怪物
王都陥落の危機から国王崩御、新王ホノリスの誕生と摂政アルカデウスが主導する新体制の樹立まで、一気に展開しためまぐるしいこの日は、まだ、ひとつの事件を残していた。
夜も更けようとする頃、王宮にほど近い官営の厩舎に、ひっそりとあらわれた男がいる。
髭のない顔に薄い眉、まとった広い長衣を剃頭にも被せて、足音すらもしのばせるのは見上げるほどの巨漢……。
「クソッ。なンであたしが、こンな目に……」
ヤゴチエヌスは毒づいた。
近衛軍を蹴散らし、政敵ナセルスを亡き者にして、ウシケラトプスの群れに遭遇するアクシデントはあったものの、なんとか残存戦力を取りまとめ、王都を陥落させる目前だったのが半日前。
ホノリスの立太子を無能な統治者イフススメスに迫り、みずからはその摂政として君臨する。王都を攻める本陣で、彼は息のかかった閣僚のリストまで思い描いていたのだった。
それがいまや、人目をはばかり落ちのびていこうとしてる。なぜ、こうなった?
「同国人が殺し合うほど、馬鹿ことはない」
摂政となったアルカデウスの一言で、今回そ騒動において、罪を犯したものは皆無とされていた。誰もが王国の行く末を憂い、愛国心にかられておきた混乱であると。
だからヤゴチエヌスも、引き続き宦官長に再任されている。もちろん、それを鵜呑みにするほど彼は馬鹿ではない。
(絶対に粛正される)
そう確信している、というより常識の範疇だった。
「こうなれば、いっそ……」
とも、思わなくはなかった。
いっそのこと王家にまつわる人間を殺しつくした屍の上に、実質ではなく正真正銘の覇王として君臨してやろうか。
無理だった。
隣国の介入に理由を与えてしまう。下克上に本能的な怖れを抱く統治者にとって、それは見過ごせる事態ではない。
中つ洲にわずか八家を数える統治者たちは、幾世代にもわたる複雑な縁組みによって、他人と呼べる相手がいなくなっている。
理由など、どうとでもつけられるのだ。
まずはタカハ、オラスマが動く。沿海州も黙っていまい。近衛軍を蹴散らした宦官がいかに精強でも、対抗できる相手ではなかった。
かくなるうえは、もう亡命しかない。
某国の貴族に渡りをつけるだけで、ひと財産が吹き飛んだ。そうまでしても、保証してくれるのは彼ひとりの身柄のみ。しかも足の用意はなく、自力で辿りつくのなら、ともかく五体の無事は努力してみると、それだけの言質をとるだけで精一杯だった。
僅かに残ったなけなしの証文で、どうにか馭者をひとりを買収した。かくて昼間に一軍をひきいていたヤゴチエヌスは、夜更けに身ひとつで逃げていこうとしているのだった。
「旦那。こちらです」
ろくに相手も確認せず乗り込むと、押し殺した声で、
「誰にも見られなかったでしょうね」
「へえ。それはもう。それより汚え馬車ですみませんね。なにせ時間がなくて、旦那方みたいな偉い方をお乗せするってわかってたら、もうちょっとマシなのを用意しといたんだが、あいにくと出払っちまってて……」
「いいから早くだして」
「へえ、へえ、ただいま。それにしてもなんですな、おひとりってのがちょっと寂しいが、賑々しいばっかりがいいってわけじゃなし、そこへいくと今夜なんかは静かで風情があって、旅にでるにはもってこいの晩でして」
「ちょっと黙ンなさいよ」
ヤゴチエヌスはあたりを見まわしながら、
「いいこと?西大門を出るまでは誰にも気づかれたくないの。そこで行き先を言うから、それまで静かにしてて」
漏洩をおそれて行き先を伝えていなかった。どのみち国境を越えれば殺してしまうつもりでいる。
ところが馭者は意外なことを言った。
「行き先ならわかってますぜ」
「なに?」
「あの世さね」
振りかえった馭者に見覚えがあった。
「……あンた、だったのね」
