さようなら。
「おい、こっちだ、こっち」
戦場となった緩やかな丘陵地帯、かつての穀倉地帯の一角に、用水路を管理していた水門があり、その傍らにスキピオがいた。
水門はもう機能しておらず、開きっぱなしで役割を終えているが、煉瓦積みの管理小屋はかろうじて残っている。
勝手に居ついている先客さえいなけれは、格好の隠れ場所とはいえた。
「ワシらが言うのもなんじゃが、えらい騒ぎじゃったのう」
ミトラを抱えて走ってきたカトーが言った。
「軍隊ってのはアタマと命令系統がシャッキリしとったら、ああまで混乱せんはずじゃが」
「近衛兵団は問題外として、宦官どもも軍隊としちゃァ、たいしたことねェってことさ。当たり前だがな」
「個々の戦闘能力には驚いたがの。ヤゴチエヌスとかいう宦官の親玉、ウシケラを投げ飛ばしよったで」
「マジでか?人間かよ、そいつは」
「それより、ミトラの服じゃ」
「その前に手当てだろ。腫れてきてんじゃねェか」
スキピオは何やら軟膏を取り出して、ミトラの頬に塗ってやった。ミトラは抱えられたまま大人しくしていたが、応急措置が終わるとカトーの腕から降りた。
スキピオが荷物をまさぐって着替えを取り出し、
「大丈夫か?立てるか?ちっと冷てェが、そこの用水路で汚れたところを洗うといいぜ。ま、まァ、オレたちは気にしねェがよ」
ふたりが背を向けると、衣擦れに続いてパチャパチャと水をつかう音がした。
カトーは振り返らずに、
「驚いたじゃろう。このへんにおるウシケラの群れを見つけての、スキピオが卵を担いで逃げたんじゃ。見せたかったわい。スキピオが走りながら、死ぬー、死ぬーと叫んでのう」
「仕方ねェだろ。ウシケラトプスの群れがツノを振り回して追っかけてくるんだからよ」
「半泣きやったよのう。はははは」
「じゃあ、次はお前がやれよ。突っつかれずに逃げ切ったら拍手してやらァ」
「あがいなマネ、お前の足でないと無理じゃ」
「……というワケでな。結局はエカサでやったのと同じ手なんだが、ウシケラトプスをナセルスの正規軍に突っ込ませて、そのドサクサに紛れてお前さんを奪還するって作戦だったのさ」
「行ってみたら正規軍が宦官に変わっとったがの。ははは、はは……」
あえて陽気に喋っていたふたりは、ミトラの反応がないのを気にして、何度も振り返りそうになっていたが、
「もう、よかよ」
という声を待ちかねて振り向き、棒を呑んだような顔になった。
どうやら渡した着替えが就寝用の……というより初夜の褥で新郎を待つ花嫁の夜着だったらしく、艶やかで露出の多い立ち姿を凝視したまま、呆然として口をあんぐり、思うように言葉も出ない。
しばらく水面の魚よろしく口をパクパクさせてから、
「そ、そ、そのな。勘違いしねェでくれよ」
と、しどろもどろのスキピオが汗をかきかき、
「ね、寝巻きだなんて知らなかったんだ。へんな意味はねェからよ」
「ほーじゃ。そのー、あれよ。のう」
「適当に手ェ突っ込んだら、そいつを掴んじまったんだ。誓って、おかしな了見じゃねェ。信じてくれ。頼む」
ミトラはくすりと笑って、
「何をうろたえよっとか。ウチらはとっくに、ナニば見せおうた仲じゃなかか」
「だから、あれは……」
「それより、なんで助けてくれたと?」
そう問うミトラの顔には、これまで見せなかった表情があった。
どことなく落ち着きというか、達観してしまったかのような雰囲気がある。
「そりゃ、乗りかかった船だしよ」
スキピオは怪訝な顔をして、
「オレたちがヘタうって捕まっちまったからな。あのまま逃げたんじゃ寝覚めが悪ィや」
「ふうん」
ミトラは微笑んだ。
「ふたりは優しかね」
「そ、そんなんじゃねェけどよ……」
「ウチ、ふたりば信じる。そもそも、ふたりがいなかったらウチはとっくに死んどっと。シャモキジやホルモンを一緒に食べてくれて楽しかったばい。一度はウチを売ったけど、あとでちゃんと助けにきてくれたばい。ウチ、三回も助けられた。ふたりは優しかよ。なんにも関係ないウチによくしてくれて、本当に、本当にありがとう」
ミトラは深々と頭をさげた。
そして顔をあげたとき、晴れ晴れとした笑顔をみせて、こう言った。
「けど、ここでお別ればい」




