717話 ギスギスギスギス
「君が来ることは分かっていたよ」
柔らかな声だった。
だが、その一言を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
白い空間の中央。
神託の巫女の傍らに立つ男――アルベリオ・セリオンは、三年前と変わらない微笑を浮かべながら、真っ直ぐこちらを見ていた。
最強の勇者。
数多の加護をその身に宿す、規格外の存在。
アルベリオには掴みどころがなかった。
笑っている。
穏やかに。
優しげに。
なのに、まるで自分の内側を最初から最後まで覗き込まれているような感覚が消えない。
俺たちがここへ来ることを知っていたのも、おそらくは加護の力なのだろう。
「……」
アルベリオは静かに振り返ると、隣に座る巫女へ何かを小声で伝えた。
巫女は顔を伏せたまま、小さく頷く。
金糸のような髪がさらりと揺れた。
その瞬間、俺は反射的に視線を逸らした。
シオウの忠告。
”――絶対に巫女と目を合わせるな”。
理由は分からない。
だが、今この空間に入ってからずっと、妙な圧迫感が胸に張り付いていた。
空気が重い。
魔力が濃い。
それだけじゃない。
この部屋そのものが、“普通ではない”。
白い壁。
白い床。
白い天井。
どこまでも無機質で、神聖というよりは、世界から切り離された隔離空間のようだった。
アルベリオはそんな異様な空間を当たり前のように歩き、こちらへ近づいてくる。
コツ、コツ、と靴音だけが静かに響いた。
「それで……ここに俺を呼んだ理由を教えろ」
先に口を開いたのはシオウだった。
腰に手を当て、呆れ半分の声を漏らす。
「急用なのだろう?」
「あぁ」
アルベリオは笑みを崩さないまま頷いた。
「シオウには、いつも通り“僕の代わり”を務めてもらいたいんだ」
「……またか」
シオウは深くため息を吐いた。
心底うんざりした顔だった。
「急用というのも貴様の嘘だな」
「別に嘘じゃないさ」
アルベリオはさらりと言う。
「君を急がせないと、カイル君たちが”ここまで辿り着けなかった”。それだけだよ」
「フン……加護の力か」
シオウは鼻を鳴らす。
怒っているようにも見えるが、慣れているのだろう。
本気で反発している様子はなかった。
むしろ、“いつものこと”として受け流しているように見えた。
シオウはそのままアルベリオの横を通り過ぎる。
そして、そのまま巫女の隣へ立つ。
まるで護衛のように。
いや、実際そうなのだろう。
腕を組みながら、シオウは俺たちを振り返った。
その横顔には、僅かな緊張が見える。
巫女の傍にいる時だけ、シオウの空気が変わる。
それが妙に気になった。
アルベリオは静かな足取りで俺たちの前まで来る。
近づけば近づくほど、この男の異質さが分かった。
隙がない。
強者特有の圧迫感。
それでいて威圧ではなく、自然体でそこに立っている。
まるで呼吸をするように強い。
「アルベリオ……」
ライナスが低く呟く。
アルベリオは微笑を浮かべたまま頷いた。
「久しぶりだね、ライナス」
「…………」
ライナスは何も返さない。
だが、その視線には少しの警戒が滲んでいた。
アルベリオはそんな反応すら気にした様子もなく、穏やかに口を開く。
「君たちがここへ来た理由は知っている」
その瞬間。
空気が少しだけ張り詰めた。
俺たちがここへ来た理由が、全部見透かされている。
アルベリオはそんな俺たちを見回し、小さく笑った。
「こんな場所で立ち話もなんだ。移動しようか」
そう言って、アルベリオは白い空間の奥へ歩き始めた。
その背中を見ながら、俺は小さく息を呑む。
ようやく。
ようやく、ここまで辿り着いた。
ノアを救うための答えに、少しでも近づけるかもしれない。
そんな期待と。
この場所に踏み込んではいけなかったのではないかという、不気味な予感。
その両方を胸に抱えながら――俺たちはアルベリオの後を追った。
アルベリオに案内され、俺たちが連れて来られたのは、大聖堂内部の一室だった。
