第二話 【Side:勇者パーティ】朝起きたら、聖剣が重い
勇者レオンが目を覚ましたのは、全身を襲う奇妙な倦怠感のせいだった。
「……ん、だよ……」
頭が重い。腕が重い。まぶたが重い。
昨夜は確かに飲みすぎた。雑用係を追い出した祝いだと、ガルドと二人で高い酒を何本も空けた。だが、二日酔いとは何かが違う。
まるで、一晩で十年くらい歳を取ったような――。
「……は?」
ベッドから身体を起こし、壁の姿見に目をやったレオンは、そこで固まった。
鏡の中の自分の髪に、白いものが混じっている。
一本や二本ではない。こめかみのあたりが、ごっそりと灰色に変わっていた。
目の下には濃い隈。頬は少しこけ、肌にはかすかな張りの衰えが見える。
「な、なんだよこれ……っ」
レオンは慌てて髪をかき上げた。
まだ二十三歳だ。勇者に選ばれて三年、王都の令嬢たちから『黄金の貴公子』ともてはやされてきた自慢の金髪が――。
「ふざけんな、なんで……!」
そのとき、ベッド脇に立てかけていた聖剣グランディールが、かすかに明滅した。
レオンは気づかなかった。
気づいたとしても、その意味はわからなかっただろう。
聖剣の柄に浮かんだ、彼にしか読めないはずの古代文字。
『未払い代償:千四十二日分 回収完了』。
三年間、勇者が振るい続けた聖剣の代償――寿命にして約二年と十か月分。
それが一晩で、本来の持ち主の身体に返ってきたのだ。
◇
「いやあああああああああっ!?」
隣の部屋から、甲高い悲鳴が響いた。
レオンが寝間着のまま廊下に飛び出すと、ちょうど聖女セリカの部屋の扉が開いた。
「セリカ、どうし――」
「見ないでくださいましっ!!」
セリカは顔を両手で覆い、部屋の中へ逃げ込んだ。
だが一瞬だけ、レオンには見えてしまった。
聖女の白磁のような頬に、まだら模様の黒い痣が浮かんでいるのを。
「お、おい……セリカ?」
「なんで……なんでですの……っ! 昨日まで、なんともなかったのに……!」
扉越しに、すすり泣く声が聞こえる。
治癒の奇跡の代償――『穢れ』。
神の力を人の身で行使するたび、その身に少しずつ溜まっていくもの。本来であれば、聖女は奇跡を使うたびに神殿で長い禊を行い、穢れを祓わなければならない。
セリカはそれを、この三年間一度もしていなかった。
する必要がなかったからだ。どれだけ奇跡を使っても、なぜか穢れは溜まらなかった。
『わたくしは神に愛されているのですわ。だから穢れなど寄りつかないのです』
彼女はそう信じていた。
神殿の老司祭が『そんなはずはない』と首をかしげても、鼻で笑って取り合わなかった。
三年分。
およそ千二百回分の治癒の奇跡の穢れが、たった一晩で、彼女の顔に浮かび上がったのだ。
◇
「ぐおおおおおおっ!?」
今度は一階から、獣のような咆哮が上がった。
レオンが階段を駆け下りると、宿の食堂でガルドがのたうち回っていた。
朝食のパンを焼こうとして、指先に小さな火を灯した――ただそれだけのはずだった。
だが、その炎はガルドの指先から腕へ、腕から肩へと、まるで逆流するように燃え広がっていた。
「熱っ、熱っ、熱いぃぃっ!?」
「ガルド!? 水だ、水持ってこい!」
宿の従業員たちが悲鳴を上げながら水桶を運んでくる。
ざばあ、と頭から水をかぶったガルドは、焦げた袖から煙を上げながら、呆然と自分の手を見つめた。
「な……なんでだ……? ただの着火魔法だぞ……? ガキでも使える初級魔法で、なんで暴発なんか……」
魔力回路の焼損。
上級魔法を使うたびに蓄積する、魔導師の職業病。
熟練の魔導師でさえ、上級魔法は一日に三発が限度とされている。それ以上撃てば、回路が焼けて二度と魔法が使えなくなることもある。
ガルドはこの三年、一日に十発、二十発と、上級魔法を好き放題に撃ちまくってきた。
『俺は天才だからな』と、そう豪語して。
その天才の回路は今、一夜にして、焼け焦げた古い鍋底のようになっていた。
◇
「お客様」
騒ぎがようやく落ち着いた頃。
宿の支配人が、慇懃な笑みを浮かべてレオンたちの前に現れた。
その手には、分厚い紙の束があった。
「お取り込み中のところ、大変恐縮でございますが……こちら、ご精算をお願いできますでしょうか」
「あ? 精算?」
レオンは苛立たしげに髪をかきむしった。白髪の混じった髪を。
