閑話 溶けゆく感情
時は、一行がまだヴァルサハル大砂丘を歩いている時にまで遡る。
世界そのものから見放されたような、死の砂海。
昼は焼けるような熱が皮膚を裂き、夜は骨の芯まで凍えさせる冷気が襲う。
吹き荒れる砂嵐は絶え間なく視界を奪い、歩くだけで体力も水分も削られていく。
そんな地獄を、シノブは無言で歩いていた。
顔を覆う黒布の内側では、乾いた吐息が熱を帯びている。
靴の中に入り込んだ砂が、歩くたびに皮膚を擦った。
だが、それを気にする様子はない。
シノブにとって、この程度の環境は“経験済み”だった。
もっと劣悪な場所も。
もっと理不尽な任務も。
もっと死に近い夜も。
彼女は知っている。
忍とは、そういうものだ。
――影の一族。
それは、黎明の世が始まって間もない頃、密かに存在した忍の一族の一つ。
王を守る護衛。
国家に仇なす者を消す暗殺者。
あるいは、“存在しなかったこと”にされる汚れ仕事を請け負う者たち。
表に名を残さず。
感謝もされず。
ただ生き延びるためだけに技を磨き、血を継ぎ、影に徹してきた。
その血が、シノブにも流れている。
だからこそ、彼女は知っていた。
――生き残る者は、情を捨てた者だけだ。
仲間意識。
友情。
信頼。
そんなものは、死地では足枷にしかならない。
誰かを守ろうとした瞬間、人は遅れる。
躊躇した瞬間、死ぬ。
だから忍は切り捨てる。
任務のため。
生存のため。
必要ならば仲間ですら。
それが、シノブの忍道だった。
いや――。
それしか、生き方を知らなかっただけなのかもしれない。
だから本来なら。
馬車を失った時点で、彼女は三人を切り捨てていたはずだった。
ライナスは強い。
だが、正面戦闘特化。
砂丘のような極地では燃費が悪い。
ルミエラは魔法使いとして優秀だが、体力がない。
カイルは冷静だが、他人を優先しすぎる。
全員、“重い”。
忍としての合理性だけで考えるなら、足手まといだった。
シノブ一人ならば、もっと速く移動できた。
水の消費も抑えられる。
魔獣との遭遇率も減る。
生還率は確実に上がる。
ならば切り捨てるべきだ。
そう判断して当然だった。
――なのに。
シノブは、未だ彼らの後ろを歩いている。
「…………」
砂嵐の向こう。
前を歩くカイルの背中を見る。
顔には疲労が浮かんでいる。
唇も乾いている。
それでも彼は、一度も足を止めなかった。
友を救う。
その目的だけで、歩き続けている。
愚かだ、とシノブは思う。
たった一人の友を救うために、自分の命を危険に晒し続けるなど。
忍なら絶対にしない。
切り捨てるべきものだ。
優先順位を間違えている。
なのに――。
なぜか、その背中から目を逸らせなかった。
「シノブさーん!」
前方から、間延びした声が飛ぶ。
顔を上げると、カイルが布越しに手を振っていた。
「そんな後ろいたら迷子になりますよ?」
「……ならん」
「そうですか?」
カイルは微笑む。
こんな地獄みたいな場所で、よく笑えるものだと、シノブはため息を吐く。
シノブには理解できない。
疲弊しているはずなのに。
死の危険が常に隣にあるのに。
どうして彼らは、こんなにも空気が軽いのか。
「おい」
今度はライナスが振り返った。
「水、まだ残ってるか?」
「問題ない」
「ならいい」
それだけ言って前を向く。
監視でも、疑いでもない。
本当に確認しただけだった。
それが逆に、シノブには妙だった。
忍の里では違う。
仲間が弱れば切る。
遅れれば置いていく。
誰かを気遣う余裕など存在しない。
だが彼らは違う。
誰かが遅れれば待つ。
疲れていれば声を掛ける。
自然に。
当たり前のように。
「……馬鹿な連中だ」
小さく呟く。
その声は、砂嵐に掻き消えた。
だが。
その“馬鹿さ”が、少しだけ眩しく見えた。
ふと。
脳裏に、昔の記憶が過る。
『どんな時も助け合え』
父の声だった。
『影の一族は“繋がり”を重んじる』
厳格な男だった。
感情を見せない父だった。
だが、最期に残したその言葉だけは、不思議と今でも耳に残っている。
『一人では、生きられない』
「…………」
シノブは無意識に目を伏せた。
理解できない言葉だった。
一人で生きるために、忍は強くなる。
一人で死なないために、技を磨く。
それが忍だ。
そう教えられてきた。
なのに。
父は最後に、“繋がり”を口にした。
その意味が、ずっと分からなかった。
だが今。
ほんの少しだけ。
その意味を考えてしまっている自分がいた。
「シノブちゃーん!」
また、ルミエラの声だ。
「ぼーっとしてると砂食べるよー!」
「……貴様はもう少し緊張感を持て」
「あるよぉ? ほら!」
そう言ってルミエラは、砂まみれの顔で笑った。
アホらしい。
本当に。
こんな連中、とっくに見捨てているはずだったのに。
シノブは小さく息を吐く。
そして。
また、前を歩く三人の後ろを追った。
少しだけ暖かくなった、感情を抱きながら――。
砂丘踏破中、シノブがちょっと空気だったなと思って追加しました!




