720話 最初の試練
吹き荒れている砂嵐の中――。
シノブは、“鐘の音が聞こえる”と言った。
最初、何を言っているのか分からなかった。
このヴァルサハル大砂丘では、常に風が唸っている。
砂が空気を削り、視界だけじゃない、音すら奪っていく。
近くで叫ばれても聞き取れないことだってあるほどだ。
(そんな場所で、鐘の音なんて聞こえるのか?)
「……何言ってんですか」
俺は思わずそう返していた。
しかし、シノブは冗談を言っている顔じゃなかった。
馬車の上で静止したまま、鋭く目を細めている。
まるで、遥か遠くにいる“何か”へ神経を集中させているようだった。
「静かにしろ」
短く言う。
俺たちは顔を見合わせ、口を閉ざした。
風の音だけが響く。
ゴオオオオ……と、世界そのものが唸っているみたいな轟音。
だが。
耳を澄ませているうちに――。
「……っ」
聞こえた。
微かに。
本当に微かに。
風の奥に混じるような、低く長い音。
重い鐘の音だった。
ガリオンの大聖堂で聞いたものとは違う。
あの音は、“神の声”みたいな威圧感があった。
街全体を押さえつけるような、巨大な権威。
だが、今聞こえている鐘の音は違う。
もっと静かで。
もっと遠くて。
それなのに、不思議と耳に残る。
まるで――。
“こちらへ来い”と。
呼ばれているみたいだった。
その瞬間。
俺は確信していた。
この先にある。
巫女の墓標が。
理由なんてない。
だが、分かってしまった。
あの鐘の先に、墓標がある。
「……カイル君」
ルミエラの声。
振り向くと、ルミエラもどこか呆然とした顔をしていた。
「今の……聞こえたよね?」
「……ああ」
ライナスも低く返す。
シノブはすでに馬車から降り、鐘の音が響いた方向を見つめていた。
そのときだった。
ふっ――と。
今まで暴れ狂っていた砂嵐が、急に消えた。
砂が止まる。
風が止まる。
あれほど世界を埋め尽くしていた黄金の濁流が、一瞬で静寂へ変わった。
「……ッ!」
俺たちは反射的に身構える。
砂嵐が止む。
それはつまり――。
「砂骸獣が来ンぞ!」
ライナスが大剣へ手を掛ける。
俺も杖を握り締めた。
今まで何度も経験した。
砂嵐が止んだ直後、奴らは現れる。
狼。熊。鳥。
様々な姿をした砂の怪物たち。
だから今回もそうだと思った。
警戒し、周囲を見回す。
しかし――。
何も現れない。
――代わりに。
目の前に、“闇”が現れた。
「……は?」
ルミエラが呆然と声を漏らす。
俺も、理解が追いつかなかった。
さっきまで何もなかったはずの場所。
そこに。
巨大な漆黒の壁が存在していた。
壁。
そう呼ぶしかない。
見上げても終わりが見えないほど巨大な黒い壁面が、俺たちの前にそびえ立っていた。
滑らかだった。
まるで水面みたいに。
砂一粒付着していない黒い外壁が、鈍く光を反射している。
そして、その壁の奥から。
三本の巨大な塔が空へ伸びていた。
天を貫く勢いで。
まるで世界そのものを支える柱のように。
それぞれの塔の中腹には、巨大な鐘が吊るされている。
そして今。
右端の塔の鐘が、ゆっくりと揺れていた。
低く。静かに。
世界へ染み込むみたいに響く音。
「あれが……」
俺は呟く。
言葉にした瞬間、全身に鳥肌が走った。
「巫女の墓標……」
誰も否定しなかった。
否定できるはずがなかった。
この異様な建築物を前にして、別の何かだと思えるわけがない。
砂丘の中に現れる漆黒の城。
誰にも見つけられない場所。
そして、鐘。
アルベリオの言っていた特徴と、あまりにも一致しすぎていた。
俺たちは呆然とその巨大な墓標を見上げる。
すると、不意に気づいた。
「……砂骸獣が、出ない」
