4.6_光と影の滑走路
六月の湿った夜気が、渋谷の街を包み込んでいた。梅雨入りを目前に控えた空気は重く、アスファルトが昼間に溜め込んだ熱をじわじわと放出し続けている。
東●生命ビル(後のクロスタワー)。
その三階テラスでは、数時間前までシステムバンクの企業CMの撮影が行われていた。最新のファッションに身を包んだモデルや、大勢のスタッフ、眩いばかりの照明。華やかな90年代の「虚飾」が去った後の現場には、機材保護の名目で組まれた足場と、どこか不自然な静寂だけが残されていた。
そして・・・深夜、一台のハイエースがビルの裏口に滑り込む。
車から降りてきたのは、異様な集団だった。
石川無線のロゴが入った作業着を着た石川とケリー。新しいリネンジャケットを羽織りながらも、傍らにあの冬物のマッキントッシュを抱えた誠。そして、撮影スタッフに擬態した美雪と、派手なスタッフジャンパーを羽織ったあずさだ。
「……いいか、足元に気をつけろよ。この中身は、今の日本のGDPより価値があるんだからな」
石川が低い声で指示を飛ばす。彼らが慎重に運び出したのは、撮影用機材ケースを装った「帰還装置・試作零号機」だ。ケースの隙間からは、iPhoneSEのロジックボードと真空管が織りなす、おぞましくも美しい配線が覗いている。
誠はテラスの端に立ち、眼下の渋谷を見下ろした。2026年の彼が消えた、まさにその場所だ。
(帰れるのか、本当に……)
心臓の鼓動が、iPhoneのクロックと同期するように速まる。
すると、その場に乾いた男の声が響く…
「――ちょっと、そこの人たち。何してるんですか」
一同の動きが凍りつく。
暗がりから現れたのは、制服のシワ一つない、壮年の警備員だった。彼は懐中電灯を石川たちの手元へ向け、不審げに目を細めた。
「昼間の撮影は終わったはずでしょう。夜間の機材搬入なんて聞いてませんよ。第一、その格好……本当にスタッフですか?」
警備員は、石川の薄汚れた作業着と、あずさの派手すぎる金髪を交互に見て、警戒を強めた。
「あー、いや、これはその……」
石川が珍しく言葉に詰まる。腕利きの技術者も、見るからに実直で職務に忠実な息遣いが見え隠れする壮年の警備員を前にしては、単なる「怪しいおじさん」でしかなかった。
「特殊機材の調整です! 取引先からから急ぎで頼まれているんです。」
あずさが強気に応じるが、警備員は首を振った。
「であれば。許可証を見せてください。管理事務所の承諾書です。というか、その箱、中身は何ですか? 妙な火花が見えましたが。もしそうなら警察署への使用許可もない限り、これ以上は……。」
警備員が装置のケースに手をかけようとしたその時、背後から落ち着いた、だが有無を言わせぬ響きを持った声が届いた。
「――お仕事、お疲れ様です。夜分に騒がせてしまい申し訳ない」
ゆっくりと歩み寄ってきたのは、宗正憲だった。
彼はあえて高級なスーツではなく、カジュアルなシャツの袖を捲り上げ、あたかも「現場を視察しにきた気さくな責任者」のような風体で現れた。
「……ええっとどちら様ですか?。関係者以外は立ち入り禁止ですよ。」
警備員は、宗に対しても毅然とした態度を崩さない。壮年ながら引き締まった体はどこか現職警察官や自衛官を彷彿とさせる。その風体こそが職務に忠実で実直な息遣いを醸し出すのだろう。
「ええ、おっしゃる通りです。あなたは実に忠実だ。このビルのセキュリティは安泰ですね」
宗は怒るどころか、深く、丁寧に頭を下げた。その低姿勢ぶりに、石川や誠の方が驚いて顔を見合わせる。
「実は、この撮影には少し特殊な事情がありましてね。海外の最先端技術を使った演出をテストしているんです。彼らはその専門家でして……少しばかり風変わりな格好をしていますが、私の大切なゲストなんです」
「事情?そんなの聞いていませんよ。とにかく許可証などの事実確認がないと困ります。そもそも依頼元はシステムバンクさんで相違ないですか?」
「おっと、失礼しました。ご挨拶が遅れましたね」
宗は柔和な笑みを浮かべたまま、内ポケットから一枚の名刺を取り出した。
「私はこういう者です」
恭しく両手で差し出された名刺。
警備員は、面倒そうにそれを手に取り、懐中電灯の光の下に晒した。そこには、1996年の日本経済において、もっとも勢いのある企業の名前が記されていた。
株式会社システムバンク
代表取締役社長 宗 正憲
「……システム、バンク……えっ、ええっ!?」
警備員の目が、文字通り飛び出しそうになった。
テレビのニュースや雑誌で連日のように目にする、時代の寵児。その本人が、目の前で自分に頭を下げている。
「な、ななな、宗社長!? これは、失礼いたしました! まさか、こんな時間に……!」
「いえいえ、こちらこそ急な予定変更でご迷惑をおかけしました。これ、皆さんに夜食でも。夜警は体に応えますから。」
宗はいつの間にか用意していた千円札の束……ではなく、近くのコンビニで買ってきた高めの缶コーヒーとパンの差し入れを警備員の手の中に握らせた。
「あ、ありがとうございます……! 撮影の件、承知いたしました! 私の方で管理室には話を通しておきますので、どうぞ、ごゆっくり作業を続けてください!」
先ほどまでの頑なさが嘘のように、警備員は何度も頭を下げながら、逃げるようにその場を退散していった。
―――
警備員の足音が消えると、宗は小さくため息をつき、誠に向かってウィンクをした。
