706話 前に進む
馬車に揺られ、数時間。
カーヴァインの喧騒を離れた俺たちは、ノワラの外れにある小さな村へと辿り着いていた。
王都周辺と比べれば、随分と静かな場所だ。
石造りの家々がぽつぽつと並び、畑では農民たちが朝から土を耕している。
遠くでは子どもたちの笑い声が聞こえ、のどかな風景が広がっていた。
だが――。
そんな村の景色の中で、一つだけ異様なほど目立つ建物がある。
「相変わらずデカいな……」
思わず呟いた。
村の奥。
広い敷地を堂々と占領するように建てられた巨大な屋敷。
白い外壁。
丁寧に整えられた庭園。
風に揺れる色鮮やかな花々。
そして、綺麗に刈り揃えられた雑木。
小さな村にはあまりにも不釣り合いな、典型的な“貴族の屋敷”だった。
カリーナの実家。
フォークナー家だ。
門の前には、今日も二人の警備兵が立っている。
鎧姿のまま直立するその姿は相変わらず真面目そうだったが、俺の顔を見ると、片方が「あ」と小さく声を漏らした。
その時だった。
隣を歩いていたシノブが、ふと口を開く。
「……ワタシが一緒に行くと、また妙な勘違いをされるのではないか?」
「え?」
思わず振り返る。
シノブは腕を組みながら、少しだけ面倒臭そうな顔をしていた。
「昨日も変な空気になっていただろう」
「あぁ……」
母さんとルミエラのことを思い出し、俺は苦笑する。
確かにあれは酷かった。
「でも、カリーナはそんな勘違いしないと思いますよ?
別にやましいこともないですし」
「……」
「普通に入れば――」
「いや、ワタシはここで待っている」
シノブは即答だった。
「話が長引くもの好かん。適当に時間を潰している」
その言葉に、俺は少しだけ目を丸くする。
シノブなりに気を遣ってくれているのだろうか。
普段の彼女なら「知るか」で済ませそうなものなのに。
「……ありがとうございます」
俺がそう言うと、シノブはふいっと顔を逸らした。
「礼を言われる筋合いはない」
相変わらず素直じゃない。
でも、少しだけ優しい。
俺は小さく笑いながら頷き、門へ向かって歩き出した。
すると、警備兵の一人が目を見開く。
「おぉ、カイル様!」
「久しぶりです」
声を掛けると、二人はすぐに門を開けてくれた。
もう長い付き合いだ。
俺がまだこの村に住んでいた頃から、何度も顔を合わせている。
当然、俺が勇者であることも知っている。
そして――。
俺とカリーナの関係も。
……まあ、隠していたわけじゃないから、当然と言えば当然なんだけど。
なんとなく気恥ずかしい。
「今日はカリーナ様に御用で?」
警備兵の一人――ダンが、にやにやしながら聞いてくる。
「まぁ、そんな感じです」
俺は曖昧に笑った。
本当の目的をここで話す気にはなれなかった。
エルドリックのことを。
まだ、口にしたくなかった。
「ほぉ〜」
ダンは完全に勘違いしている顔だった。
やめてほしい。
だが、否定すればするほど面倒になるのは経験上知っている。
俺は諦めて、そのまま屋敷へと向かった。
広い庭園を抜け、巨大な玄関扉の前へ到着する。
ダンが先に扉を開け、中にいたメイドへ声を掛けた。
「客人だ」
「承知しました」
メイドが深々と頭を下げる。
ダンもこちらを向き直り礼をした。
「私はここまでですので」
「ありがとうございます」
俺も頭を下げる。
そのまま屋敷の中へ足を踏み入れた。
懐かしい香りがした。
磨かれた床。
高い天井。
静かな廊下。
昔、何度も通った場所だ。
「カイル殿?」
不意に、低い声が聞こえた。
振り向くと、そこに立っていたのは大柄な男だった。
短く整えられた黒髪。
鋭い目つき。
立派な口髭。
カリーナの父――フォークナー侯爵だ。
「あ……ご無沙汰してます」
俺が頭を下げると、侯爵は腕を組みながらじろりと俺を見る。
その視線に、俺は少しだけ身構えた。
以前、カリーナから聞いていたからだ。
貴族との婚約破棄の件で、かなり怒っていたと。
だから正直、怒鳴られる覚悟くらいはしていた。
しかし――。
「君のせいで高位貴族との結婚式は散々だったぞ」
「……っ」
やっぱり怒られるかもと、俺は反射的に頭を下げた。
「す、すみません……!」
すると次の瞬間。
「はっはっは!!」
豪快な笑い声が屋敷中に響いた。
「実は私もあの連中は大嫌いだったのだ!」
「……え?」
思わず顔を上げる。
侯爵は腹を抱えて笑っていた。
「娘を政治の道具としか見ておらん連中だ!
