応募者ですわ! 幻覚ではありませんわよね!? わたくし、ついに空腹で幻を見るようになったわけではありませんわよね!?」
「は、はい、お嬢様。確かに、お若い殿方がおひとり……」
「ああ、神様……! お芋を毎日お供えしていた甲斐がありましたわ……!」
少女は胸の前で手を組み、天を仰いだ。
それから、はっと我に返ったように俺に向き直ると、泥だらけのドレスの裾をつまみ、ぎこちなく――しかし驚くほど美しい所作で、淑女の礼をとった。
「し、失礼いたしました。わたくし、グラウヴァルト辺境伯家の長女、リーゼロッテ・フォン・グラウヴァルトと申します。父が病に伏せっておりますので、現在はわたくしが当主代行を務めておりますの」
「カイ・ロウエルです。元は……冒険者パーティで、経理を担当していました」
「経理!」
リーゼロッテ嬢の目が、ぱああっと輝いた。
「帳簿が読めますの!? 数字が計算できますの!?」
「まあ、それが本職なので」
「素晴らしいですわ! わたくし、帳簿を見ると三秒で頭が痛くなりますの! ハンスは老眼で数字が読めませんの!」
「お嬢様、それは言わなくてよろしいかと……」
「採用ですわ!」
リーゼロッテ嬢は俺の両手をがしっと握った。泥だらけの手で。
「今すぐ採用ですわ! 面接とか、そういうのは全部省略ですわ! 逃げられたら困りますもの!」
「本音が漏れてますけど」
「あっ」
リーゼロッテ嬢は自分の口を押さえ、それから顔を真っ赤にした。
それでも、俺の手は離さなかった。
「……その、正直に申し上げますと」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「お給金は、本当に、お支払いできるかわかりませんの。求人票に書いたとおりですわ。領地には借金しかなくて、お芋しかなくて、館は雨漏りがして……あなたのような方が来てくださるような場所では、ないのかもしれません」
握られた手に、ぎゅっと力がこもった。
「でも、わたくし、この領地を諦めたくありませんの。ここに住む領民たちを、見捨てたくありませんの。だから――」
空色の瞳が、真っ直ぐに俺を見上げた。
「どうか、力を貸していただけませんか」
俺は、その瞳を見つめ返した。
【帳尻合わせ】の目に、彼女の帳簿が映る。
膨大な借金。重すぎる責任。たったひとりで背負い込んだ、領地の命運。
そしてその一番下に、小さく、こう記されていた。
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・誇り: 満額
・諦め: ゼロ
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――ああ、なるほど。
これは、帳尻を合わせ甲斐がありそうだ。
「わかりました」
俺は頷いた。
「よろしくお願いします、リーゼロッテ様」
「……っ、はい! こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ!」
満開の花が咲くような笑顔だった。
頬に泥をつけたまま。
――こうして俺は、呪われた辺境の、たったひとりの文官になった。
この時の俺はまだ知らなかった。
この領地の帳簿が、王国史上最悪の『粉飾』の上に成り立っていることを。




