718話 死刑宣告
「俺たち……おそらく、その“巫女の墓標”を見たことがあります」
そう告げた瞬間だった。
今まで終始落ち着いていたアルベリオの表情が、初めて大きく揺らいだ。
「――なんだって?」
低い声。
だが、その中には隠しきれない動揺が混じっていた。
次の瞬間、アルベリオは勢いよく立ち上がる。
椅子が後ろへ滑り、白い床を擦る音が響いた。
そしてそのまま、机に両手を叩きつけるように身を乗り出してくる。
「どこで見た!?」
普段の柔らかな笑みはもうない。
青い瞳が鋭く細められ、まるで獣のような圧が俺たちに向けられていた。
「場所は? どんな見た目だった? 近づいたのか?
墓標以外に何か見なかったか?」
怒涛のように言葉が飛んでくる。
あまりの勢いに、俺たちは一瞬言葉を失った。
「お、おい落ち着けって!」
ライナスが若干引きながら言う。
ルミエラも珍しく目を丸くしていた。
「アルベリオさん……?」
俺が戸惑いながら声をかけると、アルベリオは荒く息を吐きながらこちらを見ていた。
その姿は、最強の勇者というより――。
長年探し続けていた何かの痕跡を突然突きつけられた研究者のようだった。
「……まだ、あれが本当に“墓標”だって決まったわけじゃないです」
俺がそう言うと、アルベリオははっとしたように目を見開いた。
そして数秒遅れて、ようやく我に返ったように顔を伏せる。
「……すまない」
小さくそう呟き、アルベリオはゆっくりと椅子へ座り直した。
だが、組まれた手には力が入っている。
平静を装っているだけなのが分かった。
「でも、砂丘にそんな建造物が存在していたなんて……聞いたこともない」
アルベリオは低く呟く。
「まして、黒い塔を持つ巨大建築……」
青い瞳が揺れる。
「もし君たちが見たものが本当に“巫女の墓標”なら、それは――」
そこでアルベリオは拳を握り締めた。
「大発見どころの話じゃない」
空気が張り詰める。
どうやら、この話はそれほど異常らしい。
アルベリオは勢いよく立ち上がる。
「今すぐ確かめに行こう」
「は?」
あまりに突然の言葉に、思わず間抜けな声が漏れた。
「え、今からですか!?」
「ああ!」
アルベリオは迷いなく答える。
「場所を知っている者がいるなら、これ以上ない機会だ!
もし本当に墓標なら――」
だが、そこまで言いかけたところで。
アルベリオの動きが、ぴたりと止まった。
まるで急に現実へ引き戻されたかのように。
「……っ」
アルベリオは片手で額を押さえる。
苦しそうに眉を寄せ、そのまま深く息を吐いた。
「……すまない。僕としたことが」
「……何かあったんですか?」
俺が問うと、アルベリオはすぐには答えなかった。
ただ俯き、何かを考え込んでいる。
白い部屋に沈黙が落ちる。
その間にも、アルベリオの表情は少しずつ曇っていった。
やがて。
彼はゆっくり顔を上げる。
その目には、先ほどまでの興奮とは別の感情が宿っていた。
焦り。
そして、警戒。
「……着いてきてくれ」
低い声だった。
俺たちは顔を見合わせる。
「どこに?」
ルミエラが問う。
アルベリオは短く答えた。
「巫女様のところだ」
その瞬間。
部屋の空気が、また一段階重くなった気がした。
―――。
白一色の空間は、相変わらず現実感がなかった。
壁も、床も、天井も。
どこを見ても白。
まるで世界そのものから色だけを抜き取ったような空間の中央で、神託の巫女は静かに座っていた。
小さな背中。
細い肩。
華奢な身体。
それだけを見れば、ただの少女にしか見えない。
なのに――。
その背を視界に入れているだけで、胸の奥に得体の知れない圧迫感が広がっていく。
巫女の隣では、シオウが壁にもたれ掛かるように立っていた。
俺たちに気付くと、シオウは片眉を上げる。
「早かったな」
低い声だった。
だがその直後、シオウの視線がアルベリオの後ろに並ぶ俺たちへ移る。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
信じられないものを見るような目をした。