むしろよくやった!」
「えぇ……」
想像と違いすぎる。
「君が許すなら、今すぐにでも式を挙げるぞ!」
「なんでそんな話になるんですか!?」
俺が慌てて叫ぶと、侯爵は満足そうに頷いた。
「うむ、元気そうで安心した」
いや会話が成立してない。
でも――。
少しだけ安心した。
カリーナから聞いていた印象とは違う。
もっと厳格で怖い人かと思っていたが、案外面白い人なのかもしれない。
「カリーナなら部屋にいるはずだ。行ってやれ」
「……はい」
俺は軽く頭を下げ、階段へ向かった。
一段、一段。
ゆっくりと足を進める。
そして、見慣れた廊下へ辿り着いた。
突き当たり。
木製の扉。
カリーナの部屋だ。
俺はその前で立ち止まり、静かに息を吐いた。
エルドリックのことを、伝えなければならない。
胸の奥が、少しだけ重かった。
もう一度、深く息を吸う。
胸の奥に溜まった重たいものを、無理やり押し込むように。
――伝えなければならない。
そう思いながら、俺はゆっくりと手を上げた。
カリーナの部屋の扉。
何度も叩いたことのある、その木製の扉に指先が触れたそのとき――。
「もうムリぃい!!」
「!?」
次の瞬間だった。
内側から、叫び声とともに扉が勢いよく開かれる。
避ける間もなかった。
「ぐぁっ!?」
鈍い音とともに、顔面に直撃。
視界が一瞬真っ白に弾け、俺はそのまま後ろに吹き飛ばされるように尻もちをついた。
「な、何が……っ」
鼻を押さえながら顔を上げる。
じんじんとした痛みが脳に響く。
涙が滲む。
そのぼやけた視界の中で――。
「え!? カイル!?」
聞き慣れた声が響いた。
顔を上げる。
そこには、目を丸くしたまま固まっているカリーナが立っていた。
淡い金髪が揺れ、驚きで大きく見開かれた瞳が俺を捉えている。
「カ、カリーナ……」
俺は鼻を押さえたまま、なんとか声を絞り出した。
「なんでカイルがここに!?」
「いや……それは……」
涙目で答えようとすると、カリーナはハッとしたように慌ててしゃがみ込んだ。
「だ、大丈夫!? ご、ごめん!
まさか外にいるなんて思わなくて……!」
「いや……俺もノックする前だったから……」
痛い。
普通に痛い。
でも、久しぶりに見るカリーナの顔に、どこか安心している自分もいた。
「それで……なんでここに?」
「旅が終わって、一旦帰ってきたんだ」
俺がそう言うと、カリーナの表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ――ノアを助ける方法、見つけたのね!?」
期待に満ちたその声に、俺は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……そのことについて、色々話がある」
少しだけ視線を逸らしながら続けた。
「とりあえず、今時間あるか?」
すると、その問いに答えたのはカリーナではなかった。
「構いませんよ。しかし、少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
部屋の奥から、落ち着いた女性の声がする。
視線を向けると、そこにはメイドのルナが立っていた。
相変わらず隙のない所作で、静かにこちらを見ている。
「はい、大丈夫です」
俺が頷くと、ふと疑問が浮かぶ。
「……何かしてたのか?」
その問いに、カリーナが一瞬だけビクッと肩を震わせた。
「え、えっと、それは……」
明らかに挙動が怪しい。
視線を泳がせ、何かを隠そうとしているのが丸わかりだった。
だが、その沈黙をあっさりと破ったのはルナだった。
「カリーナ様は、カイル様と添い遂げた時のために花嫁修業を行っているのです」
「花嫁って……え!?」
思わず大声が出た。
さっきまで感じていた鼻の痛みが一瞬で吹き飛ぶ。
「ちょ、ちょっとルナ! なんで言っちゃうのよ!?」
カリーナの顔が一気に真っ赤に染まる。
耳まで真っ赤だ。
「未来の殿方に隠し事はいけませんよ」
ルナは涼しい顔で言い切った。
「そういう問題じゃ――!
