152話 幸福
咄嗟の出来事だった。
身体が動かなくなったとき、あたしは本気で「終わった」と思った。魔王が拳を振り上げるのを見て、「ここで死ぬんだ」とすら感じた。
けれど――
どこからか聞こえたアルマの声が、不思議とあたしに「生きろ」と言っているような気がした。
その声に、あたしの心は反応した。
あたしは、最後の力を振り絞って魔王に向かって魔法を放った。
――炎の魔法を。
まさか、それがあんなことになるなんて。
※※※
「ルミエラさんが!!」
俺は、アルマの説明を聞き、間もなく、ルミエラと魔王に向かって駆け出していた。
眼前には、膝をつき立てなくなっているルミエラ。
さらに、ルミエラに拳を振り上げる魔王。
俺の必死の叫びに、アルマが答える。
「えぇ!分かってるわ!……まったく、世話の焼ける子ね!」
そう言うと、アルマは即座に魔王の顔面めがけて氷元素の魔法を放った。
魔王の意識外からの攻撃。
氷の矢が鋭く飛び、魔王の顔のひとつに直撃する。
ほぼ同時に、ルミエラが火元素の魔法を放つ。
炎と氷、相反する二つの魔法が、魔王の3つある顔のうちの2つに同時に炸裂した。
「ムガァァッ!!?」
魔王が頭を抱えて悶えだした。
「……?!」
俺たちは全員、足を止める。
今まで、どんな攻撃を浴びても平然としていた魔王が――
苦しんでいる。
「…一体どうしたっていうの?」
アルマも不思議そうに魔王を見据える。
魔王は悶えながら地面を踏み鳴らし、地響きを引き起こしていた。
そこで、俺はハッとして、急いでルミエラに駆け寄る。
「ルミエラさん!」
俺の声に、朦朧としていたルミエラの目が焦点を取り戻した。
「カ…イル君…!」
俺は、彼女の腕を取り、即座に兵士たちの下へと運ぶ。
ルミエラの身体には大きな外傷はなかった。
しかし、手足や腹部を動かすたびに、俺の耳にも聞こえるほどの骨が軋む音が鳴っている。
「ルミエラさん!? 一体何をしていたんですか!?」
俺の問いに、ルミエラは答えなかった。
いや、答えられなかった。
唇を震わせ、何かを言おうとするが、掠れた声しか出ない。
(……身体の内部が損傷しているのか? 一体どんな戦い方をしたんだ……!?)
考えは尽きなかったが、とにかく今は後回しだ。
俺は彼女を魔法を練っていた兵士たちの元へ運び、預ける。
「この人に治癒魔法を! すぐに休ませてあげてください!」
俺の叫びに、後方で魔力を練っていた女兵士が反応した。
「私が介抱します! 治癒魔法は得意ですので!」
「ありがとうございます! それと、魔法の準備は……!?」
俺の問いに、女兵士が背後を振り返り、報告する。
「もう少しです……!ですが、勇者様が先ほど放たれた魔法の威力を超えるには、まだ足りません……!」
「分かりました!準備が整ったらすぐに撃ってください!俺たちのことは気にせずに!」
そう言い残し、俺は再びアルマの元へと戻る。
アルマが見ていたのは、未だ悶えている魔王の姿だった。
「アルマさん……これは、どういうことなんですか?」
俺の問いに、アルマはにやりと笑う。
まるで、勝機を見出したかのように。
「アルマさん?」
もう一度名前を呼ぶと、アルマはハッとしたような顔をし、俺に目線をやった。
「ルミエラは?」
「兵士に預けてきました。」
「そう……」
「それで……魔王は、なぜあんなことに……?」
俺が再び問いかけると、アルマは魔王を見据えながら、真剣な表情で答える。
「分からないわ……私とルミエラの魔法が直撃した瞬間に、ああなったとしか言えない。でも……」
彼女は、魔王を指さす。
「今の魔王の状態を引き起こした『何か』を知ることができれば、魔王を倒せるかもしれないわ!」
俺も魔王を見据える。魔王の3つあった顔は、正面の顔を除いて、炎に焼かれ、凍結していた。
燃え盛る方の顔は今にも燃え落ちそうなほど黒く焦げ、凍りついた方の顔には無数の氷の結晶が張り付いている。
アルマの目が鋭く細められる。魔王をじっと見据えながら、彼女は小さく呟いた。
「これは…あの事例とも違うし……これも違う……」
「もしあの加護が関係しているなら、辻褄は合う……? いや……でも、そうなるとここが……」
彼女の呟きは焦りを孕んでいた。
俺もまた、魔王の様子を注意深く観察する。
(何が起こったんだ……?)
