707話 引っ掛かり
カリーナにすべてを話し終えたあと――。
重苦しかった空気は、いつの間にかすっかり消えていた。
代わりにそこにあったのは、どこか懐かしくて、穏やかな時間だった。
「それでね、ルナが本当に厳しくて……!
ちょっと手元が狂っただけで、すぐやり直しなのよ?」
カリーナはそう言いながら、少し頬を膨らませる。
でも、その顔はどこか楽しそうだった。
「へぇ……でも、料理できるようになったんだな」
「そうよ! この前はスープもちゃんと作れたし……。
あ、でも味付けはまだルナに見てもらってるけど」
言いながら、少しだけ照れくさそうに笑う。
その表情が、なんだか昔よりも柔らかくなっている気がした。
「化粧も教えてもらってるの。
最初は全然分からなかったけど、最近はちょっとずつ慣れてきて……」
「へぇ……」
正直、俺にはよく分からない話だ。
でも、カリーナが楽しそうに話しているのを見ているだけで、それで十分だった。
「忙しいけど……でもね」
カリーナは少しだけ言葉を区切ってから、にっこりと笑う。
「毎日が、嘘みたいに楽しいの」
その言葉は、どこか誇らしげだった。
俺は、静かに頷く。
「……カリーナが楽しそうで良かったよ」
それ以上の言葉は、うまく出てこなかった。
でも、それでよかった。
こうして、どうでもいいような話をしている時間が――何よりも心地よかったから。
気づけば、窓の外の光は少し傾いていた。
「……あ」
俺はふと、立ち上がる。
「そろそろ行きます」
「え、もう?」
カリーナが少し驚いた顔をする。
「昼食でも食べていけばいいのに」
「ごめん、外に人を待たせてるんだ」
そう言うと、カリーナは少しだけ残念そうに目を細めたが、すぐに頷いた。
「……そっか」
屋敷の玄関まで、カリーナはついてきてくれた。
扉の前で立ち止まり、俺は振り返る。
「また来るよ」
「うん!」
カリーナは小さく頷いて、そして柔らかく笑った。
「また、会いに来てね」
その言葉に、俺も笑い返す。
「あぁ」
軽く手を振り合い、俺は屋敷を後にした。
門までの道を歩きながら、どこか胸が温かかった。
ダンたちに軽く挨拶を交わし、門を抜ける。
外に出ると――。
「……遅かったな」
退屈そうな声が飛んできた。
シノブだった。
道の脇で木にもたれかかりながら、手の中で短剣を器用に回している。
刃がきらりと光るたびに、少しだけヒヤリとする。
「シノブさん」
声をかけると、シノブは短剣を空中に放る。
くるりと回転させてから難なくキャッチし、そのまま懐へと収めた。
「そんな物騒なもの振り回さないでくださいよ」
思わず言うと、シノブは鼻を鳴らす。
「振り回してなどいない。ただの手遊びだ」
そして一歩、こちらへ歩み寄る。
「それに、貴様が遅いのが悪い」
「すみませんって……」
軽く肩をすくめると、シノブはふと視線を屋敷へ向けた。
「ここが貴様の生まれた村だと聞いたぞ」
「え?」
「門番が言っていた」
なるほど、ダンあたりが話したんだろう。
「……興味あるんですか?」
俺がそう聞くと、シノブは一瞬だけ考える素振りを見せてから答えた。
「少しな」
そしてすぐに続ける。
「貴様のような変人が育った場所にな」
「ひどい!」
思わずガクッと腰を落とす。
だが、そんな俺を見て、シノブはほんのわずかに口元を緩めた。
「……で?」
「え?」
「案内してくれないのか?」
その一言に、俺は少しだけ目を丸くする。
しかしすぐに笑った。
「……じゃあ、少し見て回りますか」
「そうしてもらおう……だが、時間は大丈夫なのか?」
「ええ、馬車はもう取ってありますし。
皆に顔を見せるのも夕方くらいで大丈夫ですから」
そう答えると、シノブは小さく頷いた。
「なら――」
腕を組み、薄く笑う。
「変人が生まれた地の観光と興じるか」
「だから変人って言うのやめてくださいよ……」
苦笑しながら、俺は歩き出す。
見慣れたはずの村の景色が、どこか少し違って見えた。
隣に、こんな変わった相手がいるせいかもしれない。
それでも――。
悪くない、と思えた。
村の細い道を、俺とシノブは並んで歩き始めた。
踏みしめる土の感触も、鼻をくすぐる草の匂いも、どれも懐かしい。
「ここ、昔よく遊んでた場所なんですよ」
指差した先には、小さな広場がある。
今は子どもたちが木の棒を振り回して遊んでいた。
「ああやって、俺もよく剣の真似事してて……。
振り回しすぎて、何回も転んでました」
「なるほどな」
シノブが腕を組みながら、じっとその光景を見る。
「その頃から間抜けだったわけか」
「ひどい!?」