ルミエラがぽつりと呟く。
確かにそうだった。
砂嵐は止んでいる。
なのに、奴らは現れない。
今まで一度もなかったことだ。
俺は墓標を見上げる。
そして、理解した。
砂嵐が止んだのは。
砂骸獣が現れる前兆じゃない。
この墓標を――。
俺たちへ見せるため。
不思議と、そう思えた。
まるで墓標自身が、“ここにいる”と名乗りを上げたみたいだった。
静寂の砂丘。
風も音もない。
ただ鐘だけが響いている。
俺たちは馬車を降り、墓標の周囲を歩き始めた。
近づけば近づくほど、その巨大さが分かる。
城だ。
やはりこれは墓標なんかじゃない。
巨大な城そのものだった。
黒い壁面には窓が並び、外壁には幾何学模様の装飾が刻まれている。
階段もあった。
見上げるほど巨大な門も。
まるで今でも誰かが暮らしているかのように、建物として完成していた。
しかし。
不気味なほど静かだった。
生命の気配が、一切ない。
鳥もいない。
風もない。
砂すら動いていない。
世界から切り離された場所みたいだった。
「……気味悪ぃな」
ライナスが低く呟く。
珍しく、声に緊張が混じっていた。
シノブは周囲を警戒しながら歩いている。
だが、その目にも僅かな動揺が見えた。
「魔力反応が……機能しない」
シノブが言う。
「まるで空間そのものが濃密な魔力で出来ているみたいだ」
俺も魔力感知を広げてみる。
瞬間――頭痛が走った。
「ッ……!」
濃い。
濃すぎる。
建物全体から、常軌を逸した魔力が滲み出ている。
しかも、その質が異常だった。
冷たい。
だが禍々しくはない。
むしろ、静かすぎる。
死者の魔力。
そんな言葉が脳裏をよぎった。
そして。
墓標を一周した先で、俺たちは“入口”を見つけた。
巨大な扉だった。
外壁と同じ、漆黒の素材。金属にも石にも見えない。
表面は鏡みたいに滑らかで、近づいた自分たちの姿がぼんやり映っている。
扉には取っ手がない。
鍵穴もない。
ただそこに、“閉ざされている”だけだった。
俺たちは、その巨大な扉を見上げる。
誰も、すぐには動かなかった。
まるで。
この先へ進めば、もう戻れない。
そんな予感が、全員の胸にあった。
扉を近くで見ると、その異様さはさらに際立っていた。
継ぎ目がない。蝶番もない。
鍵穴も、取っ手も存在しない。
まるで、“扉”という概念だけを形にしたような存在だった。
ライナスが眉をひそめる。
「……どうやって開けんだ、これ」
「壊します?」
俺が半ば冗談で言うと、ライナスが鼻を鳴らした。
「このデケェ墓標ごと吹っ飛びそうだな」
確かに、こんな得体の知れない建築物に下手な攻撃を加える気にはなれなかった。
俺は恐る恐る扉へ近づく。
その瞬間――。
低い振動が響いた。
「ッ!?」
全員が身構える。
しかし、敵意のようなものは感じない。
巨大な黒扉が、ゆっくりと左右へ開き始めていた。
音は静かだった。
巨大な質量が動いているはずなのに、不思議なほど滑らかで、砂一粒擦れる音すらしない。
まるで最初から、“俺たちが来ることを知っていた”みたいだった。
「……歓迎されてるみたいで逆に気持ち悪いんだけど」
ルミエラが小さく呟く。
誰も返事をしなかった。
俺たちも同じことを思っていたからだ。
――導かれている。
そんな感覚が、ずっと消えない。
鐘の音を聞いたときから。
いや、もしかすると、この墓標を見つけた瞬間から。
俺たちは何かに“選ばれて”いるような気がしていた。
ゆっくりと開き切った扉の奥。
そこに広がっていた光景を見て、俺たちは息を呑んだ。
「……なんだ、ここ」
ライナスが低く呟く。
墓標の内部。
そこは、まるで別世界だった。
