711話 ヴァルサハル大砂丘
車輪が乾いた音を立て、街道を転がっていく。
ガタゴト、と規則的に揺れる振動が、座席越しにじわりと伝わってきた。
朝の冷気はすでに和らぎ、昼へと向かう陽光が大地をじりじりと温め始めている。
俺たちは今、ノワラを離れ、ロルロ王国へと続く長い道のりを進んでいた。
手綱を握っているのは俺とライナスだ。
二頭立ての馬が、息を合わせるように駆けている。
蹄が土を蹴るたび、細かな砂埃が舞い上がり、後方へと流れていく。
「速度はこんなもんでいいか?」
ライナスがちらりとこちらを見る。
「はい、大丈夫です。あまり飛ばしすぎても馬が持ちませんし」
「だな」
短く答え、ライナスは手綱を軽く引いた。
馬たちの速度がわずかに落ち、安定した巡航へと移る。
御者台の前方には、どこまでも続く道。
その先にあるのは――ロルロ王国。
後方では、ルミエラとシノブが周囲の警戒に当たっていた。
幌の中から、時折ルミエラの軽い鼻歌が聞こえてくる。
そのすぐ後に、シノブの呆れたようなため息が混じるのも、もはやお約束だった。
「ねぇシノブちゃん、もうちょっと明るくなれないの?」
「ならん。無駄な音は敵を呼ぶ。
それと”ちゃん”を付けるな気持ち悪い」
「鼻歌くらいで来る敵なら、むしろ来てほしいねぇ」
「来たら貴様が全部始末しろ」
「やだ面倒くさい」
「なら黙っていろ」
……なんだかんだで、うまくやっているらしい。
俺は小さく苦笑しながら、前方へ視線を戻した。
街道は次第に乾いた土へと変わり、周囲の緑も少しずつ減ってきている。
遠くの地平線には、うっすらと霞んだ熱気の揺らぎが見え始めていた。
この先にあるのは、砂漠の国――ダール王国。
そしてそのさらに奥。
俺たちの目的地、ロルロ王国が存在する。
「ロルロ、か……」
ぽつりと、ライナスが呟いた。
「どんな国なんですか?」
俺が尋ねると、ライナスは少しだけ考えるように視線を細めた。
「表向きは、普通の王国だな。
王がいて、貴族がいて、国民がいる。どこにでもある形だ」
「表向きは、ですか」
「ああ」
ライナスは肩をすくめる。
「だが実際は、“神の国”なんて呼ばれてる」
その言葉に、俺はわずかに息を飲んだ。
ロルロ王国。
それは、神を崇拝する国家。
信仰が国の根幹にある、特異な場所だ。
「王国の皮を被った神聖国家、ってやつだな」
「……」
「まぁ、どこまで本当かは分からねぇがな」
そう言いながらも、ライナスの声にはわずかな警戒が滲んでいた。
公に知られている情報はある。
この国を治めているのは――。
ドラグノス・カイゼル・ロルロ。
ロルロ王国の国王とされる人物だ。
だが、それとは別に。
もう一つ、よく囁かれている噂がある。
「……神託の巫女」
思わず、口に出ていた。
ライナスがちらりとこちらを見る。
「知ってるのか?」
「名前だけは……アルベリオさんから聞きました」
頷きながら、記憶を辿る。
アルテイア・フィン・ルクレール。
神託の巫女と呼ばれる存在。
ロルロ王国において重要な人物で、あのアルベリオだけが護衛を許されている人らしい。
「実権を握ってるのは、王じゃなくてその巫女だって話もある」
ライナスが続ける。
「……本当なんですか?」
「さぁな」
あっさりと返された。
「ただ、ああいう国はな。表に出てる情報ほど当てにならねぇ」
確かに、と思う。
神を崇める国。
その中心にいる“巫女”。
そして、神託。
どれも、普通じゃない。
――そんな場所に、“天啓の巫女”の手がかりがあるかもしれない。
そう考えると、妙に繋がっている気もした。
