719話 鐘の音
その後――俺たちは何事もなく、大聖堂を後にした。
いや。
“何事もなく”という表現は、きっと正しくない。
俺たちは確かに無事だった。
傷も負っていない。
命も奪われていない。
だが、大聖堂へ入る前と後では、明らかに何かが違っていた。
頭の奥に、鉛のような重さが残っている。
白い部屋。
視線を向けることすら拒絶した身体。
神託の巫女の声。
そして――神そのものが世界の危機だという言葉。
どれも現実感が薄く、まるで悪い夢でも見せられたようだった。
大聖堂を出る直前。
巫女は、あの後静かに立ち上がり、「祈りの時間です」とだけ告げた。
それだけだった。
なのに、その場にいた誰一人として逆らおうとはしなかった。
シオウも。
アルベリオも。
あれほど強大な存在感を放っていた二人ですら、当然のように道を空けた。
アルベリオは退出間際、俺たちへ向き直り、穏やかな笑みのまま言った。
「三日後、もう一度来てくれ」
理由は聞かなくても分かる。
おそらく――巫女の墓標。
俺たちに、その捜索を手伝わせるつもりなのだろう。
俺は了承してしまった。
あの場では、断れる空気ではなかったというのもある。
だが。
本当に、それでよかったのだろうか。
石畳を歩きながら、俺は小さく息を吐いた。
大聖堂の巨大な鐘が遠くで鳴る。
ゴォン――……と。
腹の底まで震わせるような低い音。
街の人々は立ち止まり、胸の前で手を組み、大聖堂へ祈りを捧げている。
その光景を見ながら、俺は無意識に眉を寄せた。
巫女。
祈り。
信仰。
そのどれもが、さっきまでとは違う意味を持って見えてしまう。
ルミエラが隣でぼそりと呟いた。
「……なんか、どっと疲れた」
珍しく声に覇気がない。
あのルミエラですら、巫女の存在にはかなり気圧されていたらしい。
ライナスも腕を組んだまま低く唸る。
「気味悪ぃ女だったな」
シノブは何も言わなかった。
だが、周囲への警戒を解いていない。
大聖堂を出た今ですら、神経を尖らせ続けているのが分かった。
俺は一度立ち止まり、振り返る。
空を突き刺すような白亜の塔。
黄金の鐘。
陽光を受けて輝く外壁。
街の誰もが神聖視する建造物。
だが、今の俺には――。
あれが巨大な“檻”のように見えた。
巫女を閉じ込めるための檻なのか。
あるいは、巫女を外へ出さないための檻なのか。
そこまで考えて、俺は頭を振った。
駄目だ。
一人で考えていると、どんどん悪い方向へ思考が進む。
「……とりあえず、話を整理しましょう」
俺が言うと、ルミエラが即座に頷いた。
「なんかもう、頭こんがらがってきたし」
ライナスも「腹減った」と短く言う。
結局、俺たちは大聖堂から少し離れた場所にある食事処へ向かうことにした。
街の中央から外れた通り。
石造りの建物が並ぶ一角に、その店はあった。
木製の看板。半開きの扉。
中からは肉を焼く香ばしい匂いと、複数人の笑い声が漏れてくる。
さっきまでいた大聖堂の異様な静寂とは、まるで別世界だった。
店に入ると、むわりとした熱気が肌を撫でる。
客たちの喧騒。皿のぶつかる音。
酒の匂い。焼いた香辛料の刺激臭。
その全てが妙に現実的で――少しだけ安心した。
俺たちは店の奥の席へ腰を下ろした。
椅子が軋む。
ルミエラは机に突っ伏すようにして唸った。
「無理無理無理。あの巫女、絶対なんかおかしいって……」
「今更かよ」
ライナスが鼻を鳴らす。
「見りゃ分かるだろ。普通じゃねぇ」
「普通じゃないってレベルじゃないよぉ……」
ルミエラは半泣きのような顔で続ける。
「なんか、あたし……あの人の声聞いてるだけで、頭ぐちゃぐちゃになりそうだったんだけど」
その言葉に、俺は黙って頷いた。
俺も同じだった。
恐怖とも違う。
威圧とも違う。
もっと根源的な何か。
“人間が本能的に逆らえない存在”を前にした感覚。
そんなものに近かった。
すると、ずっと黙っていたシノブが口を開く。
「あの女は……危険だ」
短い言葉。
だが、そこには確かな断定があった。
シノブは机に肘をつきながら続ける。
「強い弱いではない。存在そのものが異質だ。