と、とにかく! 一回部屋片付けるから! ちょっと待ってて!」
カリーナは半ば叫ぶように言い、俺を廊下に押し出す。
そしてそのまま勢いよく扉を閉めた。
「……」
静寂。
廊下に取り残された俺は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
「……花嫁修業って何してたんだ?」
変な想像が頭をよぎり、俺はぶんぶんと首を振った。
(いや、考えるな。今は余計なことは考えるな)
―――。
数分後。
扉がゆっくりと開く。
「……入っていいわよ」
少しだけ落ち着いた様子のカリーナが、顔を覗かせた。
頬はまだほんのり赤い。
「お邪魔します」
俺はそう言って部屋に入った。
中は綺麗に整えられている。
さっきまで何をしていたのかは、もう分からない。
近くのソファに案内され、俺は腰を下ろした。
すぐにルナが紅茶を差し出してくる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
温かい湯気が立ち上る。
ほっとする香りだ。
「それでは、私はこれで」
ルナが一礼し、部屋を出ようとする。
「ま、待ってルナ! 一人にしないで!」
カリーナが慌てて呼び止める。
だがルナは微笑むだけだった。
「ごゆっくり」
その一言を残し、静かに扉を閉める。
完全に二人きりになった。
「……」
「……」
気まずい。
さっきのルナの発言のせいで、妙な空気が流れている。
紅茶を持つ手が、ほんの少しだけ落ち着かない。
だが――。
そんなことを思っている場合じゃない。
俺はカップを置き、カリーナを真っ直ぐ見た。
「それで、ノアのことなんだけど……」
静かに切り出す。
カリーナも姿勢を正し、真剣な顔になる。
俺はゆっくりと言葉を紡いだ。
旅のこと。
エルドリックに会えたこと。
だが、そこにノアを助ける直接の方法はなかったこと。
そして――。
治癒の巫女なら、ノアを救えるかもしれないこと。
一つ一つ、丁寧に。
隠すことなく、すべてを話した。
「……そう」
話を聞き終えたカリーナは、小さく俯いた。
長い髪が揺れ、表情が影に隠れる。
「……やっぱり、簡単にはいかないわよね」
その声は、少しだけ寂しそうだった。
だがすぐに、彼女は顔を上げる。
無理やりでも笑顔を作るように。
「でも……助ける手立てはあるんでしょ?」
「……うん」
俺はしっかりと頷いた。
その一言に、カリーナは小さく笑う。
「なら、まだ希望はあるわね!」
その強さに、胸が少しだけ軽くなる。
けれど――。
俺の中には、もう一つ残っている言葉があった。
重くて、苦しくて。
口にするのを躊躇ってしまう言葉。
「……」
少しだけ、沈黙が落ちる。
カリーナが不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「……もう一つ、話さないといけないことがあるんだ」
喉が渇く。
でも、逃げない。
俺はゆっくりと息を吸い、そして――。
「エルドリックさんのことだ」
そう、告げた。
紅茶の表面に揺れる光が、かすかに震えていた。
窓から差し込む柔らかな日差し。
穏やかな午後のはずなのに、その場の空気だけが重く沈んでいる。
向かいに座るカリーナは、カップを持ったまま俺の言葉を待っていた。
――言わなければならない。
分かっている。
でも、喉がうまく動かなかった。
「……カイル?」
不安げな声が、静寂を破る。
俺は息を一つ吐き出し、覚悟を決めた。
「……エルドリックさんは」
言葉が、ひどく遠い。
「――死んだ」
その一言は、あまりにもあっけなく、あまりにも重く、部屋の中に落ちた。
