4.1 秋葉の再開
時は少しさかのぼり…
神泉の夜は、湿った重い空気に包まれていた。かつての喧騒が嘘のように静まり返り、再開発を待つばかりの廃墟街に、突如として赤色灯の光が刺し込む。
「……なんだ、これは」
通報を受け、駆けつけた若い巡査は、廃墟ホテルのエントランスに足を踏み入れた瞬間、絶句した。
鼻をつくのは、カビの臭いと、生々しい鉄錆の混じった血の匂い。その奥で、渋谷を我が物顔で闊歩していたはずのチーマーたちが、見るも無残な姿で転がっていた 。
柴崎達があずさを救出後、匿名で通報をしていたのだ…。
神泉でチーマーたちが喧嘩をしていると…。
ある者は肌を無残に抉られ、ある者は骨を砕かれたのか、不自然な方向に曲がった手足を引きずって呻いている。その地獄絵図のような惨状の真ん中で、一人だけ不釣り合いな背広姿の男が、魂を抜かれたような顔で立ち尽くしていた。山八証券の寅谷である。
「……君、誘拐されていたのか?」
巡査が震える声で尋ねると、寅谷はただ、機械的に深く頷いた。その一言が決定打となり、木瀬たちは「抗争の果ての自滅」という、警察にとって都合の良い解釈とともに、病院経由で鉄格子の向こう側へと送られることになった。
――――
あずさが監禁されていた奥の部屋では、誠と柴崎は意外なものを見つけていた 。木瀬たちが「換金性の高い戦利品」として丁寧にバックへ詰め込んでいた、石川無線から盗まれたパーツの山だ 。
「皮肉なもんだ。奪った連中の方が、自分たちより丁寧にこの基板を扱ってやがる」
誠は、微かな煙草の残り香が漂うバッグを掴み、苦笑した 。
パーツたちは、まるで箱入りの宝石のように静かに収まっている。この幸運のおかげで、電脳石川無線の被害は最小限で済んだ。
こじ開けられたシャッターの修理と、割られたショーケース。空にしていたレジ。致命傷かと思われた事件は、奇跡的にかすり傷へと変わっていた。
―――――
店を閉めていた四日間、秋葉原の片隅には異様な光景が広がっていた。
「石川さん、そのラックはこっちだ。いや、もっと客の動線を意識して配置しよう」
指示を飛ばしているのは、前年末にWeb検索エンジン「Wahoo!」を買収し、時代の寵児となりつつあるシステムバンク社長、宗正憲その人だ 。
彼は、システムバンクの倉庫に眠っていた展示会用のスチールラックや、直営店で使われていた什器を惜しげもなく運び込ませた。それだけではない。宗は自ら腕まくりをし、埃にまみれながら棚の組み立てを手伝った。その姿は、数千億を動かす経営者というより、開店準備に追われる熱血な現場店長のそれだった。
「宗さん、あんたって人は……」
石川は、長年勤めたナショナルブランドの電機メーカーでは決して見ることのなかった「トップの背中」を、目の前の小柄な男に見出していた 。
「石川さん、そんな顔で見ないでくださいよ」
宗は、タオルで汗を拭きながら、少年のように不敵に笑う。
「私はね、誰かのためになることをするのが好きなんです。おばあちゃんにそう教わってきましたから」
綺麗に整頓された店内を見渡すと、宗は一転して、鋭い「商負師」の目に戻った。
「さて、石川さん、ケリーさん。引き続きオーパーツの解析を頼みますよ。あと、あのUSBコネクタは、すぐにでもシステムバンクのルートで流通に乗せたい。それから……」
宗は、ピカピカに磨かれたばかりのショーケースを指差した。
「このUSBを標準搭載した『石川無線オリジナルPC』を組んだらどうだい? 秋葉原の伝説になるよ」
商魂たくましい言葉を残し、宗は秘書の佐藤がドアを開けて待つ社用車へと乗り込み、日常という名の戦場へ戻っていった。
それからの石川無線は、まるで嵐の後の静けさを打ち破るような熱狂に包まれた。
―――――
「水道工事が終わったって聞いて飛んできたよー!」
何も知らない「かなっち」と「まなっち」がいつもの調子で現れ、週末には阿佐ヶ谷から美雪も合流 。あずさが経験した恐怖は、誠たちの配慮によって硬い蓋がされ、日常の喧騒の下へと隠された。
