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4.7_リブート

 石川が最期のスイッチを叩き込んだ瞬間、テラスの空気は物理的な質量を持ったかのように凝縮した。

 異形の装置の心臓部iPhoneSEから溢れ出した青白い光が、一気に膨張して視界を塗りつぶす。それは爆発というよりは、時空そのものが「飽和」したかのような現象だった。


 次の瞬間、眩いばかりの純白の霧がテラスを覆い尽くし


「誠さん……!」


 美雪の叫びが霧に吸い込まれる。

 数秒後、風が霧をさらったとき、そこに誠の姿はなかった。彼が立っていた場所には、ただ六月の生暖かい夜風が吹き抜け、役目を終えて沈黙した装置だけが、熱を持った鉄の匂いを放っていた。


 一同は言葉を失い、ただ立ち尽くした。

 あずさは呆然と自分の手を見つめ、石川は震える手で新しい煙草を咥えたが、火をつけることさえ忘れている。ケリーは、誠が消えた空間の座標を、魂を削るような眼差しで凝視していた。


 どれほどの時間が経っただろうか。沈黙の帳を切り裂いたのは、宗の、落ち着いた、だが微かに高揚を含んだ声だった。


「……どうやら、実験は成功のようですね。石川さん、そしてケリー。本当にお疲れ様。……美雪さん、あずささんも。私たちは、歴史の目撃者になりました」


 宗はそう言うと、石川の肩をポンと叩いた。

「石川さん。明日からは、この装置で得られた膨大な演算データと理論を、石川無線と我が社でどう形にしていくか……じっくり話し合いましょうか。この技術は、きっと1996年の日本を、いや、未来を大きく変えるはずだ」


 石川は深く、長く煙草の煙を吐き出すと、ようやくニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「……へっ、仕事の話は明日だ、旦那。今はただ、あいつがちゃんと『向こう』のベンチに座ってることを祈らせろよ」


 石川の煙草の煙が渋谷の空に舞う。


―――


 気付くと誠は、真っ白な霧の中にいた。

 上下も左右も、奥行きさえも失われた純白の空間。

 音もなく、風もなく、ただ自分の呼吸音だけが耳元で不自然に大きく響いている。


(帰っているのか……? 僕は、どこにいるんだ)


 誠は、一歩を踏み出した。

 手応えのない白の深淵。それでも彼は「前」だと信じる方向へ、一歩、また一歩と足を動かす。

 突然、鼓膜を突き刺すような鋭い「キーン」という耳鳴りが走り、誠はその場に膝をついた。気圧が急激に変化したような、あるいは宇宙の周波数が脳を直接揺さぶるような激痛。


「……Hierher.(こっちだよ)」


 遠くから、澄んだ声が聞こえた。

 以前、夢の中で何度も聞いた、あの若い男の声だ。


 誠が顔を上げると、霧の向こうから、一人の青年が歩み寄ってきた。

 飛行服に身を包み、分厚い革の飛行手袋をはめた青年――ギュンター・ノイマン中尉―――。彼はかつて石川無線のホワイトボードに描かれていた無骨なシルエットそのままに、誠の前で立ち止まった。


 ノイマンは何も言わず、誠の右手をぐいと引っ張った。革の手袋越しに伝わってくるのは、力強い、生身の人間の熱だった。


(ノイマン中尉……。あなたが、僕を?)