白い通路をいくつも抜けた先。
重厚な扉の向こうにあったそこは、一見すれば客間のように見える。
長机、柔らかな布張りの椅子。
壁際には本棚まで置かれている。
窓には白い薄布が垂れ、外から差し込む光が静かに部屋を照らしていた。
だが――。
「……」
部屋に入った瞬間、俺は眉を寄せた。
反射的に魔力感知を発動する。
すると、見えた。
床。
壁。
天井。
部屋全体に、無数の魔法術式が刻み込まれている。
それも一つや二つではない。
感知系統の術式。結界魔法。拘束魔法。
侵入対策。幻惑防止。空間固定。
さらには、強制封印系統と思われる高位術式まで混じっている。
まるで――。
危険人物を閉じ込めておくための牢獄だった。
「……へぇ」
隣でルミエラが小さく声を漏らす。
その目は笑っていない。
シノブも同じだった。
部屋へ入った瞬間から気配が鋭くなっている。
黒布の奥の瞳が、静かに周囲を観察していた。
「あんたさぁ……」
ルミエラが机に指を滑らせながら、アルベリオを見る。
「あたしたちを危険人物扱い?」
軽い口調。
だが、その奥には警戒があった。
アルベリオは困ったように頬を掻く。
「あー……すまない」
苦笑混じりの声だった。
「この大聖堂には、客人を通す部屋というものが存在しなくてね」
アルベリオは周囲を見回す。
「気になるのであれば、場所を移してもいい」
「……」
俺は振り返り、仲間たちを見る。
ライナスは腕を組んだまま壁に寄り掛かっている。
多少警戒はしているが、そこまで気にしてはいないようだった。
ルミエラも肩を竦めた。
「まぁ、いきなり爆発したりしないならいいけど」
「しないよ」
「ほんとぉ?」
「多分ね」
「多分!?」
ルミエラが半目になる。
だが、少なくとも二人は納得したようだった。
問題は――。
「シノブさんは……」
俺が声を掛けると、シノブは視線だけこちらへ向けた。
「あぁ。問題ない」
短い返答。
だが、全身の緊張は解けていない。
今にも暗器を抜けるような空気だった。
アルベリオはそんなシノブを見つめる。
「……見ない顔だね」
柔らかな声。
だが、その目は笑っていなかった。
観察している。
探っている。
そんな視線だった。
シノブは壁際に立ったまま答える。
「訳あって同行しているだけだ」
「へぇ……」
アルベリオの目が細くなる。
その瞬間だった。
バチリ――と、短い電流音が部屋に走った。
「っ……!?」
俺は反射的に目を見開く。
アルベリオの目の前。
空間に青白い火花が散っていた。
まるで見えない壁に触れたかのように。
アルベリオは少し驚いたように瞬きをしたあと、ふっと笑う。
「すごいね君」
感心したような声だった。
「僕の加護を跳ね返すなんて」
その言葉に、俺たちは一斉にシノブを見る。
シノブは微動だにしていなかった。
ただ、じっとアルベリオを睨んでいる。
空気が冷える。
「貴様……」
シノブの声は低かった。
「ワタシの思考を盗み見ようなどと、気色の悪い真似を」
そう言いながら、懐へ手を伸ばす。
「待って待って待って!!」
俺は慌ててシノブの腕を掴んだ。
「落ち着いてください! ここでやり合う気ですか!?」
「離せ」
「離したら絶対投げるでしょ、その武器!!」
シノブの指先は既に短剣を掴んでいる。
怖い。
普通に怖い。
アルベリオはそんな俺たちを見て、苦笑した。
「すまない。本当に確かめたかっただけなんだ」
「確かめるだと?」
シノブが問うと、アルベリオは静かに頷いた。
「君が信用に値する存在かどうかをね」
その言葉に、シノブの目がさらに細くなる。
アルベリオは続けた。
「ここは神託の巫女様が住まう大聖堂だ」
声色が少しだけ真剣になる。
「そして君は、結界魔法で思考を隠していた」
「……」
「カイル君たちと行動していたとはいえ、君が巫女様を狙う賊ではない保証はなかったからね」
その言葉に、部屋の空気が重くなる。
シノブは黙っていた。