即座に振り返ると、シノブは小さく鼻を鳴らした。
「実力が伴っていない者ほど、大振りになる。剣術の基本だ」
「ぐっ……」
反論できないのが悔しい。
気を取り直して、俺は歩みを進める。
「こっちは畑で……昔、魔法の練習してたときに燃やしちゃって」
「なるほど馬鹿か」
「ちょっと加減を間違えただけですから!」
「それを世間では馬鹿と言う」
「うっ……」
容赦がない。
だが、そのやり取りが妙に心地よかった。
気づけば、自然と口が軽くなる。
「あと、あの川で溺れかけたこともありますね。
流れが思ったより速くて――」
「救いようがないな」
「ちゃんと助けられましたよ!?」
「他人に迷惑をかけてな」
「……はい」
完全敗北だった。
シノブは相変わらずの調子で、淡々と毒を吐いてくる。
だが、その口調にはどこか楽しんでいるような色が混じっていた。
俺も、それを分かっているからこそ、つい笑ってしまう。
そんな風に村を歩き回っているうちに――。
気づけば、空は橙色に染まり始めていた。
太陽は西に傾き、長い影が地面に伸びている。
「……そろそろ戻りましょうか」
俺がそう言うと、シノブも視線を空へ向けてから小さく頷いた。
「ああ」
来た道を戻り、馬車を停めてある場所へ向かおうとした――その時だった。
「……待て」
シノブが、ぴたりと足を止める。
「え?」
振り返ると、シノブはある一点を見つめていた。
その指先が、ゆっくりと持ち上がる。
「あの家」
指差された先を見る。
そこにあったのは、少し離れた場所に建つ古びた家だった。
「あの家が何か……?」
「微弱だが……感じる」
シノブは目を細める。
「エルドリックの魔力だ」
「……え?」
思わず声が漏れた。
そうだ、あの家は――。
「昔、エルドリックさんがこの村を護衛していた時に使ってた家です」
俺は記憶を辿りながら答える。
「長いこと使ってたみたいですし……。
多分、魔力の残滓じゃないですかね」
そう言いながら、俺も魔力感知を発動する。
――だが。
「……あれ?」
何も、感じない。
空気はただ静かで、魔力の揺らぎも見当たらない。
「俺には……分かりません」
正直に言うと、シノブは小さく舌打ちした。
「貴様の精度が低いだけだ」
「うぐ……」
「確かに、残滓もある。だが――」
シノブの視線が、鋭く細められる。
「それだけじゃない」
空気が、変わった。
張り詰めた糸のような緊張が、周囲を包む。
「……何かおかしい」
「え?」
「この家、まだ使われているのか?」
問いに、俺は少し考える。
「いや……近くの研究所が閉鎖されてからは、誰も使ってないはずです」
「……そうか」
シノブは一歩、前へ出る。
その背中から、じわりと警戒が滲み出ていた。
「なら尚更おかしい」
「何がです?」
俺の問いに、シノブは低く答える。
「家の内部の一部だけ――まったく魔力が感じられない」
「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。
「魔力が、ない?」
「そうだ」
シノブは目を閉じる。
集中するように、静かに息を整える。
「まるで……その場所だけ、“空白”だ」
空白。
その言葉に、背筋がぞくりとした。
「もう少し精度を上げる」
シノブはそう言って、さらに意識を研ぎ澄ませる。
空気が張り詰める。
風の音すら、遠くなる。
数秒――いや、もっと長く感じた。
そして。
シノブの目が、勢いよく見開かれる。
「――おそらく人間だ」
「……っ!?」
「人の型をしている」
その声は、確信に満ちていた。
だが同時に、わずかな違和感も含んでいる。
「……だが」
シノブは低く続ける。
「“何か”が違う」
冷たい空気が、古家の方から流れてくる気がした。
誰もいないはずの場所。
それなのに、“いる”。
しかも――魔力を持たない“何か”が。
俺は無意識に、息を飲み込んでいた。
夕焼けに染まる古家は、どこか現実から切り離されたように静まり返っていた。
風に揺れるはずの草も、なぜかその周囲だけは不自然に動きが鈍い。
――いる。
誰も住んでいないはずの場所に、“何か”がいる。
「……中にいるのは、一体だ」
シノブが低く呟く。
「位置はほぼ固定。動いていない……椅子に座っているような姿勢だな」
「椅子に……?」
「ああ。人間が腰を掛けたときのような形で、その部分だけ――」
シノブは一瞬言葉を切り、わずかに眉を寄せた。
「完全に魔力がない」
その言葉は、あまりにも異様だった。
俺は無意識に、古家を見据えたまま思考を巡らせる。
――魔力がない。
(そんなことがあり得るのか?)