特に、俺たちをこの場所へ連れて来たアルベリオを見る目には、呆れと驚愕が混じっていた。
しかし、シオウはすぐに鼻を鳴らす。
「……貴様が良いなら、それでいい」
それ以上は何も言わない。
巫女の傍から離れると、少し遠くで退屈そうに欠伸をし始めた。
だが、俺たちにはシオウを気にする余裕などなかった。
目の前にいる存在。
神託の巫女。
その存在感が、空間すべてを支配していたからだ。
アルベリオが巫女へ歩み寄る。
そして、その場でゆっくり膝を折った。
跪くような姿勢。
最強の勇者と呼ばれる男が、まるで神へ祈る信徒のように頭を垂れている。
アルベリオは巫女の耳元へ口を寄せ、ぼそぼそと何かを囁いた。
内容は聞こえない。
だが、その瞬間だった。
今まで銅像のように微動だにしなかった巫女の肩が、ぴくりと揺れた。
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
巫女は身体を傾け、座ったままこちらへ向き直る。
――その瞬間。
俺は反射的に目を逸らしていた。
シオウの忠告を思い出したからじゃない。
身体が勝手に動いた。
本能だった。
視線を合わせてはいけない。
そう、本能が叫んでいた。
俺は息を乱しながら横を見る。
ライナスも。
ルミエラも。
そしてシノブでさえも。
全員が顔を背けるか、俯いていた。
あのシノブですら、巫女を正面から見ようとしていない。
異常だった。
静寂の中。
巫女が、静かに口を開く。
「巫女の墓標を見たと言うのは、事実ですか?」
甘い声だった。
けれど。
どんな言葉で飾っても、この感覚は説明できない。
慈愛ではない。
優しさでもない。
柔らかさでもない。
母性でもない。
もっと別の――。
人間が本能的に畏れる“何か”。
たった一声。
それだけで、背筋に冷たい汗が流れる。
俺は唇を引き結ぶ。
すると、巫女が首を傾げた気がした。
見たわけじゃない。
空気が動いたわけでもない。
なのに、“分かった”。
そして俺は、自分がまだ返事をしていないことに気付く。
「は……はい」
声が震えた。
自分でも情けないと思うほどに。
「おそらく、墓標を……砂丘で」
巫女は静かに頷く。
「そうですか」
小さな声。
なのに、その一言が空間全体へ染み込んでいく。
「ようやく見つかったのですね」
その言葉に、アルベリオが深く頷いた。
「はい、巫女様。これでようやく、巫女の権能全てを”揃えること”ができます」
――その瞬間だった。
空気が、わずかに変わる。
俺は無意識に息を呑んだ。
権能を揃える。
言葉の意味は分かる。
だが、その言葉の奥には、理解したくない何かがあった。
アルベリオは未だ頭を下げたままだ。
まるで絶対の主へ忠誠を誓う騎士。
最強の勇者。
数多の加護を持つ男。
そんな存在が、ここまで恭しく接する相手。
――神託の巫女。
俺は視線を逸らしたまま、小さく問いかける。
「……権能を、揃える?」
ぴたり、と空気が止まった。
見られた。
そう理解した。
視線は合っていない。
それなのに、氷の指で首筋を撫でられたような感覚が全身を走る。
「はい」
巫女は静かに答えた。
「女神は、世界に役目を与えます」
穏やかな声。
だが、その穏やかさが逆に恐ろしい。
「星を視る者。命を癒す者。未来を告げる者。死を導く者。天を読む者」
淡々と。
まるで今日の天気でも語るように。
「巫女とは、本来一人ではありません。
役割ごとに分かれ、権能を継承し続ける存在です」
アルベリオが続ける。
「ロルロに伝わる古い文献にも記されている。
巫女の力は、一つに集約されたとき――“完全な神託”となる、と」
ルミエラが顔をしかめた。
「なんか……嫌な言い方だね」
その一言で。
空気が、軋んだ。
アルベリオの身体が、ゆっくりとルミエラへ向けられる。
視線だけで肌が粟立つ。
しかし、その時だった。
「フフッ」
鈴を転がすような、小さな笑い声が響く。
「そうかもしれませんね」
巫女だった。
その一言だけで、張り詰めていた空気がふっと緩む。
そして巫女は、静かに立ち上がった。
衣擦れの音。
それすら妙に鮮明に耳へ残る。
ふわり、と。