「宿代なら、いつもギルドを通して払ってるだろうが。勇者パーティの経費で――」
「ええ、これまではそうでございました。ですが」
支配人は紙の束をテーブルに置いた。
「今朝方、当館の帳場に保管しておりました勇者様御一行の『支払い済み』の伝票が、なぜかすべて『未払い』に戻っておりまして」
「……は?」
「こちらが、この三年間で当館をご利用いただいた際の宿泊費、飲食費、それから――昨年レオン様が酔われて壊された大広間のシャンデリアの弁償金、合わせまして」
支配人は、にっこりと笑った。
「金貨にして、二千四百枚でございます」
「にせんよんひゃっ……!?」
レオンの声が裏返った。
金貨二千四百枚。
王都で庭付きの屋敷が三軒は買える額だ。
「ふざけんな! そんなの払った覚えは――いや、払ってるはずだ! うちの雑用係が、毎月きっちり……」
言いかけて、レオンは口をつぐんだ。
うちの雑用係。
昨夜、追い出したばかりの。
「ああ、それと」
支配人は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「先ほどから、王都中の商店や酒場の使いの者が、当館の前に列をなしておりまして。皆様、勇者様宛ての『未払いの請求書』をお持ちだそうでございます」
レオンが窓の外に目をやると――。
宿の正面玄関から大通りの角まで、ずらりと人の列ができていた。
酒場の店主。武具屋の親方。宝石商。仕立て屋。薬師。娼館の女主人。
誰もが手に紙切れを握りしめ、殺気立った目で金獅子亭の看板を見上げている。
「勇者様ァ! 去年のツケ、金貨八十枚! 今日こそ払ってもらいますぜ!」
「聖女様がお買い上げになった首飾りの代金を、いまだに頂戴しておりませんの!」
「魔導師様が食い荒らしていった竜肉のステーキ三十皿分、耳を揃えて返してもらおうか!」
怒号が、窓ガラスをびりびりと震わせる。
「な……なんで……なんで、今になって全部……」
レオンは呆然と呟いた。
わからない。何が起きているのか、まったくわからない。
昨日までは、何もかもうまくいっていた。聖剣は軽く、身体は羽のように軽く、どこへ行っても『勇者様』と頭を下げられ、金のことなど一度も考えたことがなかった。
それが、たった一晩で――。
「……レオン様」
自室から顔を覆う薄布をかぶって出てきたセリカが、震える声で言った。
「まさか、とは思いますけれど……カイさんが、何か」
「はっ!」
レオンは鼻で笑った。笑おうとした。
「あの無能に何ができるってんだよ。剣も魔法も使えない、帳簿つけるしか能のない雑用係だぞ?」
「で、ですが、タイミングが……」
「偶然だ! ただの偶然に決まってる!」
レオンは叫んだ。
自分に言い聞かせるように。
「そうだ、きっと呪いだ。魔王軍の誰かが、俺たちに呪いをかけたんだよ。勇者パーティを恐れてな。神殿に行って解呪してもらえば、全部元通りだ」
「……そう、ですわね。きっとそうですわ」
「ガハハ……そ、そうだよな。呪いだ呪い。俺様の魔法が暴発するなんて、それ以外ありえねえ」
三人は顔を見合わせ、ぎこちなく笑い合った。
そうだ、呪いだ。
あの雑用係が関係しているはずがない。あんな、戦闘中に後ろで突っ立っているだけの男が。
――しかし。
レオンの腰で、聖剣グランディールが重く沈んだ。
昨日まで羽のように軽かったはずのその剣は、今朝からなぜか、鉛の塊のように重かった。
◇
ちなみにその日の午後、神殿で解呪を頼んだ三人は、老司祭からこう告げられることになる。
「呪い? いいえ、これは呪いなどではございませんな」
「じゃあ何なんだよ!」
「これは、ただの『代償』です。あなた方が力を使った分の、正当な対価ですよ」
老司祭は、哀れむような目で三人を見た。
「むしろ不思議なのは、なぜ今まで、これが表に出てこなかったのか――ということですな。まるで、誰かがずっと肩代わりしていたかのようだ」
レオンの顔から、さっと血の気が引いた。
だが、その思考が答えにたどり着く前に、彼はそれを振り払った。
認められなかった。
認めてしまえば、昨夜の自分が、取り返しのつかないことをしたことになってしまうから。
「……知るかよ。そんなの」
その頃、話題の『無能』は、王都から遠く離れた街道沿いの安宿で――。
三年ぶりに、朝まで一度も起きずにぐっすりと眠っていた。