この世界では、石ころ一つ、枯れ木一本ですら微弱な魔力を帯びている。
人間や動物ならなおさらだ。
たとえ魔力を封じる道具――封魔の手枷や封魔扉のようなものを使ったとしても、術式そのものから微細な魔力は滲み出る。
完全な“無”なんて、存在しないはずだ。
だが、シノブの感知はそれを否定している。
ならば――考えられるのは二つ。
一つは、その“何か”自体が魔力を一切持たない存在であること。
無機物ですら魔力を帯びるこの世界において、それはあまりにも異質。
存在そのものが、この世界の理から外れている。
そしてもう一つ。
――周囲の魔力が、その“何か”を拒絶している可能性。
この世界は、空間そのものが魔力粒子で満ちている。
魔力感知とは、その粒子と生物の内包する魔力との差異を捉える技術だ。
だが、それすら感じられないということは――。
その“何か”の周囲に、魔力が近づけない。
まるで、そこだけぽっかりと“くり抜かれている”ような状態。
言うなれば――反魔力。
「……あり得ない」
思わず、口から漏れた
そんな存在、聞いたこともない。
考えがまとまりかけた、その時だった。
「――行くぞ」
「え?」
顔を上げると、シノブはすでに古家の扉の前に立っていた。
いつの間に。
俺が思考に没頭している間に、距離を詰めていたらしい。
その手が、古びた扉の取っ手にかかっている。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて駆け寄る。
「中にいるのが何かも分かってないのに――」
「だからだ」
シノブは振り返らずに言った。
「分からんものを放置する方が危険だ」
その声には、迷いがない。
「それに……」
わずかに力が込められる。
扉が、きしりと音を立てた。
「気に入らん」
「……え?」
「この感覚だ」
シノブは低く続ける。
「魔力が“ない”のではない。“排除されている”」
ぞくり、と背筋が冷える。
「この世界に存在していながら、この世界に拒絶されているようなものだ」
ゆっくりと、扉が開いていく。
「そんなものが、人の形をしているなど――」
隙間から、暗い室内が覗いた。
光の届かない奥。
そこに、“何か”がいる。
「見過ごせるか」
扉が、完全に開かれる。
ひやりとした空気が、外へと流れ出た。
まるで、別の空間に繋がっているかのような冷たさ。
俺は無意識に唾を飲み込み、シノブの後ろへと続いた。
――家の中は、静まり返っていた。
埃の匂い。
長い間使われていなかったことは明らかだ。
だが、その奥。
居間の方角に、確かに“異質”がある。
見えないのに、分かる。
そこだけが、歪んでいる。
「……いるな」
シノブが小さく呟く。
ゆっくりと、一歩。
また一歩と進む。
床板がわずかに軋む音だけが響く。
そして――。
居間へと繋がる扉の前で、足を止めた。
その向こうに。
椅子に座るようにして、“それ”はいる。
魔力を持たない、あり得ない存在が。
シノブが静かに手をかける。
「……開けるぞ」
俺は、小さく頷いた。
心臓の鼓動が、やけに大きく響いていた。
居間へと続く扉を、シノブがためらいなく押し開けた。
軋む音とともに開かれた先――そこにあったのは、静寂だけだった。
古びた机と椅子。割れた窓から差し込む夕陽。
空気は重く、長い時間放置されていたことを物語るように、床にも家具にも薄く埃が積もっている。
(――誰も、いない)
俺は一歩踏み込み、周囲を見渡した。
「……誰もいませんよ」
そう呟いた瞬間、違和感が胸の奥に引っかかる。
確かに人の気配はない。だが――“何か”が、いる気がする。
その感覚を言葉にする前に、シノブが低く口を開いた。
「……貴様は何者だ」
ぞくり、と背筋が冷える。
「え……?」
思わず聞き返すが、シノブの視線はまっすぐ――部屋の中央、椅子の上へと向けられていた。
そこには、何もない。
だが、シノブは断言するように言い放つ。
「いるな。そこに」