魔王は先ほど、俺たちの炎と氷の同時攻撃を受けた直後から苦しみ始めた。だが、それまでにも何度か元素の異なる魔法を同時に叩き込んできたはずだ。それなのに、なぜ今になって効いた?
(まだ……何か秘密があるはずだ。)
思考を巡らせるが、俺には魔法や加護に関する深い知識がない。自分一人で答えを導き出すのは不可能に近いと判断し、すぐに切り替えた。
代わりに、今はアルマが必死に答えを探してくれている。ならば、俺がすべきことは――彼女を守ることだ。
その間にも、魔王の苦しみの声は次第に弱まっていく。地響きも止まり、戦場には一瞬の静寂が訪れた。
だが、俺は気を抜かない。
(奴がどんな動きをしようとも、絶対に阻止してやる……!)
そう覚悟を決め、杖を握りしめた。
魔王の燃え盛っていた頭部の炎は、次第に鎮火していく。氷で凍りついていたもう一つの頭も、表面の氷が解け始めた。
だが――その変化は決して回復ではなかった。
炎に包まれていた頭部は、すでに真っ黒に焦げ、機能を完全に喪失していた。氷に凍結されていた頭部も、血の気を失い、皮膚は白く変色し、目を見開いたまま動かない。
二つの頭は――完全に死んでいた。
その光景を目にした瞬間、俺は確信した。
(俺たちの攻撃は……通じていた!)
偶然だったのかもしれない。だが、それでもいい。俺たちは魔王を倒せる可能性を見つけた。
勝機が見えた――そう思った刹那。
「……ん?」
魔王の動きがピタリと止まり、俺たちをじっと見つめる。
その瞬間、違和感が襲いかかった。
(なんだ……? なんだこの感覚は……?)
俺は本能的に警戒し、魔王から目を逸らさぬように注意を払う。
だが――
「……魔王が……いない!?」
一瞬だった。本当に、一瞬。
俺は目を逸らしていない。瞬きすらしていない。それなのに――魔王の姿が、忽然と消えた。
「ど、どこだ!? どこに行った!?」
俺は慌てて周囲を見回す。
しかし、どこを見ても、魔王の姿はない。
「アルマさん、魔王が……! 魔王を見失いました!」
俺の声に、アルマが思考を中断し、驚愕の表情で振り返る。
「なんですって!?」
即座に杖を構え、俺と背中合わせになる。
「カイル、そっちに魔王は見える!?」
「いえ……どこにも、いません!」
「私の視界にもいない……一体どこへ?」
「わ、分かりません! 一瞬で消えて……!」
焦りと混乱が募る。
(まさか……『瞬間移動』のような加護を持っているのか!?)
そんな考えが頭をよぎるが、次の瞬間――
ゴオオオオオオオォォォ!!
空気を切り裂く、鋭い風切り音が響く。
「な、なんだ!?」
俺の耳に届いたのは、何かが急降下する音。
本能が警鐘を鳴らす。
(ヤバい!!)
反射的にアルマの腕を掴み、地面に伏せる。
そして――
ズドォォォォン!!