「……アルベリオさんなら、きっと何か知ってるはずです」
小さく呟く。
あの男なら。
あらゆる異質に触れてきた、最強の勇者なら。
この不可解な状況に、答えをくれるかもしれない。
ノアを救うための、確かな道筋を。
そのとき、後方からシノブの声が飛んできた。
「カイル」
「はい?」
「右手の林。魔獣が三」
即座の報告。
俺は手綱を引き、馬の進路をわずかに調整する。
同時に、ライナスが背中の剣に手をかけた。
「やっていいか?」
「もちろんです」
短く答える。
俺は手綱を握りながら、ちらりと林の方を見る。
すると、林の奥から飛び出してきた三体の小型魔獣を、ライナスはたった数秒で叩き伏せた。
剣を一振り。
それだけだった。
振るわれた瞬間、空気が裂けたような音が響き、魔獣の身体がまとめて吹き飛んだ。
地面を転がる間もなく絶命したそれらを見て、俺は改めて思った。
やっぱりライナスは強い。
単純な膂力も、技術も、経験も。
全部が人間離れしている。
すると、後方から感心したような声が聞こえた。
「……貴様の兄は化け物か?」
シノブだった。
馬車の後ろ側に腰掛け、いつでも暗器を投げられるよう警戒を続けている彼女は、呆れ半分の表情でライナスを見ていた。
俺は思わず笑う。
「化け物じゃありません、誇らしい兄です!」
「褒めているつもりなのだがな……」
シノブが肩を竦める。
ライナスは鼻を鳴らした。
「聞こえてんぞ」
「聞こえるように言った」
「おっかねぇ女だなぁオイ」
そう言いながらも、ライナスはどこか楽しそうだった。
ルミエラがそんな空気を眺めながら、馬車の荷台でごろりと寝転がる。
「いいねぇ。兄弟仲良しって感じで」
その言葉に、シノブがふっと視線を逸らした。
「……兄弟と良い関係を築けているのは、少し羨ましくもあるな」
その声音は、いつもの棘が少しだけ薄かった。
俺は何も言わなかった。
だが、ルミエラは違った。
空気を読むという概念をどこかへ置いてきた魔女は、興味津々と言わんばかりに身を起こす。
「そう言えばシノブちゃんの兄ちゃんってカゲロウなんだってね?」
嫌な予感がした。
俺は慌てて口を挟もうとする。
「ル、ルミエラさん――」
「なに? カゲロウと何かあったん?」
ぶっこんだ。
真正面からぶっこんだ。
俺は頭を抱えそうになる。
しかし。
意外にも、シノブは怒らなかった。
少しだけ沈黙したあと、彼女は静かに口を開く。
「……実はな」
風が吹いた。
黒髪が揺れる。
「兄とは、忍として独立する前に喧嘩別れしてからそれっきりなのだ」
俺は思わずシノブを見る。
彼女が自分から過去を話すなんて、珍しかった。
「エルドリックに奪われた影の巻物を取り返す――。
その目的だけは一致していた。だから情報共有だけはしていたが、顔は合わせていない」
「あー文通みたいな感じ?」
ルミエラが聞く。
「あぁ。必要最低限の連絡だけだ」
シノブは膝に肘を置き、遠くを見つめた。
「兄妹の絆……などと、あまり考えたことはない」
その声は、どこか乾いていた。
感情を押し殺しているようにも聞こえる。
「だが、父が最期にワタシたちへ言った言葉だけは、妙に頭に残っていてな」
シノブは小さく息を吐いた。
「影の一族は、“繋がり”を重んじる家系だと言っていた」
馬車の揺れが、静かに続く。
「どんなときも助け合い、協力して生きていくんだ――と」
その言葉を口にした瞬間だけ。
シノブの表情が、ほんの少しだけ柔らかく見えた。
でも、それも一瞬だった。
彼女はすぐにいつもの無愛想な顔へ戻る。
「まぁ、ワタシには向いていない生き方だがな」