空気が張り詰める。
シノブはゆっくりと一歩踏み出し、懐に忍ばせた暗器へと手をかけた。
「ワタシの感知は誤らん。魔力はない。
だが“在る”……この世界に溶け込めていない、異物の存在だ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に先ほどの考察が蘇る。
――魔力がない存在。
――あるいは、魔力に拒絶されている存在。
あり得ないはずの存在。
シノブは目を細め、虚空に向かって語りかける。
「世界に拒絶された存在……肉体も魂も持たぬものが、なぜここにいる」
返答は、ない。
だが、確かに“何か”がそこにいる。
息を呑む俺の隣で、シノブは短く吐き捨てた。
「姿を現せ、亡霊め」
その一言が、引き金だった。
――ふっ、と空気が揺らいだ。
椅子の上――何もなかったはずの空間が、まるで水面のように歪み始める。
ゆらり、ゆらりと。
目に見えない何かが、輪郭を持ち始める。
「なっ……」
思わず声が漏れる。
歪みは次第に濃くなり、やがて“形”を取った。
人の形。
座っている姿勢のまま、ぼんやりと浮かび上がる影。
そして――。
それが完全に顕現した瞬間、俺の呼吸は止まった。
「……エルドリック、さん……?」
信じられなかった。
そこにいたのは、間違いなく――エルドリックだった。
だが、どこか違う。
身体は半透明で、色を持たず、輪郭もわずかに揺らいでいる。
存在しているはずなのに、現実感が希薄だ。
まるで――この世界に“引っかかっている”だけの影のような。
エルドリックはゆっくりと顔を上げた。
その動きには、生者の重みがなかった。
視線が、俺たちを捉える。
「……来たか」
声が、響いた。
耳で聞いたのか、頭に直接流れ込んだのか分からない、奇妙な感覚。
だが確かに、それはエルドリックの声だった。
「……カイル」
名を呼ばれ、胸が強く打ち鳴らされる。
俺は一歩、無意識に前へ出ていた。
「エルドリックさん……生きて――」
「違う」
その一言で、俺の言葉は断ち切られた。
エルドリックは静かに、しかしはっきりと言った。
「私はもう、“生きてはいない”」
空気が、凍る。
シノブがわずかに身構え、低く呟く。
「……貴様は“存在の残滓”か」
エルドリックは小さく笑った。
「残滓……か。的確な表現だ」
その笑みには、かつてのような余裕はなかった。
どこか、擦り切れたような――消えかけの灯火のような儚さがあった。
「肉体は奪われた。
魂も、あの管理者に回収されたのだろう」
そこで一瞬、視線が遠くを見る。
「だが……私は消えきらなかった」
ゆらり、とその身体が揺れる。
「この場所に、僅かに“引っかかっている”……それだけの存在だ」
俺は拳を握りしめた。
胸の奥で、どうしようもない感情が渦巻く。
「じゃあ……今のあなたは……」
「死者ですらない」
エルドリックは淡々と答えた。
「ただの“観測された残像”だ」
その言葉の意味を、完全には理解できなかった。
だが――。
目の前にいるこの存在が、もはや元のエルドリックではないことだけは、はっきりと分かった。
それでも俺は、踏み出す。
「それでも……あなたは、あなたですよね」
エルドリックの目が、わずかに細められる。
「……愚かな問いだな」
だが、その声音はどこか柔らかかった。
俺は続ける。
「聞きたいことがあるんです」
喉が渇く。
それでも、言わなければならない。
「ノアを助ける方法――あなたなら、知ってますよね」
一瞬の沈黙。
空気が張り詰める。
そしてエルドリックは――。
ゆっくりと、口元に笑みを浮かべた。
「……あぁ」
その答えに、心臓が強く跳ねた。
「知っているとも」
次の瞬間。
部屋の温度が、わずかに下がった気がした。
「だが――」
エルドリックの瞳が、鋭く俺を射抜く。
「それは、“代償なし”で得られるものではないぞ、少年」
その言葉は、静かで――。
そして、底知れない重みを孕んでいた。