「……全く。名刺ってのは、時にはハンダごてより役に立つ道具ですね、石川さん」
「へっ。旦那の『顔』ってのは、1996年の最強のパスポートだな」
石川が苦笑いしながら、装置の最終チェックに入る。
ケリーがノートPCを起動し、青白い光がテラスを照らす。
目の前には、1996年の渋谷の夜景。背後には、2026年の技術を無理やり駆動させる異形のブースター。
「誠。システム、オールグリーンです」
ケリーの声が、夜の風に乗って誠の耳に届く。
「時空の『滑走路』は、整いました」
誠は新しいリネンジャケットを脱ぎ、大切に抱えていたあの冬のコートを羽織った。六月の熱気が一気に体を包み、汗が噴き出す。だが、これが彼にとっての「正装」だった。
―――
1996年6月。
渋谷の夜風が、テラスに置かれた「装置」の排熱をさらっていく。
真空管が淡いオレンジ色に脈打ち、その中心部では分解されたiPhone SEのロジックボードが、この時代の物理法則を書き換えるような青白い光を点滅させていた。
「……マコト、準備はいいか」
石川が、無造作に基板を弄りながら声をかけた。その指先は驚くほど安定している。恐怖や不安を「技術」というフィルターで完璧に濾過した、一人のエンジニアの顔だった。
「はい。いつでもいけます」
誠は、初夏の蒸し暑さの中で、重い冬物のマッキントッシュの内側で大量の汗が噴き出すが、不思議と不快感はない。これが自分の「本来の重み」なのだという確信があった。
装置の最終チェックを見守る五人の顔を、誠は一人ずつ、網膜に焼き付けるように見つめた。
「誠」
石川が、作業の手を止めて顔を上げた。
「この実験で未来に戻れたら、また秋葉原に来い。石川無線は、俺がくたばるまであそこで看板を出して待っててやる。……そん時は、お前がここから過ごすはずだった『三十年分』のバカ話を、たっぷり聞かせてやるからな」
その言葉は、ぶっつけ本番の実験に対する「成功の保証」だった。2026年の秋葉原で、白髪になった石川と酒を酌み交わす。そんな未来を、石川は技術者としての誇りにかけて予約してみせた。
「石川さん……。ええ、必ず行きます。僕が知っている最高の技術者のところへ」
誠が深く頷くと、隣にいた宗が、少しだけ真面目な顔をして歩み寄ってきた。
「誠さん。あなたがもたらした2026年のデータ、そしてこの装置が示す理論……。これらはすべて、我がシステムバンクの、いいえ、日本の財産にさせてもらいますよ」
宗は、誠の手を強く握った。その手は熱く、野心に満ちていた。
「時代を先取りしすぎるのは私の癖ですが、今回は本当に良い刺激をもらった。……また会いましょう。あなたが帰る場所で、今よりずっと大きくなった私の会社を見せてあげます」
それは、歴史を加速させる男なりの、最大限の敬意と別れの言葉だった。
「ケリーさん」
誠が呼ぶと、ケリーは静かに、ホワイトボードに描いた数式を消すようにノートを閉じた。
「マコト。ノイマン中尉が成し遂げられなかった『帰還』を、今、あなたが完遂するんです。……我々が証明した理論は間違っていない。三十年後、どこかで会いましょう。その時は、量子力学の続きを、もっとゆっくりと」
同じ「時間軸の漂流者」への祈りを込めて、ケリーは誠の肩を叩いた。
「誠っち!」
あずさが、少し鼻を啜りながら、いつもの調子で割り込んできた。
「色々ありがとね、マジで。同じ同郷出身のよしみで、あんたのこと、おじさんだと思ってなかったから。……きっとまた会えるよね、うちら」
あずさの屈託のない笑顔に、誠の胸が締め付けられる。誠は知っている。2026年の世界で、彼女は一人の自立した女性として、この街のどこかで立派に生きていることを。
(……ええ、会えますよ。あずささん、あなたは素敵な大人になる。僕はそれを知っています)
言葉には出さず、誠は心の中で強く呟いた。
最後に、誠は美雪の前に立った。
美雪は、夜の渋谷の光を反射させたような瞳で、誠をじっと見つめていた。
「誠さん。前にも言いましたけど……」
彼女は一歩歩み寄り、誠のコートの襟を整えた。
「未来に帰ったら、奥さんと娘さんを、死ぬほど愛してあげてくださいね。私の分まで、なんて言わない。あなたが、あなたの幸せを、一秒も無駄にせずに掴み取る。それが、私たちがあなたを送り出す、たった一つの理由なんですから」
美雪の言葉には、執着も、後悔もなかった。ただ、一人の男性の幸せを心から願う、混じりけのない「愛」のようなものが宿っていた。
「美雪さん、僕は……」
「いいんです。さあ、行ってください。あなたの『今』へ」
誠は頷き、装置の中心部へと足を踏み入れた。
iPhoneSEのチップから発せられる高周波が、テラスの空気を震わせる。
1996年6月の湿った風が、一瞬だけ、2026年の凍てつく1月の冷気と混ざり合ったような気がした。
「全回路、臨界点突破!」
石川の叫び声と共に、テラスがまばゆい閃光に包まれる。
誠は、自分を囲む五人の姿を見た。
石川。宗。ケリー。あずさ。そして、美雪。
1996年の秋葉原で出会った、かけがえのない恩人たち。
彼らの姿が、光の粒子の中に溶けていく。
(ありがとう……。僕は、、帰ります!)
誠はマッキントッシュの襟を強く握りしめ、瞼を閉じた。
意識が遠のく中、最後に聞こえたのは、激しい電子音を突き抜けて響いた、
「いってらっしゃい!」という美雪の澄んだ声だった。