ワタシはあれほど気味の悪い魔力を感じたことがない」
ライナスが腕を組みながら低く唸る。
「だが、アルベリオは完全に従ってやがった」
「あれが一番怖いんですよ」
俺は小さく呟いた。
アルベリオ。
最強の勇者。
どんな強敵にも屈しないはずの男。
そんな彼が、巫女へ絶対の忠誠を向けていた。
それが単なる信仰とは思えなかった。
ルミエラが顔を上げる。
「ねぇカイル君」
「なんです?」
「あたしたち……本当に三日後また行くの?」
その問いに。
誰もすぐには答えられなかった。
――昼食は、ほとんど無言のまま終わった。
本来なら、あの大聖堂で聞いた話を整理するための場だった。
話し合うべきことはいくらでもあったはずなのに――誰も口を開かなかった。
皿にナイフが当たる音。
店内の喧騒。
酒を飲む客たちの笑い声。
その全てが妙に遠く聞こえる。
俺たちはただ、機械みたいに食事を口へ運び、飲み込み、視線を落とし続けていた。
皆、疲れていた。
肉体ではない。
精神が、だ。
あの白い部屋、神託の巫女。
視線を向けることすら本能が拒絶した、あの異質な存在。
今思い出しただけでも、背筋の奥が冷える。
結局、食事を終えるまで、誰一人まともな会話をしなかった。
宿へ戻る道中も同じだった。
街には人が溢れている。
市場では商人が声を張り上げ、子供たちが走り回り、鐘の音に合わせて祈りを捧げる者たちがいる。
平和な光景だ。
なのに。
俺には、その全てが薄い膜一枚隔てた向こう側の世界に思えた。
宿へ戻ると、俺たちは軽く言葉を交わしただけで、それぞれの部屋へ戻った。
ライナスは「寝る」とだけ言い、ルミエラは珍しく静かなまま手を振る。
シノブに至っては、一言も発さなかった。
部屋へ入り、ベッドへ腰を下ろす。
身体は重かった。
だが、眠気はない。
窓の外を見る。
夕日に染まるガリオンの街並み。
遠くには、大聖堂の白い塔。
あの場所に、巫女がいる。
神の危機を語った女。
完全なる神託を求める存在。
そして――アルベリオ。
俺はゆっくりと目を閉じた。
本当に、協力していいのか。
いや。
そんなもの、答えは最初から決まっていた。
―――。
――翌日。
宿の前に集まった俺たちは、ほぼ同時に口を開いた。
「アルベリオには協力しない」
満場一致だった。
「あ、やっぱみんなそう?」
一拍遅れて、ルミエラが若干引き気味に笑う。
ライナスは腕を組みながら鼻を鳴らした。
「当たり前だ。どう考えてもヤベぇだろ、あいつら」
シノブは壁に背を預けたまま、小さく呟く。
「むしろ協力する理由がない」
朝の空気は冷たかった。
だが、それ以上に、俺たちの判断は冷えていた。
昨夜、俺はずっと考えていた。
アルベリオと神託の巫女の、墓標へのあの異常な執着。
そして、“完全なる神託”。
あれは駄目だ。理由を説明しろと言われても難しい。
だが、本能的に理解できる。
あれは、この世界に存在してはいけないものだ。
それは巫女自身が言っていたことだ。
本来あるべき形ではない、と。
そんなものを、あの二人は実現しようとしている。
しかも、“神を止めるため”に。
規模が大きすぎる。
話が常軌を逸しすぎている。
そして何より――。
俺は、あの巫女を信用できなかった。
「というかさぁ」
ルミエラが顔をしかめる。
「あの巫女、絶対なんか隠してるよね」
「隠してない方が怖ぇよ」
ライナスが即座に返す。
シノブは目を細めたまま、低く呟いた。
「ワタシは殺すべきだと思う」
その一言に、空気が止まる。
シノブは本気だった。
目が、一切笑っていない。
「あの女は危険だ。存在を許してはいけない類だ」
「やめてください」
俺は即座に止めた。
「そんなことしたら本当に終わります」
神託の巫女。
このロルロ王国において、彼女が国王以上の存在だと言うことは嫌でも理解させられた。
民衆の信仰そのもの。
巫女を害すると言うことはつまり、この国全体を敵に回すということ。
いや。
アルベリオまで敵に回る時点で、もはや生存は絶望的だ。
シノブは不満そうに目を逸らしたが、それ以上は何も言わなかった。
俺は小さく息を吐き、話を戻す。
「……とにかく、今後を考えましょう」
