4.0_第四章プロローグ ~夢の中で~
激闘の熱が、ようやく冷えようとしていた。
渋谷の廃墟からあずさを救出し、彼女を家族のもとへ送り届けた数日後。誠は泥のように重い疲労に身を任せ、小金井にある石川宅の客間で深い眠りに落ちていた。
意識の底へ、ゆっくりと沈んでいく。
暗闇を抜けた先に見えたのは、鮮やかな緑だった。
そこは、誠がよく知る公園だった。2026年の、いつもの公園。 陽光は柔らかく、空気には微かに秋の気配が混じっている。視線の先、見慣れた白いベンチに、二人が座っていた。
「……幸恵。愛美」
誠の喉から、震える声が漏れた。 愛する妻、幸恵。そして、4月には小学生になっている愛娘、愛美。 二人は何事かを楽しそうに語らい、愛美が幸恵の肩に頭を預けて笑っている。その横顔の輪郭、髪をなでる風の動きまで、驚くほど鮮明だった。
誠は駆け寄ろうとした。名を呼び、その温もりに触れようと手を伸ばす。だが、どれほど足を動かしても、二人のいるベンチにたどり着けない。それどころか、誠が歩み寄るたびに、ベンチはするすると遠ざかっていく。まるで動く歩道に逆らって歩いているかのように、二人の姿は小さくなり、陽炎の向こうへ溶けていこうとする。
「幸恵! 愛美!! 俺だ、ここにいる!!」
声の限り叫んだ。だが、二人はこちらを見ない。まるで誠の存在だけが、この世界から消しゴムで消されたかのように、彼の声は空気に吸い込まれて消えていく。
絶望が胸を締め付けたその瞬間、唐突に足元の地面が消失した。
「……っ!?」
支えを失った誠の体は、真っ逆さまに虚空へと投げ出された。空は吸い込まれるようなコバルトブルー。眼下には、見たこともない広大な大地が地平線まで続いている。風を切る音が耳を打ち、重力に翻弄されながら誠は落下していく。
死を覚悟し、目を閉じた。
だが、訪れた衝撃は、羽毛のように柔らかいものだった。
顔を上げると、そこは穏やかな野原だった。 どこまでも続く草の海。風が吹くたびに、緑の波が静かな音を立てて揺れている。
「……Alles klar?」(大丈夫か?)
不意に、上空から降ってきたような声に、誠は顔を上げた。そこに、一人の青年が 立っていた。 透き通るような青い瞳と、陽光を反射して輝く金髪。彫りの深い顔立ちをしたその青年は、時代錯誤な軍服のようなツナギを纏い、足元には頑丈そうな黒いブーツを履いている。首元には、古い時代の飛行士が使うような、ゴーグルがぶら下がっていた。
青年は誠を見つめ、慈しむような、それでいてどこか遠くを見るような瞳で微笑んだ。そして、穏やかに語りかける。
「Es ist in Ordnung. Du kannst zurückkehren. Alles wird gut.」 (大丈夫だよ。君は戻ることができる。すべては上手くいく)
その言葉の意味を、誠は知識としてではなく、魂の深いところで理解した。青年の声には、荒れ狂う海を鎮めるような、不思議な静寂が宿っていた。張り詰めていた誠の心が、一気に解けていく。
「そうか……。帰れるんだ、俺」
安堵が涙となってこぼれそうになるのを、誠はこらえなかった。彼は夢の中の野原に、吸い込まれるように再び横たわった。草の香りと、青年の穏やかな存在感に包まれながら、誠は今度こそ、安らかな眠りへと誘われていった。
カチャ、カチャ。
陶器が触れ合う微かな音と、香ばしい味噌汁の匂い。誠がゆっくりと瞼を開けると、そこには昭和から続く日本の家屋の、懐かしい天井があった。
時計の針は、午前六時三十分を指している。 五月の爽やかな朝の光が、障子越しに部屋を白く染めていた。襖の向こう、キッチンの方からは、石川の妻・紀子が朝食の準備を始めている気配が伝わってくる。
「……夢、か」
誠は布団の中で、大きく息を吐いた。手足を伸ばすと、五月の温まった空気が心地よい。夢の中で見た二人の姿。最後に会ったのがいつだったか思い出せないほど遠い気がしていたが、今はその残像が、胸の奥を温めている。
(幸恵。愛美)
心の中で二人の名を呼ぶ。「あれは誰だったんだろうな」 あの不思議な青年の正体はわからない。だが、彼が放った「帰れる」という言葉だけが、今の誠にとって揺るぎない北極星のように輝いていた。
「……待っててくれよ。絶対に戻るからな」
誠は天井を見つめたまま、自分自身に、そして見えない家族に強く誓った。五月の朝。新しい戦いが、ここから始まる。 石川の家を包む穏やかな日常の音を聞きながら、誠は布団から起き上がり、1996年という「現実」へ向けて力強く一歩を踏み出した。




