宦官ヤゴチエヌス
ミトラが乗る輿も投げ出されていた。
「痛た……」
御簾から這いでたミトラは、すでに近衛兵が逃げ去っているのを知った。
つい先日と同じだった。あの日も山中の旧道で、何者かの襲撃を受け、輿から転げ落ちてたところを、敵に捕まったのだった。
そして、今日……。
かわりに周囲を囲んでいるのは、長槍を携えた宦官たちだった。ミトラにとっては自分の世話をしていた者たちである。見知った顔もあった。
なかでも、存在感のきわだつ巨漢については、とくによく知っている。宦官たちを統率している人物。そして犯され、殺されそうになったあの日、行列の指揮をしていた人物。
「ヤゴチエヌス……」
ふらふらと立ちあがり、歩み寄っていこうとして、ふと、その足がとまった。真っ赤な返り血に染まった相手が、異様なものを片手にぶらさげていることに、気がついたからだった。
「……!」
それがナセルスの生首だと知って、ミトラは息をのんだ。
ヤゴチエヌスがぐるりと振り向いた。血走った眼に異様な憤怒がたぎっていた。
「ヤゴチエ……ヌス……?」
見まわせば、彼だけではなく多くの宦官たちも、刈り取った首級を長槍に提げて、不気味な笑顔をみせている。恐怖にかられながらも、ミトラはヤゴチエヌスに歩み寄っていこうとした。
「ねえ、ヤゴ……」
「お黙り」
巨大な掌に頬を張り飛ばされて、文字通りミトラは吹っ飛んだ。衝撃に目眩がするほどの平手打ちだった。
「……?」
ヤゴチエヌスは斬馬刀を配下に手渡した。配下の宦官はさも嬉しそうに、自分の袂で血を拭い、舐めるようにして磨いていた。
ヤゴチエヌスはそれを一顧だにせず、憎悪のこもる目でミトラを睨みつけた。
「こンのカマガキが、大人しく殺されてりゃよかったのに、うろちょろ逃げ回ってくれたおかげで、面倒くさいことになってンじゃないの!」
「え……」
頬をおさえて見あげると、視線を合わせただけで毒気にあてられそうな、憎悪と殺意のこもった形相があった。
「た、助けにきてくれたのと違うと……?」
「助けるもなにも、旧道でアンタを殺そうとしたスケベどもを雇ったの、あたしだから。あーあ、こんなことなら自分でぶっ殺しておくんだった」
腹に響く低い声には、耳が汚れるほどの悪意がこもっていた。
べっ、と唾を吐いてからヤゴチエヌスは言葉を続けた。
「正規兵だと思って任せたのがバカみたい。ぶっ殺すどころか自分たちがぶっ殺されちゃって、まったく、お話にもなりゃしない」
「そ、それじゃ……」
「山狩りしても見つからなくて、いつの間にかエカサの奴隷市場に出品されてるなンて、どこをうろついたらそうなるんだか。おまけにオラスマの小僧はしゃしゃり出てくるわ、どっかのデブが引っ掻き回すわ、もうイライラするったら!」
ヤゴチエヌスは腹立ち紛れか、ナセルスの首級を蹴り飛ばして、なおも憎々しげに、
「あげくに、よりにもよってナセルスに身柄をおさえられるなんて、ホンッとに役立たず!ムカつくから雇った連中、ひとり残らず斬り刻んでやったわよ。ぜんっぜんスカッとしないけど。やっぱり、このカマガキぶっ殺さないと、スカッとしないってことね!」
まさにそう!おっしゃる通り!と、周囲をとりまく宦官たちが、口々に賛同の声をあげた。
「な、なんで……?」
「なんで?なんでっつった?馬っ鹿じゃないの?生きてたら邪魔だからに決まってるでしょ?」
「え……ウチ、生きとったら邪魔と……?」
「ホノリスを激推しして、王太子ほぼ確までこぎつけたのはいいンだけど、ナセルスがアンタの正体を嗅ぎつけやがってさ。そうなりゃもう、ぶっ殺すしかないでしょ?」
と、さも当然のことを言うように、
「まあ先にナセルスをぶっ殺しちゃったンだけど。けど、やっぱりアンタもぶっ殺されてくれる?だって、そのほうが後々の心配がないんだもの」