黒。
ただ、黒一色。
壁も柱も床も天井も。
果ては階段に至るまで、全てが外壁と同じ漆黒の鉱石で造られていた。
光を吸い込むような黒。
しかし完全な闇ではない。
表面には鈍い光沢があり、どこか水面を思わせる質感をしている。
広大な空間だった。
城の正面広場のようにも見える。
天井は遥か上方にあり、その高さのせいで閉塞感はなかった。
むしろ、“空洞の山”の中に入り込んでしまったような奇妙な感覚がある。
そして。
その黒一色の世界の中で、異様に目立つものがあった。
「……砂?」
広場の隅。
そこだけ、小さな砂山が出来ていた。
黄金色の砂。
外のヴァルサハル大砂丘と同じ砂だ。
だが、ここにある砂は妙に綺麗だった。
黒い空間の中で、きらきらと宝石みたいに光っている。
風もないのに、わずかに揺れているようにも見えた。
「なんで中に砂が……」
ルミエラが不思議そうに近づこうとする。
「触るな」
シノブが即座に止めた。
低い声だった。
シノブは砂山を鋭く睨んでいる。
「……嫌な気配がする」
その言葉に、ルミエラも素直に足を止めた。
俺は広場の奥へ視線を向ける。
巨大な正門を背にして、真正面。
そこには三本の通路が存在していた。
左右。
そして中央。
それぞれが、外から見えた三本の塔へと繋がっているらしい。
塔の内部へ続く入口。
どの通路も同じように黒く、不気味なほど静かだった。
「……地下への道を探すんだったな」
ライナスが周囲を見回しながら言う。
そうだ。
俺たちの目的は観光じゃない。
シノブが以前感知した、“地下の魔力反応”。
あれの正体を確かめるためにここへ来たんだ。
もし本当に、天啓の巫女に関係する存在がいるのなら――。
ここを逃すわけにはいかない。
「分かれて探しましょう」
俺が言う。
「広すぎます。一か所ずつ探ってたら時間が掛かる」
ライナスは頷いた。
シノブも異論はないようだった。
ルミエラだけは少し不安そうに辺りを見回している。
「絶対なんか出るってここ……」
「そのときは倒せばいいでしょう」
「脳筋!?」
「誰がですか」
そんな軽口を叩いている自分に、逆に少し安心した。
黙っていたら、この空間に呑まれそうだったからだ。
俺たちは二手に分かれることにした。
ルミエラとシノブ。
そして、俺とライナス。
「真ん中は後回しだな」
ライナスが中央通路を見ながら言う。
確かに、一番大きく、一番不気味だった。
自然と最後に回したくなる。
「じゃあ俺たちは左を探ります」
「ワタシたちは右だ」
シノブが短く返す。
「何かあったら魔力弾を撃て。場所くらいは分かる」
「了解です」
そこで別れる。
ルミエラが去り際に俺へ顔を寄せ、小声で言った。
「……なんか、嫌な予感するから気をつけてね」
「ルミエラさんも」
そう返すと、ルミエラは少しだけ笑った。
しかし、その笑みもどこか引きつっていた。
全員、感じているんだ。
この墓標の異常さを。
この場所は、生者が来る場所じゃない。
本能がそう告げている。
それでも。
俺たちは進むしかなかった。
ノアを助けるために。
そして――この墓標の真実を知るために。
俺とライナスは、左の塔へ続く通路へ足を踏み入れた。
―――。
足音だけが響く。
黒い通路は真っ直ぐ奥へ伸びていた。
壁には燭台も窓もない。
なのに、不思議と暗くはなかった。
どこからともなく、淡い青白い光が空間全体を照らしている。
「……なぁ」
歩きながら、ライナスがぼそりと呟く。
「さっきの砂山」
「えぇ」
「あれ、生きてるみてぇじゃなかったか?」
俺はすぐには返事ができなかった。
実は、俺も同じことを思っていたからだ。
あの砂は、多分ただの砂じゃない。