迎えた5月のゴールデンウィーク。
秋葉原の街は、Windows 95以降の熱を帯びたまま、かつてない人出を記録した。4日間の休業など、1日で取り返せるほどの売上が積み上がっていく。
しかし、そんな連休の喧騒が過ぎ去り、街がいつもの「日常」という灰色の空気に覆われ始めた頃。一台の重厚な黒塗りのセダンが、石川無線の前に静かに停車した。中から現れたのは、仕立ての良いスーツを隙なく着こなした初老の男、山八証券の専務・中澤昌平。
中澤は数日前、警察から連絡を受けていた…。
行方不明になっていた部下の寅谷が保護されたという。
渋谷署で面会した際、寅谷は社内表彰されていた時の姿とは変わり果てていた。
虚ろな視線に開いたままの口から発せられるのは、「秋葉原の石川無線を襲撃させた」「女がさらわれた」と支離滅裂なことばかりで、会話にならない。
調査の結果、石川無線が実際に数日休業していた事実を知る。しかし警察への被害届が出ていないことが不思議でならない。
中澤の長年の勘は、寅谷がこの誠実そうな店に多大なる迷惑をかけたのではないか。
その勘が正しいか確かめるべくやってきたのだ。
「……ここか」
中澤は一礼するように店構えを見上げると、静かに足を踏み入れた。
「社長~、誠さ~ん、山八証券の専務の方が来てまーす!」
階段の下から、いつもどおり響くかなっちの緊張感のない声。
だた、作業をしていた石川、誠そしてケリーも。三人は顔を見合わせた。
「山八の……専務!!?」
石川が怪訝そうに眉を寄せたその直後、応接スペースに通された男を見て、誠の心臓が跳ね上がる。
(……この人は……!)
誠の脳裏に、2026年の記憶が鮮烈に蘇る。1997年、戦後最大の自主廃業へと追い込まれた山八証券。そして1990年代末の金融危機を招いた事件。
その記者会見で、泣き崩れながら「社員は悪くないんです! 全て私達の責任なんです!」と叫んだあの社長――。
その当時マスコミは、中澤の姿を揶揄するかの様な風潮もあった。
ただ、当時高校生だった誠にとって、経済の仕組みは分からずとも、その「男気」あふれる姿だけは強烈に焼き付いていた。しかも、自分と同じ長野県出身であるという親近感とともに。
「突然の訪問、失礼いたします。山八証券の中澤でございます」
中澤は深々と頭を下げる。
「弊社の寅谷が、御社に多大なるご迷惑をおかけしたと聞き及んでおります。本来であれば、彼を連れて謝罪に伺うべきところですが……本人は今、心身を崩しておりまして。まずは私が責任者として、お詫びに参りました」
その物腰は低く、誠実さが滲み出ている。中澤は部下に合図し、ずっしりと重そうな大きな木箱を運ばせた。
「これは、私の実家――信州は長野市川中島で、兄達が丹精込めて育てたアスパラガスとレタスです。せめてもの気持ちですが、受け取っていただけないでしょうか」
大手証券の専務が、泥のついた野菜を謝罪の品に選ぶ。その飾らない、田舎のおじさんのような振る舞いに、同じく茨城の農家の次男坊である石川も、硬かった表情がわずかに和らいだ。
「……わざわざ、恐縮です」
だが、中澤はそれだけでは終わらなかった。彼は内ポケットから、ずっしりと重みを感じさせる分厚い茶封筒を取り出し、、
「それから……これはもう一つ、お詫びのしるしとして。お店を休業に追い込んだ損失には及びませんが、どうかお納めください」
封筒の厚みからして、中身が札束であることは明白だった。石川が「さすがにこれは……」と拒もうとしたその時、誠は口を開けた。
「中澤さん。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
2026年で経営企画部長を務める誠にとって、不透明な現金の授受は「ご法度」である。ましてや、今の山八証券が抱える「闇」――後に会社を崩壊させる簿外債務の存在を、誠は知っている。
「そのお金は、会社の経費ですか?」
単刀直入な問いに、中澤は一瞬驚いたように目を見開き、それから「ははっ」と声を立てて笑った。