轟音と共に、俺たちが立っていた場所が陥没した。
地面は粉々に砕け、衝撃で巨大なクレーターができる。
「ぐっ……!!」
砂埃が舞い上がり、視界が遮られる。俺とアルマは咄嗟に息を止め、身を低くした。
「な、何が……?」
アルマが目を見開き、戦慄する。
俺も、信じられない思いで呟いた。
「……魔王です。魔王は、遥か空中にいたんです!」
砂煙の向こう――そこに、魔王の姿があった。
砂煙がゆっくりと晴れていく。
そして、そこに現れたのは――かつての威厳を感じさせない、異形と化した魔王の姿だった。
両肩にあったはずの二つの顔は、すでに跡形もなくなっている。
無理やり引きちぎったのか、骨がむき出しになり、血と瘴気が混じり合いながら滴り落ちている。
その姿は、見ているだけで寒気がするほど凄惨だった。
「くっ……!」
思わず息を呑む。
しかし、それ以上に俺たちを震え上がらせたのは――
魔王が放つ、純粋な『殺意』だった。
今までの魔王は、たとえ戦闘中であっても、どこか余裕を持ち、時に戯けたような態度すら見せていた。
だが今の魔王には、一片の遊びも、嘲笑も、慢心もない。
ただただ――そこにあるのは、敵を殲滅するためだけの冷酷な意志。
戦場全体が、殺気で染め上げられた。
俺とアルマは、咄嗟に杖を構える。
今までとは、何かが違う。
「……よもや……ここまでされて、手加減はできんな……ッ!!」
魔王が低く、唸るように言った。
その声は、先ほどまでの豪快な笑い声とはまるで別物だった。
どす黒い瘴気が、魔王の身体を覆い始める。
「我の『怒り』と『悲しみ』を司る顔が、今……死んだ。」
魔王は、血の滲んだ肩口に手をやりながら、ゆっくりと俺たちを見下ろす。
赤黒く染まった視線が、焼き付くように重い。
「残ったのは……この『幸福』の顔だけ……」
そう言いながら、魔王は中央に残った最後の顔を軽く指でなぞる。
一見、口元はわずかに笑みを浮かべているようにも見える。
しかし――
「……だが、今の我は『幸福』だ……ッ!!」
次の瞬間、魔王の顔が一変した。
それまでの不気味な微笑みが、一瞬にして狂気に満ちた嘆きへと変わる。
「ン゛ン゛ン゛ガァァァァァァァ!!!」
凄まじい雄叫びが戦場を揺るがし、衝撃波となって辺りに広がる。
俺とアルマは、思わず地面に膝をついた。
「うぐっ……!!?」
胸が締めつけられるような圧力。肺が空気を押し出されるような苦しさ。
まるで、魔王の咆哮そのものが、肉体を破壊する暴力と化しているようだった。
「これは……!」
アルマが目を見開く。
「魔王の『幸福』の顔……これが、本当の姿なの……!?」
彼女の声も震えていた。
――魔王は、『幸福』の名を冠する顔を持っていた。
しかし、その顔に宿る感情は、決して幸福などではない。
俺は直感する。
(魔王の『幸福』は、正常な幸福ではない。これは……破壊と絶望をもたらす、『歪んだ幸福』だ……!)
魔王の声が響く。
「フゥゥ……静かだ。」
彼はゆっくりと胸を撫でながら、深く息を吐いた。
「よくも……我の『怒り』と『悲しみ』を奪ったな……」
言葉とは裏腹に、その表情はどこか楽しげにも見える。
「つまり、お前たちは……我を『完全なる幸福』へと導いてくれたのだ!!!」
再び、狂気の笑みが浮かぶ。
「アイツが言っていたァ…ノワラ国に行けば我の3つの『感情』を満足させられるとッ!!」
魔王は笑う。
「2つの『感情』は叶わなかったが…我の『幸福』は…今叶った!!!」
俺とアルマは、恐怖に足をすくませながらも、互いに視線を交わした。
――もう後戻りできない。
今、目の前に立つのは、最も危険な『幸福』へと進んだ魔王。
「来る……!!」
アルマの叫びと同時に、魔王が――動いた。