そう言って鼻を鳴らした。
ライナスが苦笑する。
「素直じゃねぇな」
「貴様ほどではない」
「はいはい。こんな妹を持つアイツが大変だぜ」
「黙れ筋肉ダルマが」
二人のやり取りに、ルミエラがけらけらと笑う。
その笑い声を聞きながら、俺は少しだけ空を見上げた。
青空の向こう。
まだ見ぬロルロ王国。
そして――天啓の巫女。
ノアを救うための旅は、まだ始まったばかりだった。
―――。
灼けるような陽光が、容赦なく砂漠を照りつけていた。
視界の果てまで広がる黄金色の大地。
吹き上がる熱風が砂を巻き上げ、空気そのものを歪ませる。
砂漠の道なき道を進み始めてから、一週間。
俺たちはすでにダール王国の王都を通り過ぎ、さらに東へと進んでいた。
昼は肌が焼けるほど熱く、夜は骨まで冷える。
そんな極端な環境にも、ようやく身体が慣れ始めていた。
馬車の車輪が砂に沈み込み、ぎしり、と軋む音を立てる。
前方ではライナスが地図を片手に進路を確認していた。
「このまま行けば、あと数日で国境だな」
乾いた声が風に流れる。
俺は手綱を握りながら頷いた。
「ロルロ王国……」
その名を口にするだけで、どこか空気が張り詰める気がした。
神を崇拝する国。
王国の皮を被った神聖国家。
そして、『神託の巫女』を抱える国。
だが――。
問題は、その前に存在している。
俺は遠くの地平線を見つめながら、小さく息を吐いた。
「問題は、ヴァルサハル大砂丘ですね……」
その言葉に、後方にいたシノブが目を細める。
「あぁ。“挑戦者要らずの砂丘”だったか」
嫌な異名だ。
だが、それに相応しい場所でもある。
ヴァルサハル大砂丘。
ロルロ王国手前に広がる、巨大な砂の海。
特殊な魔力粒子によって、大砂丘全土では昼夜問わず砂嵐が吹き荒れている。
視界は狂い、方向感覚は奪われ、魔力感知さえ乱される。
そして何より恐ろしいのは――。
「まるで大地そのものが、侵入者を拒絶するように動く……だったけ?」
ルミエラが荷台の上で寝転がりながら呟いた。
「ええ」
俺は頷く。
「“黎明期以前”の遺跡や、大昔の国家の残骸が埋まってるって話は有名です。
だから砂丘攻略や財宝狙いの挑戦者たちが毎年入っていく。でも……」
「ほとんど帰って来ねぇ」
ライナスが言葉を継いだ。
風が吹く。
砂が馬車の側面を叩いた。
俺は静かに続ける。
「普通にロルロ王国へ向かうだけなら、砂嵐と魔獣に気を付ければ何とかなるらしいです。でも……」
そこで言葉が止まる。
胸の奥に、妙な不安が広がっていた。
「巫女探しが、“あの砂丘”にどう判断されるか分からない」
空気が少しだけ重くなった。
シノブが腕を組む。
「意思を持つ大地、か。俄かには信じ難い話だな」
「でも、実際にそう言われてもおかしくないくらいなんだよねぇ」
ルミエラが空を見上げる。
「欲をかいて遺跡に踏み込んだ途端、砂嵐が強くなったり、地形が変わったり。まるで生き物みたいに」
「笑えねぇな」
ライナスが眉をひそめた。
俺も同感だった。
もし本当に大砂丘が“意思”を持っているなら。
俺たちの旅は、ただの通過では終わらないかもしれない。
ここ最近、俺たちが触れているものは、どれも常識の外側にあるものばかりだ。
もしかすると。
俺たちは知らないうちに、世界そのものへ足を踏み入れ始めているのかもしれない。
そんな考えが頭を過ぎった時だった。
遠くから低い風鳴りが響いた。
俺たちは同時に顔を上げる。
地平線の向こう。
空が、揺れていた。
いや。
砂だ。
巨大な砂煙が、空を覆うほどの規模で渦巻いている。