ウシケラトプスを呼び込んで、戦場を大混乱に陥れてくれた連中。必殺の斬馬刀を受けきって、まんまとミトラを奪い逃げていった男。
「《世紀の決戦》」
ヤゴチエヌスは呻くように言った。
「アタシも、あれから考えてみたのね。自慢じゃないけど、そんじょそこらの馬の骨に受けきれる剣じゃないわけよ、アタシのは。それなのに二度も防いで、へらず口まで叩いてくれちゃって」
静かに語るヤゴチエヌスの手は、ゆっくりと剣の柄に移動している。
「人相書きまで来てたのに、アタシとしたことが、髭がないからって気づきもしないなンて、やっぱりトシかしらねえ。ええと、なんだったかしら……沿海州のオーディエンスを恐怖のどん底に叩き込み、暴虐の限りを尽くした“モンスター”、半獣半人の怪物クレタウロスの双角を叩き折った伝説の男?」
円形闘技場にあった興行の看板に、同じようなことが書いてあった。
興行じたいは興行主が取り仕切るが、主催は王族や貴族であることが多い。闘技場は彼らにとって権威・財力を誇示するとともに、民意を推し量る場所でもあった。
まもなく新王主催の興行も行われるはずで、そこで万雷の喝采が贈られれば、国民も新たな主を祝福したとみなされる。
先述の《世紀の決戦》が誰の主催かわからないが、ひょっとするとヤゴチエヌスも一枚噛んでいたのかもしれない。
カトーは応えず、凸凹の鍋みたいな兜を目深にかぶりなおし、髭のない顔をひとなでしただけだった。
「鉄腕ガイウス。まさか本物が来ていたとはね。抜きなさいよ、その長刀。堂々渡り合って、その首もってってやるンだから。だって“レジェンド”だもの、亡命先で再任用されンのに、いい手土産になるってもんじゃない?」
剣を探りあてたヤゴチエヌスが立ちあがった。戦場で振りまわしていた斬馬刀ではないが、この間合いならむしろ有利と踏んでいた。
カトーは長刀を引き寄せて、
「これか?」
ひょいと抜いたが、その刃はなかばで折れていた。
「な、なにぞれ?」
「これはお守りみたいなもんで、ぶらさげとると争いを避けられることもあるんよ。もともと世話になった人の得物で、ワシはこがーなもん、振れもせんで」
「……あンた、何物?本物のガイウスじゃないの?」
「それなんじゃがの。なんか勘違いしとると思うんじゃが」
「なら、死になさい!」
振りかぶった剣が唸りをあげた。人ひとり真っ二つにするには充分な、人間離れした一撃だった。
しかし……。
肩口からはいって逆の脇腹に抜けるはずの刃が、皮膚に傷すらつけられず跳ね返された。鈍く色を変じつつあるそれは、薄皮の下に血の通う人間のものではなく、岩石にも似た硬質なものになっていた。
それだけではない。さっきまで人間であった相手が、それ以外の何かに変貌しつつある。鮮血を思わせる双眸、尖った牙、全身を覆う剛毛、なによりヤゴチエヌスがさらに見上げる小山のような巨躯……。
凸凹の鍋兜が足元に転がった。それが乗っていたところ、今や剛毛が渦巻く頭部の側面にあるのは、切り株のように根元から刈り取られた双角の跡だった。
「ワシゃあ、半獣半人のクレなんたらのほうじゃ」
腹に響く声に、すくみあがって身動きもできない。思考は乱れ、息はあがり、見開いた目が恐怖の権化を凝視したまま、瞬きすらも忘れている。
「我りゃあ、この首を手土産と言うたのう」
「う……あ……」
「とことん人を道具にしか見んやつよのう。じゃけんミトラはな、ワシらの殿は、おどれが好きにしてええ道具とは違たんじゃ」
「と、殿……?」
それ以上は、もう問い返せなかった。鉤爪のならぶ巨大な掌が、ゆっくりと振りあげられていく。
「あの世で待っとれ。ワシらもじきに行くわい」
政治闘争の現実に明け暮れたヤゴチエヌスがこの世の最後に見たものは、およそ現実とは思えない、この世にあらざる“恐怖”だった。