「いえいえ。これは私のポケットマネーです。昨日、妻に銀行から下ろしてくるよう頼みましてね。今日、出勤の時に持ってきたものです」
中澤は穏やかな、しかし強い眼差しで誠を見た。
「仰る通り、我々は数々の企業の上場をお手伝いしてきた自負があります。不正なキャッシュの流れが、いかに企業を腐らせるか、身に染みて理解しているつもりです。だからこそ、これは私個人として、一人の人間として謝罪したい気持ちの表れなのです」
部下の不始末を、私財を投じてまで償おうとする。その男気に、石川も、そして誠も胸が熱くなった。
石川が、その想いを受け取ろうと手を伸ばしかけた、その時、、
「……いえ、やはり、これはお受け取りできません」
誠が、石川の手を制するように、、
「中澤さん。このお金は、あなたが日夜、身を粉にして働いて蓄えてこられた大切なお金です。ご家族を養うための、かけがえのない財産なはずだ。だからこそ、これはあなた自身のために……あなたのご家族のために使っていただきたい。私たちは、そのお気持ちだけで十分です」
誠の目は真剣だった。数ヶ月後社長に就任し、中澤が背負うことになる過酷な運命を、失われる財産を、誠だけは知っている。
中澤は、一介の店員である誠の言葉に、射抜かれたような表情をした。やがて、穏やかな苦笑いを浮かべ、封筒を胸にしまい、、
「……参りましたな。若い方に、そんなに真っ直ぐ見つめられては」
中澤は立ち上がり、清々しい表情で、
「では、野菜の方だけは、ありがたく納めさせていただきますよ。信州の味は、保証しますから」
帰り際、黒塗りの車に乗り込もうとする中澤の背中に、誠はたまらず声をかけた。
「中澤さん!」
振り返った中澤に、誠は言葉を選びながら、しかし魂を込めて告げた。
「私が言うのもおこがましいかもしれませんが……
寅谷さんのような社員を抱え、今は本当に大変な時期だと思います。でも、中澤さんのその誠実さは、今、確かに私たちの心に届きました。これから御社には、もっと厳しい荒波が来るかもしれません。でも……中澤さんの後ろ姿を信じて、絶対についてくる人たちがいます。どうか、頑張ってください。私は、応援しています」
未来を知る者としての予言に近いエール。
中澤は、一瞬だけ鳩に豆鉄砲を食ったような顔をしたが、すぐに表情をキリリと引き締めた。
「……ありがとう。君のような若者にそう言われると、まだやれる気がしてくる」
中澤はそう言い残し、車のドアを閉めた。スモークガラス越しに、彼の横顔が一点を見つめて動かなくなるのを誠は見送った。
車中、中澤は深く座席に身を沈め、大きく息を吐き出した。
実はこの時期、山八証券は未曾有の荒波の中にあった。表面上の華やかさとは裏腹に、バブル崩壊後の膨れ上がった含み損の挽回に、経営陣は奔走していた。中澤自身、連日深夜まで続く会議と、各所への資金繰りの説明に心身を削り、疲労はピークに達していた。
「……ついてくる人たちがいる、か」
中澤は独りごちた。
社内では派閥争いが絶えず、責任を押し付け合う声ばかりが響く。そんな孤独な戦場に身を置く彼にとって、秋葉原の小さなパーツショップの店員が発した、計算も裏表もない「頑張ってください」という言葉は、驚くほど深く乾いた心に染み渡った。
今の誠の言葉は、単なる気休めではない。まるですべてを見通した上で、それでもなお自分の「誠実さ」という最後の砦を信じると言ってくれているような、不思議な重みがあった。
(あのアスパラのように、地を這ってでも、この会社を立て直さねばならんのだな)
「運転手さん‥‥日本橋の本店へ向かってくれ。もう一踏ん張りだ」
中澤を乗せた黒塗りの車は、中央通りを、強い決意を秘めた加速で走り去る。
テールランプを見送る誠の胸には、熱い塊が込み上げていた。歴史の歯車が止まらないことは分かっている。それでも、あんなにも真っ直ぐな大人が、かつて日本を支えていたのだという事実は、2026年から来た誠にとっても、これからの戦いに向かう大きな勇気となった。
五月の風が、秋葉原の街にアスパラガスの土の香りを微かに運んできた。