嗅いだことのない香りが漂った。
花のようで、けれど花ではない。
甘いのに冷たく。
懐かしいのに、不安になる香り。
巫女はゆっくりと言葉を続ける。
「権能の集約」
静かな声。
なのに、耳元で直接囁かれているように響く。
「言い方を変えれば――」
一拍。
「巫女一人が、すべての権能を奪うということです」
巫女の言葉が落ちた瞬間――。
部屋の空気が、また静かに変質した。
白い壁も、白い床も、白い天井も。
何一つ変わっていないはずなのに、空間そのものが深い海の底へ沈んでいくような圧迫感を帯び始める。
俺は知らず知らずのうちに息を止めていた。
巫女はゆっくりと続ける。
「神の権能を完全に一つにする行為――“完全な神託”とは、本来この世界にあるべき形ではありません」
その声は穏やかだった。
静かで、柔らかくて、耳障りすら良い。
だが、その一言一言が、心の奥へ針のように沈んでいく。
「本来、権能は分かたれているべきなのです。
……それぞれが独立し、互いを侵さぬよう定められている」
巫女は白い空間の中央に立ったまま、小さく指先を重ねた。
「一つに集約されれば、世界の均衡は崩れます。
女神様が定めた循環そのものが歪む」
そこで。
巫女は、ほんの少しだけ言葉を止めた。
「……しかし」
ぞわり、と。
空気が冷えた気がした。
「それすら厭わない危機が、迫っています」
その瞬間。
今まで黙っていたシノブが、低く呟く。
「……危機、だと?」
震えていた。
だが、それは恐怖だけではない。
刃を抜く直前のような、張り詰めた警戒。
シノブは俯いたまま、巫女へ視線を向けない。
だが、全身の神経が研ぎ澄まされているのが分かった。
巫女は静かに頷く。
「はい」
短い返答。
なのに、その一音だけで胸の奥が重く沈む。
「神ですら手を出せない危機」
巫女の声が、白い空間へ染み込んでいく。
「この世界全てを、闇で覆い尽くしてしまうほどの危機」
俺は無意識に拳を握っていた。
魔王か?
新たな厄災か?
あるいは、世界そのものが崩壊するような天変地異か?
そんな予想を浮かべた瞬間――。
巫女は、それら全てを否定するように首を横へ振った。
「それは、厄災ではありません」
静かに。
「天変地異でもない」
淡々と。
「魔王ですらありません」
その言葉を聞いた瞬間。
ライナスが眉をひそめたのが分かった。
ルミエラも、息を呑んでいる。
俺自身、理解が追い付かなかった。
(魔王ですらない?)
なら、一体何がそこまで危険だと言うんだ。
すると巫女は、まるで俺たちの疑問を見透かしたように告げた。
「――それらすら可愛く見えてしまうほどの、真っ黒な“意思”」
意思。
その単語に、俺の背筋が冷える。
災害じゃない。
偶然でもない。
誰かが、何かをしようとしている。
そんな生々しい悪意を感じた。
巫女はゆっくりと言葉を落とす。
「外ならぬ――“神自身”なのです」
その瞬間。
世界から音が消えた気がした。
理解を、脳が拒絶する。
(神? 今、この巫女は神と言ったのか?)
ルミエラが掠れた声を漏らす。
「……は?」
ライナスも俯いたまま固まっていた。
シノブですら、わずかに息を乱している。
俺は声を出すことすらできなかった。
神。
この世界で最も絶対的な存在。
人々が祈り。
巫女が力を授かり。
世界を見守っているとされる存在。
その神が――この世界の闇?
いや。
違う。
巫女は、こう言った。
“神自身”が危機だと。
アルベリオは何も言わなかった。
否定もしない。驚きもしない。
ただ静かに目を伏せ、当然のことのようにその場に立っている。
つまり。
アルベリオは、最初から知っていた。
最強の勇者が。
この世界を救ってきた男が。
神を敵として認識している。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
やがて。
巫女は、静かに微笑む。
「だから、巫女は一つにならなければならないのです」
その笑みは美しかった。
だが。
俺にはどうしても――。
死刑宣告を告げる者の笑みにしか見えなかった。




