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4.2_とある高校球児

 中澤が訪れる少し前の話。

 五月の爽やかな風が、蔵造りの街並みが残る松本・中町通りを吹き抜けていく。


 実家の呉服屋の店先に座り込み、あずさは大きくあくびを流した。

 GWの帰省。誘拐事件のショックを癒やすための静養という名目だったが、刺激に満ちた東京から戻った彼女にとって、この静かな城下町はあまりに退屈すぎた。


 「あずさ、そんなところで腐ってないで、剛士の応援にでも行くか」


 父親が、松本商科高校の帽子を深く被り直しながら声をかけてきた。弟の剛士は、県内屈指の野球強豪校である松商(松本商科)でレギュラーを張っている。父親は連日連夜、息子の晴れ舞台を追いかけて球場へ通い詰めていた。


 「剛士か……。まあ、暇だし、ちょっとはマシかな」


 あずさは気だるげに立ち上がった。

 厚底のサンダルに派手なギャルファッションは、古都・松本の空気から浮きまくっていたが、彼女はそんなことを気にする性質ではない。


 松本市営球場。

 初夏の陽光が照りつけるスタンドは、応援団のブラスバンドが奏でる「コンバットマーチ」で熱気に包まれていた。

 試合は春の県地区大会。松本商科の相手は、元女子校の進学校、美ヶみがさき高校だ。


 初回から松本商科の猛攻が始まり、スコアボードには一方的な数字が並びつつあった。剛士も鋭い当たりを連発し、父親は隣で狂喜乱舞している。

 だが、野球のルールにさほど詳しくないあずさは、開始三十分で早くも飽きていた。相手の美ヶ崎の選手たちは、体つきからして松商の連中とは違う。どこか線が細く、必死に守るのが精一杯といった風情だ。凡打の山を築く彼らを、あずさは冷めた目で見ていた。


「……ちょっと、タバコ。空気吸ってくるわ」


 父親に断りを入れ、あずさは一塁側(松商側)のスタンドを離れた。

 球場の喧騒を背に、三塁側――相手校である美ヶ崎高校側のスタンド裏にある喫煙所へと向かう。


 紫煙をくゆらせながら、あずさはぼんやりと球場の外を眺める。

 その隣で、同じようにタバコを吸っている男がいた。

 美ヶ崎高校の帽子を被った、実直そうな中年の男だ。銀行員か公務員といった風情の中年の男は、劣勢の試合展開に苦い顔をしなが、煙をふかす。


 そこへ、スタンド側の階段から息を切らせた女性が駆け寄ってきた。同じく美ヶ崎の帽子を被った、いかにも「お母さん」といった雰囲気の女性だ。


「あなた、何してるの! 誠が打席に立つわよ、早く!」


「おっと、そうか。もう回ってきたか」


 男は慌ててタバコを揉み消し、妻の後を追って階段を駆け上がっていった。


(……マコト?)


 あずさの脳裏に、渋谷で自分を助けてくれた、年齢不詳で少し頼りなげ、だけれど芯の強い「お兄さん」の顔が浮かんだ。


『8番、キャッチャー、上條くん』


 場内アナウンスが耳に飛び込んできた瞬間、あずさの身体に電流が走る。


「……上條、誠!?」


 あずさは手にしたタバコを捨て、厚底サンダルを鳴らして階段を駆け上がった。美ヶ崎側の応援席の最前列まで割り込み、バッターボックスを凝視する。


 そこに立っていたのは、泥にまみれたユニフォームを着た、一人の青年。

 まだ体つきは細いが、その横顔、打席での独特の構え、そしてどこか真面目すぎるほどの眼差し。


 間違いない。秋葉原石川無線の店員、誠だ。


 あずさは、誠が語っていた「未来から来た」という言葉を、心のどこかで完全には信じきれていなかった。渋谷での奪還作戦であれほど頼りになった彼を信頼はしていたが、未来人という設定は、どこか遠いお伽話のように感じていたのだ。


 だが、今、目の前にいるのは、1996年を生きる「本物の」高校生の上條誠だ。

 未来の彼が言っていた通り、同郷の松本の高校でキャッチャーをしていた。


(本当に……本当にお兄さんは、この子があのまま大人になった姿なんだ)