シノブが目を細めた。
「……とうとうロルロに入ったか」
その声と同時。
熱風が、俺たちの馬車を真正面から叩きつけた。
――次の瞬間だった。
轟音。
まるで空そのものが崩れ落ちてきたような爆音とともに、巨大な砂嵐が俺たちへ襲いかかった。
「ッ――!!」
視界が、一瞬で消える。
熱風と砂の濁流が顔面を殴りつけ、呼吸が止まりそうになる。
砂だ。
でも、ただの砂じゃない。
まるで無数の刃物を叩きつけられているような痛みだった。
馬たちが狂ったように嘶く。
前方で馬車が大きく揺れた。
「馬を抑えろ!!」
ライナスの怒声が響く。
だが、遅かった。
砂嵐が真正面から叩きつけた瞬間、馬たちが完全に錯乱した。
悲鳴のような鳴き声。
引き千切れそうなほど手綱が暴れる。
次の瞬間。
馬車そのものが、横から巨大な力で殴り飛ばされたように浮き上がった。
「うおっ――!?」
世界が回転する。
視界いっぱいに砂。
空。
砂。
熱風。
衝撃。
身体が宙へ投げ出され、俺は砂の上を何度も転がった。
喉の中まで砂が入り込む。
「ごほっ……! げほっ……!」
呼吸ができない。
耳鳴りが酷い。
目を開けても何も見えない。
砂。
砂。
砂。
世界が全部、黄金色に染まっていた。
「カイル君!!」
どこかでルミエラの叫びが聞こえる。
俺は必死に身体を起こした。
砂に半分埋まりながら周囲を見る。
横転した馬車。
砕けた車輪。
荷物はそこら中へ散乱し、砂に飲み込まれ始めている。
そして――。
馬。
地面に倒れ伏した二頭の馬が、ぴくりとも動かなかった。
嫌な予感が胸を過ぎる。
俺はふらつきながら駆け寄った。
「おい……!」
返事はない。
近づいた瞬間、背筋が凍った。
馬の目。
鼻。
耳。
身体中の穴という穴から、さらさらと砂が零れ落ちていた。
まるで。
身体の中身そのものが砂へ変わってしまったかのように。
「なっ……」
言葉が出ない。
ライナスが隣へ来る。
ライナスは馬の死体を見下ろし、険しい目を細めた。
「どういうことだこりゃあ……」
シノブが肩に積もった砂を払い落としながら呟く。
「まるで砂嵐が、馬を殺しにかかったみたいだな」
その言葉に、全員が黙った。
否定できなかった。
自然現象には見えない。
あまりにも異常だった。
ルミエラが青ざめた顔で周囲を見回す。
「これ……長居したらマズいやつじゃない?」
「間違いなくな」
ライナスが即答した。
ライナスはすぐに判断を下す。
「馬車は捨てる。必要な荷物だけ持って進むぞ」
俺たちは急いで散乱した荷物を回収し始めた。
水や食料。
地図。
予備の布。
砂に埋まりかけた荷袋を必死に引きずり出し、それぞれ背負う。
その間も、砂嵐は一切弱まらない。
熱風が皮膚を削る。
髪の中まで砂が入り込む。
目を開けるだけで激痛だった。
俺は布を顔へ巻き付けながら、ちらりと馬の死体を見る。
まだ砂が零れていた。
さらさら、と。
まるで砂漠そのものへ還っていくように。
嫌な想像が頭を過ぎる。
(――俺たちも、ああなるのか?)
身体の穴という穴から砂を流しながら。
この大砂丘へ呑まれて。
跡形もなく消えていくのか。
喉が鳴った。
シノブが低く言う。
「進むしかない」
その声で、俺は我に返った。
そうだ。
止まれば死ぬ。
この場所は、そういう場所だ。
俺たちは顔を布で覆い、砂嵐の中へ足を踏み出した。
熱い。
苦しい。
息を吸うたび、肺へ砂が入り込む。
一歩進むだけで体力が削られていく。
だが、それでも。
俺たちは歩いた。
ロルロ王国へ。
天啓の巫女へ。
ノアを救う、その希望だけを頼りに。