あれはまるで――。
“何かの残骸”みたいだった。
そう思った、瞬間だった。
背後から、大地そのものを叩き割るような轟音が響いた。
床が震える。
塔の内部に積もっていた黄金の砂がさらさらと崩れ落ち、黒い床へ流れていく。
俺とライナスは同時に振り返った。
振り返るより先に、背筋を這い上がるような悪寒が全身を貫いていた。
そこに――いた。
黄金の砂を身体から零しながら、一体の巨大な獣が、塔の入口を塞ぐように立っていた。
狐。
そう形容するのが一番近い。
だが、普通の狐ではない。
馬車ほどもある巨体。
全身を覆う毛並みは存在せず、代わりに乾いた砂が獣の輪郭を形作っていた。
身体の至る所から砂が崩れ落ちているにもかかわらず、その形は決して崩壊しない。
眼窩には目玉がない。
あるのは、暗く沈んだ金色の光だけ。
そして何より異様だったのは――尻尾。
三本。
巨大な尾がゆらりと揺れるたび、床に砂が降り積もる。
その姿は、これまで見てきた砂骸獣とは比較にならないほど“完成”されていた。
「……ッ」
ライナスが息を呑む。
俺も杖を握り締めながら、額に冷たい汗が滲むのを感じていた。
強い。
見ただけで分かる。
こいつは今まで遭遇した砂骸獣とは格が違う。
すると、狐型の砂骸獣が、ゆっくりと首を傾けた。
骨が軋むような音。
いや、違う。
砂が擦れ合う音だ。
ザリ……と、耳障りな音が空間に響く。
そして次の瞬間。
狐の口元が、裂けるように開いた。
「――ォォォォォオオオオオオオオッ!!」
咆哮。
塔全体を揺らすほどの咆哮が炸裂した。
衝撃波のように砂が吹き荒れ、俺たちは咄嗟に腕で顔を庇う。
「チッ!!」
ライナスが即座に大剣を抜き放つ。
俺も反射的に魔力を練り上げた。
しかし――。
狐は襲ってこない。
入口に立ったまま、じっとこちらを見下ろしている。
まるで。
――侵入者を、観察しているみたいに。
「……なんだこいつ」
ライナスが低く呟く。
「今までの砂骸獣と様子が違う……」
俺も同意だった。
普通の砂骸獣なら、見つけた瞬間に襲い掛かってくる。
理性も知性もなく、ただ生者を喰らうだけの怪物。
だが、目の前の存在からは、明確な“意思”を感じる。
狐はゆっくりと一歩、こちらへ踏み出した。
ズシン、と床が鳴る。
その瞬間――俺は気付いた。
狐の足元。
床に落ちた黄金の砂。
それが、まるで血のように黒い床へ染み込んでいることに。
いや。
染み込んでいるんじゃない。
黒い床が――砂を“喰っている”。
「カイル!!」
ライナスの叫びと同時だった。
三本尾の狐が、消えた。
「――ッ!?」
速い。
視界から消えたと思った瞬間、真横から砂嵐のような衝撃が叩き込まれる。
咄嗟に結界魔法を展開。
しかし――。
ガラスの割れるような音とともに、障壁が一撃で砕け散った。
「ぐッ!!」
身体が吹き飛ぶ。
黒い柱に背中を強打し、肺の空気が一気に吐き出された。
痛みより先に、恐怖が来る。
(一撃で、俺の結界を?)
「おいおい……冗談だろ」
ライナスが顔を引きつらせる。
狐はいつの間にか、俺たちの背後にいた。
最初からそこにいたかのように。
金色の瞳だけが、静かに俺たちを見下ろしている。
そして。
狐の背後。
塔のさらに奥――。
暗闇の先に、何かが見えた。
階段。
地下へ続く、螺旋階段だ。
シノブが感知した地下の魔力反応。
おそらく、あそこに繋がっている。
だが。
この狐が、それを守っている。
俺はゆっくりと立ち上がり、口元の血を拭った。
ライナスも剣を構え直す。
狐は動かない。
ただ、待っている。
まるで――。
俺たちに、資格があるか試すように。