まず問題なのは、ノアだ。
俺はそのことを口にする。
「ノアを、このままロルロに置いておくわけにはいきません」
ルミエラも真剣な顔で頷いた。
「うん。あの巫女の近くにいるってだけで、なんか嫌」
ライナスも珍しく即答する。
「ノワラに帰すべきだな」
結論は早かった。
ノアはノワラ王国へ戻す。
家族か、信頼できる人物へ預ける。
少なくとも、今のロルロよりは遥かに安全だ。
「手紙はあたしが送るよ」
ルミエラが言う。
「ノアちゃんのことも、アルベリオたちに協力しないってことも全部」
俺は頷いた。
アルベリオがどう動くかは分からない。
だが、ノアはノワラ王国の民だ。
ロルロがノアの帰国を拒めば、国同士の問題に発展しかねない。
そこまで強引な真似は、流石にできないはずだ。
問題は――墓標だ。
”完全な神託”の計画を知った俺たちを、巫女側が本当に放置するのか。
そんなはずがない。
アルベリオは穏やかだった。
だが、あの男は必要とあれば躊躇なく動く。
俺は確信していた。
手紙が届いた時点で、何かが起こる。
ならば、その前に動かなければならない。
「俺たちがやることは二つです」
俺は指を折りながら整理する。
「天啓の巫女を探し出すこと」
そして。
「その巫女を連れて、ノワラへ行くこと」
ノアを救う。
それが最優先だ。
だが、問題は――。
「居場所が分からねぇんだろ?」
ライナスの言葉に、俺は頷いた。
そう。
結局そこだ。
アルベリオから情報は得た。
星詠みの巫女。
墓標。
権能。
だが、核心には届いていない。
天啓の巫女がどこにいるのか。
それが分からない。
闇雲に探していては時間が掛かりすぎる。
すると、そのとき。
シノブが静かに口を開いた。
「なら、行くしかないな」
俺は顔を上げる。
シノブは淡々と続けた。
「ヴァルサハル大砂丘だ」
砂丘。
あの地獄。
吹き荒れる砂嵐。
砂骸獣。
そして――。
漆黒の建造物。
巫女の墓標と思われる、あの異質な城。
「あそこにいた魔力反応」
シノブの目が細まる。
「誰にも見つけられていない墓標に、何かが隠れている」
ルミエラも息を呑む。
「……つまり、その中に天啓の巫女がいるかもしれないってこと?」
「それは分からない……が、関係者である可能性は高いだろう」
シノブは即答した。
俺はゆっくりと拳を握る。
結局。
戻るしかないらしい。
あの、狂った砂丘へ。
―――。
さらに翌日――。
俺たちは、すでにガリオンを発っていた。
夜が明けるよりも早く宿を出て、まだ人通りの少ない街道を馬車で駆け抜ける。
石畳を叩く車輪の音だけが、静まり返った朝の街に乾いて響いていた。
昨夜のうちに、ルミエラが国内便を使ってアルベリオ宛に手紙を送っている。
内容は簡潔だ。
――墓標探索には協力できない。
――ノアはノワラへ返還してもらう。
それだけ。
昼頃には大聖堂へ届く手筈になっている。
「……今頃、ブチ切れてんじゃない?」
馬車の後ろで毛布にくるまりながら、ルミエラが嫌そうに顔をしかめた。
「まだ届いてませんよ」
俺は手綱を引きながら返す。
「問題は、届く前に気づかれるかどうかです」
アルベリオには、思考を読む加護がある。
それがどこまで届くのかは分からない。
だが少なくとも、何の対策もなしに逃げ切れる相手じゃない。
だから昨夜から、シノブが結界魔法を展開し続けている。
思考干渉の遮断。
感知妨害。
精神波長の撹乱。
忍独特の術式らしく、俺には仕組みは分からない。
ただ、薄い膜のような違和感が頭の周囲にまとわりついている感覚だけは常にあった。
さらに宿にも細工をした。
三日分の宿代を前払いし、荷物の一部も部屋に残したままにしてある。
外から見れば、俺たちはまだガリオンに滞在しているようにしか見えない。
無論、そんな小細工でアルベリオを完全に欺けるとは思っていない。
だが――少しでも時間を稼ぐ。
今はそれだけで十分だった。
「……来るなら、絶対来る」
ぼそりとシノブが呟く。
荷台の隅で膝を抱えたまま、鋭い目だけが周囲を警戒していた。
「奴はそう易々と諦めるタイプとは思えない」
「分かってます」