だが、懐から手を離さない。
アルベリオもまた、笑みを崩さないままシノブを見ている。
二人の間に、見えない火花が散っていた。
「……やめてくださいって」
俺は頭を抱えそうになりながら呟く。
ルミエラはそんな様子を見て、小さく肩を竦めた。
「なんかもう、胃が痛くなってきたんだけど」
「安心しろ。俺もだ」
ライナスが即答する。
そんな空気の中。
アルベリオは静かに椅子へ腰掛けた。
「さて」
微笑を浮かべたまま、俺たちを見る。
「君たちがここへ来た理由を聞こうか」
その言葉を合図にするように。
俺たちは一旦落ち着いて、ここへ至るまでの全てを話し始めた。
ノアのこと。
エルドリックが言っていた、魔熱病の真実。
そして――。
”天啓の巫女を探せ”。
あの、最期の言葉を。
―――。
俺たちの話を最後まで聞き終えたアルベリオは、静かに目を閉じた。
白い部屋の中に、わずかな沈黙が落ちる。
外界から切り離されたようなこの空間では、呼吸の音すら妙に鮮明に聞こえた。
アルベリオは椅子に腰掛けると、組んだ指に額を当て、小さく息を吐く。
「……なるほど」
低く落ち着いた声だった。
「まず整理しようか」
そう言って、アルベリオは一つずつ確認するように言葉を並べていく。
「ノア君の容態は、以前ルミエラたちに伝えた時と変わっていない。
依然として眠ったまま。そして、“魔熱病”による症状も回復していない」
俺は静かに頷いた。
ノアの姿が容易に想像できた。
「そして、エルドリックと言う男が残した言葉」
アルベリオは続ける。
「魔熱病の患者は何かに”呼ばれている”――だったね」
「はい」
俺が答えると、アルベリオは少しだけ難しい顔をした。
「正直に言えば、その言葉については今の段階では何とも言えない。
検証材料が少なすぎる。僕から具体的な助言をするのは難しいかな」
そう言って、アルベリオは肩を竦める。
「ただ……」
そこで一度言葉を切り、俺たちを見る。
「君たちが持ってきた情報は、どれも無視できないものばかりだ」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ張り詰めた。
アルベリオほどの勇者がそう断言するなら、それだけの意味がある。
そして――。
アルベリオは、ゆっくりと次の話題へ移った。
「問題は、『天啓の巫女』についてだ」
その言葉に、俺は思わず身を乗り出す。
「知ってるんですか!?」
アルベリオは苦笑しながら首を横に振った。
「いや、正確には“似た名前”を知っている、かな」
「似た名前……?」
「ああ」
アルベリオは椅子にもたれながら、遠い記憶を掘り起こすように目を細めた。
「この国に残されている、かなり古い文献の内容なんだけど――」
静かな声が、白い部屋に響く。
「その名を、『星詠みの巫女』と言うらしい」
星詠み。
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏にエルドリックの言葉が蘇った。
天啓と星詠み。
まるで、離れていたものが少しずつ繋がっていくようだった。
アルベリオは続ける。
「“天啓”という言葉から考えるなら、その巫女も星や天に関連する権能を持っていた可能性が高い」
そう言いながら、アルベリオは指先で机を軽く叩く。
「文献によると、星詠みの巫女は星と天を司る権能を、女神から授かった存在だったらしい」
「星と天を司る力……」
ルミエラが小さく呟く。
普段なら茶化しそうな彼女も、今は真面目な顔をしていた。
「おそらく――」
アルベリオは静かに言う。
「君たちが探している天啓の巫女は、その星詠みの権能を受け継いだ“後任者”と見るべきだろう」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
手掛かりだ。
ようやく掴めた。
治癒の巫女ではない。
天啓の巫女。
その存在へ、初めて繋がる道筋だった。
ライナスが腕を組みながら口を開く。
