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第十話「祝いの席で」

 摘発から五日後、ささやかな席が設けられた。


 祝宴と呼ぶには小さすぎる。執務室に運び込まれた木箱がようやく片付いて、その空いた場所に卓が一つ据えられただけだ。集まったのは殿下とユリウス卿、記録係の文官が二人、それに私。

「東部の民に代わって、礼を言う」

 殿下がそう言って杯を掲げた。

 文官たちが恐縮している。ユリウス卿が「殿下がそういうことをおっしゃると皆が困ります」と眼鏡を押し上げた。笑いが起きた。

 私も笑った。

 笑いながら、少しだけ、変な気持ちになっていた。

 この部屋に、私の席がある。

 当たり前のようにそこにあって、誰も不思議に思っていない。ユリウス卿は私の分の杯を用意していたし、文官たちは私に「エリナ嬢のおかげです」と頭を下げた。

 一度目にも二度目にも、こんな場所はなかった。

 私はいつも、客だった。

 招かれて、微笑んで、頃合いを見て帰る。それが婚約者の仕事だった。誰かの輪の中に自分の椅子があったことなど、一度も。

「エリナ嬢は、次はどちらの帳簿を暴かれるので」

 文官の一人が、酒の勢いで言った。

「暴くだなんて」

「いやいや、あの三枚は見事でした。伯爵の顔ときたら」

「私はやめてくださいと申し上げたんですよ」

 ユリウス卿が言う。

「令嬢に尋問をさせるなど前例がないと。殿下は聞かれませんでしたが」

「前例がないだけだろう」

 殿下が短く言った。

「そういうところですよ、殿下」

 また笑いが起きた。

 私は杯を口に運びながら、ふと思った。


 この人たちは、私が半年後にいなくなることを知らない。


 いや——半年後かどうかも分からない。一度目は二年、二度目は一年半だった。三度目がいつ終わるのか、私にも分からない。

 でも終わることだけは知っている。

 私だけが、知っている。


 ……やめよう。

 私は杯を置いた。今日は、そういう日ではない。

 文官たちが先に退がり、ユリウス卿も「後片付けは明日にいたします」と言って出ていった。

 残ったのは、私と殿下だけだった。

 窓が開いていた。夜風が入ってきて、燭台の火を揺らしている。

「座っていろ」

 殿下がそう言って、自分で杯に水を注いだ。私の分も。

 王太子が水を注いでいる。

 止めるべきだったのに、私は見ていた。

「……ありがとうございます」

「礼を言われることではない」

 殿下は自分の椅子に戻って、背にもたれた。

 珍しく、少し崩れた座り方だった。

「今日は、よく笑っていたな」

「え」

「君が」

 私は自分の顔に手をやりかけて、やめた。

「……そうでしょうか」

「儀式の日の笑い方とは、違った」

 心臓が、ゆっくり鳴った。

「どう違いましたか」

「あのときは、完璧だった」

 殿下が言った。

「今日は、崩れていた」

 崩れていた。

 言われて、思い当たった。文官の冗談に、私は声を出して笑った。杯を持ったまま、口元を隠しもせずに。三度分の練習を積んだ完璧な笑顔は、あの瞬間どこかへ行っていた。

「……はしたなかったでしょうか」

「いや」

 殿下が首を振った。

「ずっと、それが見たかった」

 風が、燭台の火を大きく揺らした。

 私は、動けなかった。

 ずっと。

 この人は今、ずっと、と言った。

 三度目が始まってから、まだ二か月も経っていない。二か月を「ずっと」とは呼ばない。呼ぶとしたら、それは——

「殿下」

 声が、掠れた。

「…殿下は」

 聞いてしまう。

 このままだと、聞いてしまう。

 あなたは覚えているのですか、と。何度目だと思っている、と言ったのはどういう意味ですか、と。焼き菓子を懐かしいと言ったのはなぜですか、と。

 喉まで来ていた。あと一息で、出る。

 出たら、どうなる。

 ——そこで、想像してしまった。

 殿下が、困った顔をする。何を言っているのか分からない、という顔で。あるいは優しく笑って、「君は疲れているな」と言う。医師を呼ぼうか、と気遣ってくれるかもしれない。この人なら、そうする。

 そして私は、笑ってごまかす。冗談ですと言って、杯を持ち上げて、話題を変える。

 そのあと、一人になった部屋で、何を思うだろう。

 ……無理だ。

 耐えられない。

 二度分の裏切りには耐えた。でもこれは、種類が違う。裏切られるのではなく、私が一人で勝手にやっていたのだと確定することだ。

 そんなもの、どう抱えて残りの半年を過ごせばいい。

「エリナ?」

「……いえ」

 私は杯を取って、水を飲んだ。

 冷たかった。喉を通っていく感触で、少しだけ現実に戻った。

「なんでもありません」

「言いかけただろう」

「言いかけて、やめました」

 私は笑顔を作った。

 完璧な方の笑顔だった。三度分の練習が、こういうときだけは役に立つ。

 殿下の表情が、変わった。

 怒ったわけではない。責めるわけでもない。ただ、何かが静かに引いていくような——閉まる音のしない、扉が閉まるような。

「……そうか」

 それだけ言って、殿下は杯を置いた。

「遅い。送らせよう」

「一人で戻れます」

「送らせる」

 声が、少し硬かった。

 私は立ち上がって、礼をした。


 扉に向かう途中で、一度だけ振り返った。

 殿下は座ったまま、窓の外を見ていた。

 その横顔に、私は見覚えがあった。

 一度目の終わり頃、この人はよくその顔をしていた。何かを言おうとしてやめる顔。私が「どうしましたか」と聞くと、「なんでもない」と答える顔。

 当時の私は、それを他の女のことだと思っていた。

 今、初めて分かった。

 あれは——待っている顔だ。

 こちらが何かを言うのを、待って、諦める顔。

 扉が閉まった。

 廊下を歩きながら、私は自分の手のひらを見た。

 汗をかいていた。

 逃げた、と思った。

 自分から一歩踏み出しておいて、次の一歩で逃げた。ショールを掛けておいて、言葉ひとつ渡せなかった。

 どちらも本当の私だ。踏み出したのも、逃げたのも。

 情けないとは思わなかった。

 思えるほど、余裕がなかった。


 自室の扉を閉めて、私はその場にしゃがみ込んだ。

 リムが慌てて駆け寄ってくる音がした。

「エリナ様!?」

「……大丈夫」

「全然大丈夫じゃないお顔をしています」

 昔と同じ台詞だった。

 私は少し笑って、それから、リムの膝に額をつけた。

 情けない、と今度は思った。

「リム」

「はい」

「私、あの人に何を期待しているんだと思う」

 リムは、少し考えてから答えた。

「……エリナ様が一番よくご存知では」

「知らないから聞いているのよ」

「じゃあ、逆に伺いますけど」

 リムの手が、私の頭に置かれた。

「今日、何を聞きたかったんですか」

 私は答えられなかった。

 答えられないのではなく、答えが一つしかないと分かっていたからだ。


 ——私を、覚えていますか。


 二度分の私を。捨てた私を。それでも待っていた私を。

 その問いが、どれだけ滑稽で、どれだけ縋っているか。

 私は自分でよく知っている。

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