俺は短く返した。
だからこそ、先に墓標へ辿り着かなければならない。
あそこにいた“何か”。
シノブが感知した、地下の魔力反応。
あれが、天啓の巫女へ繋がる唯一の糸かもしれないのだから。
馬車は街道を抜け、第一都市シグムを横切る。
数日前まで“楽園”だなんだと騒いでいたルミエラも、今日は珍しく静かだった。
やがて緑が減り始める。
草原が痩せ、土が乾き、風に砂が混じり始める。
そして――。
目の前に、“壁”が現れた。
「……戻ってきたな」
ライナスが低く呟く。
黄金。
ただ一色。
空まで続く巨大な砂嵐が、世界を真っ二つに切り裂いていた。
緑の大地と、砂の大地。
その境界線は、まるで神が引いた線のように不自然だった。
吹き荒れる砂が巨大な幕のように揺れ、向こう側の景色を完全に呑み込んでいる。
まるで、“こちら側へ来るな”と警告しているみたいだった。
俺たちは無言のまま、その黄金の壁を見上げる。
恐怖がないと言えば嘘になる。
あの地獄を、俺たちは知っている。
肌を焼く熱。
肺に入り込む砂。
方向感覚すら狂わせる嵐。
そして、砂骸獣。
一歩間違えれば死ぬ。
そんな場所へ、自分たちから戻ろうとしている。
だが。
それでも。
「行きますよ」
俺がそう言うと、全員が静かに頷いた。
ノアを助ける。
その意思だけが、俺たちを前へ押していた。
馬車は黄金の壁へ突っ込む。
瞬間。
視界が、砂に呑まれた。
轟音。
全身を殴りつける砂。
布越しですら肌が痛い。
砂嵐が馬車を揺らし、車輪が何度も地面を滑る。
「うわっ!? 相変わらず最悪なんだけどこの砂丘!!」
ルミエラが叫ぶ。
「黙ってろ! 舌噛むぞ!」
ライナスが怒鳴り返す。
俺は必死に手綱を握り締めた。
今回使っている馬車は、ガリオンで新調した砂丘用だ。
幅広の車輪。
砂避けの魔法布。
重心を低くした特殊構造。
以前の馬車より遥かに安定している。
それでも、この砂嵐の前では玩具みたいなものだった。
馬が悲鳴のように鳴く。
俺は魔力で補助しながら速度を維持した。
墓標を見た位置は、シノブが正確に覚えている。
方位魔石もある。
地図もある。
シノブの魔力感知もある。
条件は揃っている。
辿り着けないはずがない。
そう、思っていた。
――砂丘へ戻ってから数時間。
俺たちは、同じ場所を何度も回っていた。
「……ない」
シノブが低く呟く。
馬車が止まる。
吹き荒れる砂の中、俺たちは周囲を見回した。
何もない。
ただ黄金色の砂丘が延々と続いているだけだ。
「おかしい……絶対この辺りだ」
シノブの声には、珍しく焦りが滲んでいた。
方位魔石は、確かにあの場所を指している。
地図も一致している。
距離も合っている。
なのに。
墓標が、存在しない。
「幻だった……とか?」
ルミエラが不安そうに呟く。
「そんなわけねぇだろ」
ライナスが即座に否定した。
「あれは全員見ただろうが」
そうだ。
あの黒い城を。
空を裂く三本の塔を。
砂丘の中にぽつりと存在していた、あの異様な墓標を。
見間違いのはずがない。
俺は砂嵐の向こうを睨む。
しかし、あるのは砂だけだ。
何もない。
何も。
「……魔力反応も、一切ない」
シノブが唇を噛む。
「ワタシの感知は、絞ればどんな微細な魔力でも拾える。
地下だろうが、数キロ先だろうが……見落としたことはない」
そのシノブが、見つけられない。
つまり。
墓標そのものが、“存在していない”かのようだった。
砂嵐が吹き荒れる。
黄金の世界が、俺たちを嘲笑うみたいに揺れていた。
焦りが募る。
嫌な汗が背中を伝う。
何かを見落としているハズだ。
だが、それが何なのか分からない。
――そのときだった。
不意に。
シノブが、ぴたりと動きを止めた。
「……待て」
低い声。
その瞬間、空気が変わる。
シノブの視線が、ゆっくりとある方向へ向いた。
「どうしました?」
俺が問う。
するとシノブは、信じられないものを見る目で砂嵐の奥を見つめながら、呟いた。
「……今、一瞬だけ……聞こえた」
「聞こえた?」
「あぁ……」
シノブは目を細める。
そして。
静かに、こう言った。
「……鐘の音だ」




