第九話「話が違う」
答えは、思っていたよりずっと近くにあった。
「隣領の帳簿を見せてください」
私がそう言ったとき、殿下は書類から顔を上げた。
「隣領?」
「ハーグレイ領です。リンドル伯爵領の東隣」
「なぜ」
「リンドル伯爵は、季節労働者を隣領から雇ったと申告しています。契約書の写しも揃っています」
私は自分の手元の紙を、指で叩いた。
「でも、契約というのは二人でするものです。伯爵が書類を作れるのは、自分の側だけ」
殿下の目が、わずかに見開かれた。
それから、椅子から立ち上がった。
「ユリウス」
「はい」
「ハーグレイ領の記録を、今すぐ」
「かしこまりました」
卿が部屋を出ていく。扉が閉まる音を聞きながら、私は少しだけ震えた。
三日かかった。
三日、ずっと同じところをぐるぐる回っていた。書類が完璧なら、書類の外を見るしかない。そんな簡単なことに、三日もかかった。
でも、たどり着いたのは私だ。
記憶ではなく。
二度分の記憶が教えてくれたのは「リンドル伯爵が横流しをしている」という結果だけで、それをどう暴くかは、どこにも書いていなかった。だから今この瞬間だけは、正真正銘、私が考えた。
そう思ったら、指先の震えが少しだけ心地よくなった。
ハーグレイ領の記録が届いたのは、二日後だった。
照合には半日かかった。半日で、十分だった。
「……ありません」
私は顔を上げた。
「ハーグレイ領の側に、労働者を送り出した記録が一件もありません。それどころか」
私はもう一枚を重ねた。
「ハーグレイ領も昨年、流行り病で人手を失っています。送り出す余裕など、どこにもなかった」
殿下が、目を閉じた。
しばらくそうしていて、それから開いた。
その目の色が、変わっていた。
「ユリウス。リンドル伯爵に召喚状を」
「罪状はいかがいたしましょう」
「まだ書くな。本人の口から聞く」
リンドル伯爵は、三日後に王宮へ来た。
小柄で、恰幅がよく、笑顔の絶えない男だった。一度目にも二度目にも、私はこの男を社交の場で何度か見ている。いつも誰かに囲まれて、いつも笑っていた。翌年に東部で人が死ぬことになる原因が、この笑顔の中にあるとは、当時の私は考えたこともなかった。
執務室に通された伯爵は、殿下に恭しく頭を下げ、それから私を見て、少し首を傾げた。
「これは……殿下の御婚約者殿でいらっしゃいますな。このような場に、ご令嬢が」
「同席させている」
「はあ」
伯爵は曖昧に笑った。
その笑い方を、私は知っている。
害はないと判断された者に向ける笑い方だ。
「伯爵」
殿下が言った。
「東部の作付けについて、いくつか確認したい。答えは、こちらの者が聞く」
こちらの者。
私は一瞬、自分のことだと分からなかった。
殿下がこちらを見ていた。目線だけで、どうぞ、と言われた気がした。
伯爵の顔から、笑みが少し引いた。
「……令嬢が、でございますか」
「不服か」
「いえ、めっそうもない。ただ、帳簿の話となりますと、細かいことも多く。お嬢様には少々——」
「セルバンテスと申します」
私は名乗った。
「伯爵。昨年、貴領の作付け面積が一割増えております。増えた分の人手は、どちらから」
伯爵は、間を置いてから答えた。
「隣のハーグレイ領から、季節の者を雇いましてな」
「何名ほど」
「さて。二百は超えていたかと」
「契約書がございます」
私は一枚差し出した。
「二百四十七名。相違ありませんか」
「ええ、ええ。その通りです」
「ハーグレイ領の記録には、送り出しの記載が一件もありません」
伯爵の笑顔が、止まった。
「……手違いでしょうな。あちらの管理が杜撰なのは有名な話で」
「では、こちらは」
私は二枚目を出した。
「ハーグレイ領の昨年の人口記録です。流行り病により、領内の働き手が三割近く減っております。二百四十七名を送り出す余力は、どこにもありません」
「…………」
「三枚目を出してもよろしいですか」
「結構」
「同時期の街道の通行記録です。ハーグレイからリンドルへ、二百人規模の人の移動は記録されておりません。逆に——」
私は紙を置いた。
「リンドル領から王都方面へ、申告のない荷が、十七回。すべて夜間です」
執務室が、静かになった。
伯爵は、私を見ていた。
もう、首を傾げてはいなかった。
「……お嬢様は、ずいぶん帳簿がお好きらしい」
絞り出すような声だった。
「商人の娘のような真似を、貴族のご令嬢がなさるものではありませんぞ」
私は、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「なんですと」
「褒め言葉として受け取ります。商人は数字を誤魔化しません。誤魔化せば潰れますから」
伯爵の顔が、赤くなった。
この瞬間のために、と思った。
一度目に、東部で人が死んだ。二度目にも、同じことが起きた。私はどちらのときも、それを翌年の噂話として聞いただけだった。遠い場所の、遠い出来事として。
どうすることもできなかった。知らなかったから。
でも今回は、知っていた。
知っていて、間に合った。
「伯爵」
殿下が、静かに言った。
「私が聞きたいのは、あと一つだけだ」
伯爵が、はっと顔を上げた。
「横流しの相手は、どこの誰だ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて伯爵が、震える声で言った。
「……話が、違う」
私は、耳を疑った。
殿下の眉が、動いた。
「何が違う」
「い、いえ。何も」
「伯爵」
「何も申しておりません」
伯爵はそれきり、口を開かなかった。
衛兵に連れられて出ていくとき、彼は一度だけ振り返った。
私を見たのではなかった。
部屋のもっと奥、壁の方を見ていた。そこには誰もいなかった。
扉が閉まってから、私は長い息を吐いた。
手のひらが汗ばんでいた。三枚の紙を出しただけなのに、走ったあとのように心臓が鳴っている。
「エリナ」
「はい」
「見事だった」
殿下がそう言った。
私は返事ができなかった。
嬉しさよりも先に、別のものが胸に来ていた。何だろう、これは。
——ああ。
安堵だ。
今年、東部で人は死なない。
二度目までは死んだ。三度目は死なない。私が変えた。この世界で、たった一つだけれど、確実に。
目の奥が熱くなって、私は慌てて帳簿を見るふりをした。
「泣くほどのことか」
「泣いていません」
「そうか」
殿下は追及しなかった。代わりに、椅子に深く座り直した。
「……あの男、妙なことを言ったな」
私も、それは思っていた。
「『話が違う』と」
「ああ」
殿下がペンを取って、指の中で一度回した。
「捕まる者は普通、『なぜ分かった』と聞く。あるいは黙る。だが、あの男は違った」
灰色の目が、扉の方を見ていた。
「『話が違う』と言った。——約束していた者がいる、ということだ」
背筋が、冷たくなった。
一度目も二度目も、リンドル伯爵の横流しは翌年に発覚した。翌年まで、誰も気づかなかった。
いや。
気づかなかったのではなく——気づかせなかったのだとしたら。
「殿下」
「なんだ」
「あの方が最後に振り返ったとき、誰かを見ようとしていました」
「私も見た」
殿下は静かに言った。
「そこには誰もいなかった。だが、あの男の頭の中には、誰かがいる」
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
私は膝の上で、両手を組んだ。
小さな勝利だった。確かに勝った。今年、誰も飢えない。
でも扉の向こうに、もっと大きくて、もっと暗いものが立っている気配がした。
二度分の記憶にも、その影は映っていない。