 朦朧とする意識の中で、誠はノイマンに引かれるまま歩き続けた。

 歩むごとに、ノイマンの姿は徐々に薄れ、霧の中に溶けていく。しかし、誠の右手を握る「感覚」だけは消えなかった。

 否、その感覚は、少しずつ変化していった。


 武骨で硬い革の感触が、いつの間にか、柔らかく、小さく、温かな「誰か」の手のひらに変わっていた。


「……パパ、こっちだよ!」


 誠の胸を、激しい衝動が貫いた。

 その小さな手。握りしめるだけで心が解けるような、愛おしい感触。

 娘の、愛美の手だ。


 愛美のぬくもりを感じ取った瞬間、誠の視界が、爆発するように晴れた。


「……っ!」


 肺に飛び込んできたのは、6月の湿った熱気ではなく、1月の、刃物のように鋭く冷たい乾ききった空気だった。

 誠は、とっさに目の前の硬いものに手をかける。


 そこには、尾崎豊の石碑があった。

 クロスタワー三階テラス…。

 誠は、タイムスリップする直前と全く同じ姿勢で、石碑の脇にあるベンチの縁を掴んでいた。


 眼下には、見慣れた2026年のアスファルト。

 遠くから聞こえるのは、1996年の賑やかな喧騒ではなく、もっと洗練され、どこか冷淡で、それでいて愛おしい現代の街の音。


 誠は、震える手でマッキントッシュのポケットを探った。

 そこには、iPhone15。

 画面を点灯させると、彼が夢にまで見た日付が並ぶ。


『2026年1月22日午前11時』


バッテリー残量は、1996年で酷使されたにもかかわらず、あの瞬間と同じ「90%」のまま止まっている。


「……帰った。帰ってきたんだ……」


 誠はベンチに崩れ落ちるように座り、白く凍る息を吐き出した。

 マッキントッシュのコートに染み付いた1996年のハンダとシリコンの匂いが、冬の夜風に洗われていく。


 右手のひらに残る、愛美の小さな手の温もり。

 そして、耳の奥で微かに響く、美雪の「いってらっしゃい」という声。


 上條誠は、今、再び2026年の住人として「起動リブート」した。


 1月の冷たい風が、尾崎豊の石碑を撫でて、誠の頬を吹き抜けていく。

 誠はベンチの縁を掴んだまま、浅い呼吸を繰り返していた。視界の端に映る渋谷の街並みは、さっきまで見ていた景色よりもずっと解像度が高く、そしてどこか冷徹だ。


 不意に、背後から聞き覚えのある、だが記憶の中よりもずっと落ち着いたトーンの女性の声が響いた。


「……誠っ・・・」


誠の肩が小さく跳ねる。その呼び方は、1996年のあのテラスで、ギャルの少女たちが彼を呼んでいた響きそのものだった。

 だが、声の主はすぐに咳払いをし、事務的な、それでいてどこか温かみのある響きに言い換えた。


「――いえ、上條さん。こんなところで、どうされたんですか?」


 誠がゆっくりと振り返ると、そこには一人の洗練された女性が立っていた。

 上質なカシミアのロングコートを纏い、知的な眼鏡の奥で柔和な、けれど意志の強い瞳が輝いている。1996年のあの派手なメイクも、明るすぎる金髪も、厚底ブーツもない。だが、その口元の笑みの形には、確かにあの「あずさ」の面影が色濃く残っていた。


「あ……降旗、さん……」

 誠は、2026年の自分に備わっているはずの記憶の糸を必死に手繰り寄せた。目の前の彼女は、誠の勤める会社の外部顧問を務める有能な弁護士、降旗あずさだ。


「これから出張だと伺っていましたけれど。福岡でしたよね? フライトの時間、そろそろじゃないですか?」

 あずさの言葉に、誠の脳内に火花が散るように現代の記憶がフラッシュバックする。

 そうだ。自分は今日、福岡へ飛ぶはずだった。羽田へ向かう前に、このテラスで「どこで昼飯を食べようか」なんて、ひどく日常的なことを考えていたのだ。


「あ、ああ……そうだった。フライト、ああ、間に合います。大丈夫です」

 誠は立ち上がり、コートの埃を払った。

 1996年の数カ月が、まるで数分間の白昼夢だったかのような感覚に陥る。だが、掌に残る小さな手の温もりと、マッキントッシュのコートに染み付いた微かな「あの時代の空気」が、それが夢ではないことを告げていた。


「……あずさ」

 誠は思わず、古い呼び名で彼女を呼びそうになった。だが、目の前の彼女が、1996年の自分を知っている「あの時のあずさ」なのかどうか、確証が持てない。彼は慌てて言葉を飲み込み、ビジネスマンとしての仮面を被り直した。


「……降旗さん。ありがとうございます。ところで、どうしてここに?」


 あずさは少しだけ目を細め、悪戯っぽく微笑んだ。

「例の裁判の案件で、後続業務の処理がありましてね。さっきまで御社の法務の方と打ち合わせをしていたんです。帰りに少し風に当たりたくて、ここに寄っただけですよ」


 その凛とした立ち振る舞いは、まさにバリバリの女性弁護士そのものだった。彼女は腕時計に目を落とし、誠を促すように歩き出す。


「さあ、急いで。福岡のお土産、期待してますよ。……いってらっしゃい、上條さん」


 誠は彼女の背中に会釈をし、駅の方角へと歩き出した。

 数歩進むごとに、身体の感覚が1996年のそれから、45歳の働き盛りである「現代の誠」へと同期していく。


―――


 一方、誠の後ろ姿を見送るあずさの表情から、プロの弁護士としての仮面が剥がれ落ちていった。

 彼女の瞳は急激に潤み、溢れそうになる涙を堪えるように強く瞬きを繰り返す。

 ‥‥

 彼女は、待っていたのだ。

 1996年のあの日、光の中に消えた「誠っち」が、30後のこの場所、この時刻に、間違いなく「上條誠」として戻ってくるその瞬間を。


 あずさは震える手でコートのポケットからスマートフォンを取り出した。

 画面には、パスワードを幾重にもかけた秘匿性の高いメッセージアプリのグループチャットが開かれている。参加者はわずか数名。そのアイコンの一つには、今や伝説的な実業家となった「M.Zong」の名があり、もう一つには、古びた電子部品店の看板を背景にした「Miyuki」の名があった。


あずさは、滲む視界の中で、ただ一言だけメッセージを打ち込む。


『作戦成功!』


 送信ボタンを押すと同時に、あずさは天を仰ぎ、白く凍る息を吐き出した。

 30年前、テラスの光の中で交わした「また会えるよね」という約束。

 彼女たちは、誠がいない30年間、それぞれの場所で戦い、成功し、この「再会の日」のために周到に準備を進めてきたのだ。誠が戻ってきたとき、彼が何の不自由もなく現代にソフトランディングできるように。


 あずさは、もう一度誠の背中を見つめた。

 群衆に紛れていく彼のマッキントッシュの背中は、1996年のあの日よりも、ずっと逞しく見えた。


「おかえりなさい……誠っち」


 その呟きは、誰にも聞こえないまま冬の風に溶けていく。

 30年の時を超えて繋がれたバトンが、今、誠の手に確実に戻ったのだ。

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