 生身の体験として、時空の歪みが喉元に突きつけられたような感覚に身震いする。

 同時に、この圧倒的な劣勢の中で一人、強豪校のピッチャーを睨みつける誠の姿に、あずさの胸は熱くなった。


 気づけば、彼女は美ヶ崎の応援団の誰よりも大きな声をだす。


「うてーーーーっ! 誠ーーーっ!!」


 場違いなギャルが叫ぶ姿に、周囲の保護者会や生徒たちが「あれ誰?」「上條くんの知り合い?」とザワつき始める。


 方や打席の誠は、そんな喧騒など耳に入っていない。

 松商のエースが投じる剛速球に、必死に食らいつく。

 ツーストライク。追い込まれても、彼の目は死んでいない。


 カウント2ボール2ストライクの5球目。

 外角低めに逃げる変化球を、誠は身体を投げ出すようにして捉えた。

 左打者特有の、綺麗な流し打ち。 

 鋭いライナーが三遊間を抜け、レフト前へと転がっていく。


「やったぁぁぁ!」


 あずさは両拳を突き上げた。

 凡打に抑え込まれ、沈黙していた美ヶ崎サイドがどっと沸く。この試合、チームにとって初めてのクリーンヒットだった。


 一塁ベース上でヘルメットを直し、少し照れくさそうにベンチを見る誠。

 あずさは、弟の剛士のことなど完全に忘れ、夢中で拍手を送り続けていた。


(頑張れ、誠。あんた、いい男になるよ。……私が保証する!)


 そう心の中で呟きながら、あずさは身を乗り出すようにしてフェンスにしがみついていた。

 ヒットで出塁した誠だったが、後続が続かず得点には結びつかなかった。攻守交代となり、誠がプロテクターとレガースを身につけ、キャッチャーマスクを被ってホームベースの後ろに座る。


 そこからの展開は、さらに残酷なものだった。

 強豪・松本商科の打線は、容赦なく美ヶ崎の投手を打ち崩していく。次々とホームへ突っ込んでくるランナー。砂煙が舞う中、誠は何度も体当たりに近いクロスプレーに晒されながらも、必死にボールを逸らさず、ホームベースを死守していた。


「……お兄さん、あんなにボロボロになって」


 秋葉原で見せていた、どこか達観したような穏やかな表情はそこにはない。泥と汗にまみれ、一点をやるまいと必死に投手や野手を鼓舞し、声を張り上げる一人の球児。あずさは三塁側スタンドから、その背中をずっと見つめていた。敵陣営のど真ん中にいることさえ忘れ、誠がボールを止めるたびに、誰よりも強く手を叩いた。


 5回裏、終幕

 試合は5回、規定による10点差以上のコールドゲームで幕を閉じた。

 実力差は歴然としていた。整列の合図とともに、両チームの選手たちがホームベースを挟んで並ぶ。


「礼!」


 審判の号令とともに、泥だらけの球児たちが頭を下げる。

 美ヶ崎のスタンドからは、悔しさよりも「よくやった」という労いの溜息が漏れていた。選手たちがスタンドに向かって走り、帽子を脱いで一礼する。父母や在校生たちが温かい拍手を送る中、あずさもまた、真っ赤になった手で拍手を送り続けていた。


 その視線の先には、肩で息をしながら、真っ直ぐにスタンドを見上げる誠がいた。

彼は当然、この派手なギャルが自分を知っている未来の知人だとは露ほども思っていないだろう。それでも、あずさは彼に届けとばかりに、精一杯の笑顔で拍手をし続けた。


―――――


 夜風、降旗家の食卓

 松本市中町、蔵造りの風情が残る降旗家の食卓には、賑やかな夕食が並んでいた。


「今日のアスパラ、甘くてうまいな」

 父親が上機嫌でビールを煽る。その横で、勝利を収めた弟の剛士が、大盛りのご飯を口に運びながらふと思い出したようにあずさを見た。


「そういえばさ、姉ちゃん。今日なんで三塁側(美ヶ崎側)で見てたの?」


 責める風でもなく、純粋な疑問。剛士は、姉が昔から突拍子もない行動を取る自由人であることを知っている。


「……え? ああ、あれよ」


 あずさは箸を止め、一瞬の隙も見せずに言い放った。

「あんたがサード守ってたじゃない。ほら、サード側のほうが剛士の顔がよく見えるかなーって思って。姉心あねごころってやつ?」


「えー、マジで? 姉ちゃんがそんなこと考えるなんて、明日雪降るんじゃねーの?」


 剛士はニヤニヤしながら、まんざらでもない様子で話を終えた。美ヶ崎のキャッチャーを必死に応援していた姉の姿をどこまで見ていたのかは謎だが、それ以上追及してこないのが、この姉弟のいい距離感だった。


