第十一話「三年」
手紙は、花束に隠されていた。
摘発の礼だと言って、モーア侯爵家から届いたものだった。白い薔薇の間に小さく折り畳まれた紙が挟まっていて、それを見つけたのはリムだ。
『明後日の午後、聖堂の裏の小さな礼拝室に。侍女はお連れにならないで』
署名はなかった。
「行かれるんですか」
リムが眉をひそめた。
「行くわ」
「危険では」
「たぶん、逆よ」
私は紙を折り直した。
「侍女を連れるなというのは、私の侍女のことじゃない。……あの人の侍女のことよ」
礼拝室には、先客がいた。
薄暗い部屋だった。窓が一つきりで、そこから斜めに光が落ちている。長椅子が三列だけ並んだ、王宮の中でも忘れられたような場所。
セシリア・ラ・モーアは、一番前の席に座っていた。
振り返った彼女の顔を見て、私は少し驚いた。
化粧をしていなかった。
「……来てくださったのですね」
「ええ」
「ここは、月に一度しか人が来ません。祈りの当番の司祭が、私の乳母の縁者で」
セシリアは、力なく笑った。
「王宮で、見張られていない場所を探すのに、三年かかりました」
三年。
私は言葉を失った。
隣に座っていいものか迷って、結局一つ空けて腰を下ろした。
「エリナ様」
「はい」
「先日は、失礼をいたしました。あのとき、申し上げようとしたことがあります」
「殿下のこと、でしたね」
「はい」
セシリアは膝の上で手を握った。骨が浮くほど強く。
「私は、殿下のお心を引くよう、言いつけられております」
部屋の空気が、止まった気がした。
「……どなたに」
「名前は、存じません」
「ご存じない?」
「私に話を持ってくるのは、いつも取り次ぎの者です。顔は見たことがありますが、名も家も知りません。父は知っているはずですが、教えてくれません」
彼女は視線を落とした。
「モーア家は、七年前に傾きました。表向きは持ち直したことになっておりますが、あれは借財ではなく——肩代わりです。どなたかが、うちの負債を引き受けてくださった」
「……見返りに」
「私です」
あっさりと、彼女は言った。
「王太子の隣に立つこと。それが返済の条件です。私は、そのために磨かれました。歌も、踊りも、話し方も。何が殿下のお好みかを調べて、それに合わせて」
私は、彼女の横顔を見ていた。
黄金色の髪。整った鼻筋。夜会で会場の空気を変えた美しさ。
全部、作られたものだったのか。
「エリナ様」
セシリアがこちらを向いた。
「私、三年やって、一度も成功しておりません」
「……え」
「殿下は、私をご覧になりません」
彼女の口元が、歪んだ。笑おうとして失敗したような形だった。
「茶会で隣の席を用意させました。楽の会で独奏の機会を作りました。先日の夜会も、私が入る時刻まで指定されておりました。——全部、無駄でした。あの方は一度も、私の方をご覧にならない」
私は、動けなかった。
三年。
一度もない。
でも。
一度目では、成功していた。二度目でも。
同じ人が、同じ指示で、同じことをして。二度は成功して、三度目だけが失敗している。
何が違う。
違うものは、一つしかない。
——殿下だ。
殿下だけが、違う。
「……エリナ様? お顔の色が」
「いえ」
私は首を振った。
「続けてください」
「……はい」
セシリアは息を吸った。
「先日、取り次ぎの者に言われました。『そろそろ結果を出せ』と。今までは急かされたことがなかったのに、急に」
「時期は」
「東部の件で、伯爵が捕らえられた直後です」
背筋が、冷たくなった。
リンドル伯爵の「話が違う」。
あの言葉と、この催促。
繋がっている。
「モーア様」
「セシリアと」
「え」
「セシリアと、お呼びください」
彼女は真っすぐ私を見ていた。
「私は、あなたに嫌われていて当然の人間です。あなたの婚約者を奪うために三年かけて磨かれた女です。それでも——名前で呼んでいただけませんか」
私は、すぐには答えられなかった。
この人を、二度分憎んできた。
一度目、殿下の隣にいたのはこの人だった。二度目もそうだった。私は二度、この人の後ろ姿を見送った。名前を聞くだけで胃が縮むような時期が、確かにあった。
その憎しみを、いま返せと言われている。
返す先が、どこにもない。
この人は選んでいない。選ばれてもいない。ただ、七年前に家ごと買われて、三年かけて磨かれて、一度も成功しないまま急かされている。
それは、私が二度分ぶつけてきた感情を、どこにも置けなくするということだ。
——ずるい、と思った。
こんなの、憎み方が分からない。
「……セシリア様」
私は言った。
「はい」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「なんなりと」
「あなたは、殿下をお慕いしていますか」
セシリアは、少し目を見開いた。
それから、静かに首を振った。
「存じません」
「存じない?」
「慕うことを、命じられておりますので」
彼女の声は、平坦だった。
「命じられた気持ちが、自分のものかどうか。三年考えて、分かりませんでした。ですから——存じません、としか」
私は、目を閉じた。
この人は、自分の心を確かめる権利すら持っていない。
私は少なくとも、自分の気持ちが自分のものだとは知っている。認めたくないだけで、誰かに命じられたわけではない。
その差は、たぶん、途方もなく大きい。
「セシリア様」
「はい」
「協力していただけませんか」
彼女が、息を呑んだ。
「私は——」
「あなたを信用します、とは申しません」
私は言った。
「二度も三度も裏切られてきた人間なので、信用という言葉を軽く使えません。でも」
言葉を選んだ。
「あなたを利用したくない。それだけは、はっきりしています」
セシリアの目が、揺れた。
「……利用、なさらないのですか」
「されてきた人を、また使うのは趣味が悪いでしょう」
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、両手で顔を覆った。
声は、出さなかった。肩だけが、小刻みに動いていた。
私は何も言わずに、隣に座り直した。一つ空けていた席を、詰めて。
窓から落ちる光が、少しずつ角度を変えていった。
やがてセシリアが、顔を上げた。目の縁が赤かったが、拭う仕草はしなかった。
「エリナ様」
「はい」
「取り次ぎの者は、次の指示を持ってまいります。近いうちに」
「ええ」
「その内容を、あなたにお伝えします」
彼女は、はっきりと言った。
「私は名も家も知りません。ですが、指示の中身は分かります。何をさせたいかが分かれば、何を狙っているかも見えるはずです」
この人は、頭がいい。
二度分の記憶の中で、私はこの人を「美しいだけの女」として片付けていた。憎むために、そう思いたかったのだと思う。
私は、本当に何も見ていなかった。
「セシリア様」
「はい」
「危険では」
「危険です」
あっさり答えられた。
「ですが、三年ぶりに自分で決めたことです。少しくらい、危なくていい」
礼拝室を出るとき、彼女が最後に言った。
「エリナ様。ひとつだけ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたは、なぜそんなに——」
言いかけて、彼女は少し首を傾げた。
「疲れていらっしゃるのですか」
私は、笑った。
今度は完璧な笑顔ではなかった。
「三度目だからです」
「……三度目?」
「こちらの話です」
私は礼をして、先に部屋を出た。
廊下は明るかった。
二度分の憎しみが、行き場を失って胸の中に転がっている。
でも不思議と、軽かった。