「…………え」
カリーナの手が、かすかに震える。
カップの中の紅茶が波紋を広げた。
「エルドリック様が……死ん……え……?」
視線が定まっていない。
理解が、追いついていないのが分かる。
当然だ。
彼女にとって、エルドリックはただの師じゃない。
幼い頃、自分を認めてくれた、たった一人の理解者だったはずだ。
「……なんで」
やっと絞り出された声は、か細かった。
「どうして……亡くなったの?」
その問いに、俺は言葉を選ぶ。
あの“女”のことは話さない。
あれは――あまりにも異質すぎる。
今ここで語るべきじゃない。
「……エルドリックさんは」
ゆっくりと、慎重に。
「ある目的のために……禁じられた魔法を使おうとしたんだ」
カリーナの瞳が揺れる。
「その代償として……多くの人の命が必要になる魔法だった」
「……っ」
「止めたんだ。俺が……。
止めるしかなかったんだ」
静かに続ける。
「……引けなかった。戦いは避けられなかった」
あの時の光景が脳裏に蘇る。
狂気と、覚悟と、愛が混ざり合ったあの目。
「だから……戦って」
拳を、膝の上で握る。
「……結果として、俺が……」
言い切ることはできなかった。
だが、それで十分だった。
「――どうして!?」
カリーナが立ち上がる。
椅子が大きな音を立てた。
「なんで……! なんでそんなことに……!」
その声は怒りと悲しみが入り混じっていた。
「もっと他に方法があったんじゃ――」
言いかけて、止まる。
俺の顔を見たからだろう。
傷は癒えていても、戦いの跡は残っている。
疲労も、後悔も、全部。
「……っ」
カリーナは唇を噛み、視線を落とした。
「……ごめん」
小さな声だった。
「カイルも……辛かったよね……」
その言葉に、胸がわずかに締め付けられる。
「……」
俺は首を横に振った。
「エルドリックさんは……最後まで覚悟を決めてた」
静かに、はっきりと。
「俺なんかじゃ届かないくらいの覚悟を」
それは事実だった。
あの人は、自分の行いの意味も、罪も、全部理解した上で進んでいた。
止まれなかっただけだ。
「……そっか」
カリーナの肩が小さく震える。
ぽたり、と涙が落ちた。
それでも彼女は声を上げなかった。
ただ、押し殺すように泣いていた。
俺はゆっくりと立ち上がり、彼女の隣へ移動する。
そして、そっと肩に手を置いた。
「……エルドリックさんはもういない」
言葉にするのは、やっぱり苦しかった。
「でも……あの人が残してくれたものはある」
カリーナがわずかに顔を上げる。
「ノアを助ける方法」
「……」
「まだ、可能性はある」
俺ははっきりと言った。
「それも……あの人のおかげだ」
しばらくの沈黙。
やがてカリーナは、涙を拭った。
「……当然よ」
少しだけ、笑う。
弱々しいけど、確かな笑みだった。
「あの人は……すごいもん」
その言葉には、誇りが混じっていた。
師としての。
大切な人としての。
しばらくして、カリーナは再び席に座り直した。
紅茶はもうぬるくなっているはずなのに、彼女はそれをゆっくりと口に運ぶ。
震えは、もうなかった。
完全に立ち直ったわけじゃない。
でも、前を向こうとしているのが分かる。
その横顔を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
――これでいい。
全部を話す必要はない。
あの異質な存在のことも。
エルドリックの最期の、本当の意味も。
カリーナは知らなくていい。
背負う必要のないものまで、背負わせるわけにはいかない。
静かな午後の光が、二人を包み込む。
その中で、俺はただ――。
前に進むことだけを考えていた。