 あいた窓から、5月の爽やかな夜風が吹き込んできた。松本の夜は、昼間の熱気が嘘のように涼やかで、微かに新緑の香りが混じっている。


あずさは、風に揺れるカーテンを見つめながら、ふと秋葉原の喧騒を思い出した。


(誠さん……今ごろ東京で、何してるかな)


 未来から来たという誠と、今日ヒットを打った誠。

 二人の「誠」が自分の人生に交差している不思議な感覚に包まれながら、あずさは冷たいお茶を飲み干した。


――――


 中澤専務の乗った黒塗りの車が、秋葉原の雑踏の中へ消えていってから、しばらくして、、


「ただいまーっ! 復活のあずさ、降臨!」


 石川無線の重いドアが勢いよく開くと、初夏の陽光とともに、ひときわ明るい声が店内に響き渡った。

 入り口には、少し日に焼けてリフレッシュした様子のあずさが立っていた。その隣には、彼女を松本まで送り届け、再び連れ帰ってきた柴崎が、無愛想ながらもどこか安心したような表情で立っている。


「おっ、あずさちゃん! お帰り!、てかええ!?彼氏?」

「彼氏同伴??、まあいいかあ、それよか お土産は? お土産はあるの!?」


 カウンターの奥から「かなっち」と「まなっち」が飛び出してきた。彼女たちにとって、あずさが監禁されていた事実は伏せられており、単に「実家へ長期帰省していた」ことになっている。それでも、ムードメーカーの帰還は、再開したばかりの店にさらなる活気を与えた。


「もー、かなっちたちは食い気ばっかりなんだから。ほら、中町の老舗のくるみ菓子と、あとこれ、お父さんが持たせてくれた信州名物の『おやき』。レンジでチンして食べてね」


 あずさは大きな紙袋をカウンターに置くと、店の奥へと視線を向けた。

 そこには、中澤から贈られたアスパラガスの箱を片付けていた石川と、作業の手を止めたケリー、そして誠がいた。


「あずさ、お帰り。顔色が良くなったみたいで安心したよ」

石川が父親のような優しい眼差しで声をかける。


「石川さん、ケリーさん、ご心配おかけしました! もうすっかり元気です」

 あずさは、いつもの屈託のない笑顔を見せた。だが、その視線が最後に誠に留まったとき、彼女の表情にわずかな変化が走った。


「……お兄さ――」


 言いかけて、あずさは言葉を飲み込んだ。

 彼女の脳裏には、数日前、松本の球場で泥にまみれて白球を追っていた「高校球児の誠」の姿が焼き付いている。そして今、目の前に立っているのは、自分を救い出し、どこか遠い未来を見据えている「大人の誠」だ。


 これまでは、どこか自分を助けてくれる「年上の人」として、親愛を込めて「お兄さん」と呼んでいた。だが、彼が本当に時を超えてきた存在であることを目の当たりにした今、彼女の中で彼に対する感情は、単なる依存や親しみを超えた、一人の人間としての深い敬意へと変わっていた。


 誠が「どうしたの?」と小首をかしげると、あずさは少し照れくさそうに、しかしはっきりと口を開いた。


「……ただいま戻りました、誠さん」


「え?」

 誠は、予期せぬ呼び方の変化に、一瞬きょとんとした。


「……誠、さん?」


「そう。いつまでもお兄さん、お兄さんって呼ぶのも子供っぽいでしょ? 誠さんは、誠さん。私の……大切な仲間なんだから」


 あずさはいたずらっぽく笑うと、少しだけ背伸びをして誠の顔を覗き込んだ。その瞳には、彼が「未来から来た」という孤独な真実を共有し、共にこの時代を生き抜こうとする、力強い決意が宿っていた。


 かなっちとまなっちが「えー、なにその呼び方! 密約!? 不倫!?」と騒ぎ立て、石川が「馬鹿者、店で変なことを言うな!」と笑いながら一喝し、後ろにいる柴崎は何事かとあっけにとられる・・。


 そんな賑やかな光景を、ケリーは優しく微笑みながら見守っていた。


 石川無線の再開。

 中澤専務の残していった誠実な決意と、あずさが持ち帰った確信。それぞれの想いが秋葉原の小さな店舗に集い、1996年という激動の時代が、再び加速し始めようとしていた。

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