「その言い方だと、星詠みの巫女ってのはもう死んでんだな?」
アルベリオは静かに頷いた。
「あぁ。文献では、数十年前に亡くなったとされている」
「死因は?」
「不明だ」
即答だった。
しかし、その返答にはどこか引っかかるものがあった。
アルベリオ自身も、完全には納得していないような。
「だが――」
アルベリオはそこで言葉を切る。
青い瞳が、真っ直ぐこちらを見据えた。
「遺体は、今も“ある場所”に保管されている」
その瞬間。
部屋の空気が、さらに重くなった気がした。
「……保管?」
俺が思わず聞き返すと、アルベリオは静かに頷く。
「あぁ。“巫女の墓標”だ」
その名を口にした瞬間。
なぜか、背筋に冷たいものが走った。
「巫女の墓標は――ヴァルサハル大砂丘のどこかに存在していると言われている」
アルベリオは静かな声でそう告げた。
白い部屋の空気が、さらに冷えていく。
まるで今この瞬間だけ、この空間そのものが“神話”に触れているかのようだった。
アルベリオは続ける。
「そこは、黎明の世が始まって以降、『巫女』と呼ばれてきた存在たちが、死の果てに辿り着く場所だ」
その言葉を聞きながら、俺は無意識に息を呑んでいた。
巫女。
神託の巫女。
治癒の巫女。
天啓の巫女。
この世界には、今も数多くの巫女が存在している。
だが、その全員が最後に向かう場所があるなんて、考えたこともなかった。
アルベリオは、どこか遠くを見るような目で話し続ける。
「文献によれば、“巫女の墓標”は巫女たちの魂の残滓によって維持されているらしい」
「魂の……残滓?」
ルミエラが眉をひそめる。
「ああ。墓標は、建てられた当時の姿を永遠に保ち続ける。
風化も、劣化も、崩壊も存在しない」
アルベリオは淡々と言った。
「巫女が生まれ、そして死んでいく。
その循環が続く限り、墓標は決して廃れることはない――そう記されていた」
その瞬間。
俺の脳裏に、ある光景が蘇った。
吹き荒れる砂嵐。
砂丘の中で突如現れた、巨大な漆黒の建築物。
黒い金属のような壁。
傷一つない外壁。
風砂に晒され続けているはずなのに、劣化の欠片すら見当たらなかった異様な建造物。
そして――。
地下から感じた、“弱った魔力反応”。
ぞわり、と背筋を悪寒が走る。
俺だけじゃない。
ルミエラも、ライナスも、シノブも。
全員が同じものを思い出したのだろう。
部屋の空気が、わずかに変わった。
「……あの」
気づけば、俺は口を開いていた。
アルベリオが視線を向ける。
「その“巫女の墓標”って……城みたいな見た目をしてるんですか?」
アルベリオは少しだけ目を見開いた。
「城?」
「黒い城です。塔が三つあって……まるで墓みたいな」
俺が言うと、アルベリオは静かに首を横に振った。
「……分からない」
「え?」
「誰も、“巫女の墓標”を実際に見たことがないんだ」
その返答に、今度はこちらが目を見開く番だった。
「見たことがない……?」
「ああ」
アルベリオは頷く。
「正確な位置も不明。外観も不明。内部構造も不明。
存在だけが伝承として残っている状態だ」
静かな声だった。
だが、その内容はあまりにも異常だった。
「墓標を探そうとした者は過去に何人もいる。
だが、誰一人として発見できていない」
アルベリオの青い瞳が細められる。
「だから、“巫女の墓標”は半ば噂扱いされているんだ」
俺は、ルミエラたちと顔を見合わせた。
ルミエラは真剣な顔をしている。
ライナスは腕を組みながら眉をひそめていた。
シノブだけは、最初から分かっていたような顔で静かに目を閉じている。
そして。
全員が、ゆっくりと頷いた。
アルベリオが、その反応に気付く。
「……カイル君、まさか」
小さく呟く声。
俺はゆっくりとアルベリオを見る。
喉が、妙に乾いていた。
「俺たち……おそらく、その“巫女の墓標”を見たことがあります」
その瞬間。
アルベリオの表情から、初めて“余裕”が消えた。




