第十二話 「前の二度は」
薔薇は、三日おきに届いた。
モーア侯爵家からの見舞いということになっていた。摘発の礼が一度、季節の挨拶が一度、その次は理由すら書かれていなかった。
花瓶を換えるのはリムの仕事だ。茎を切るふりをして、折り畳まれた紙を抜き取る。
「エリナ様。あの方、字がお綺麗ですね」
「そうね」
「あと、だんだん雑になってます」
私は紙を受け取って、見た。
確かに、最初の一枚に比べて線が乱れていた。急いで書いたのか、それとも——
「……手が震えているのね」
三通目の紙には、こう書かれていた。
『取り次ぎが参りました。明日、いつもの場所へ』
礼拝室のセシリアは、前より痩せて見えた。
化粧はしていた。今度は、隠すためのものだと分かった。目の下が暗い。
「お待たせいたしました」
「お顔の色が」
「眠れておりませんの」
彼女は軽く言って、長椅子に腰を下ろした。私は今度は、隣に座った。
「指示が変わりました」
「変わった」
「はい」
セシリアは膝の上で手を組んだ。
「これまでは、殿下のお心を引け、でした。今回は違います」
一拍、間があった。
「——婚約者を、退かせろ、と」
礼拝室の空気が、冷たくなった気がした。
「私を」
「はい」
「殺せ、ではなく」
「そこまでは申しません。あの方たちは、血を嫌います。表沙汰になることを何より嫌う」
セシリアの声は、事務的だった。三年、そういう話を聞かされてきた人の声だった。
「自ら退くように仕向けろ、と。婚約を、あなたの側から辞退させろ、と」
私は、しばらく黙っていた。
自ら退く。
なるほど、と思った。追い出すのではなく、自分から出ていかせる。そうすれば誰の手も汚れないし、王家の醜聞にもならない。ただ「令嬢が身を引いた」という話が残るだけだ。
上手いやり方だ。
そして——一度目も二度目も、私は最後には自分から身を引いた。
破棄を告げられたあと、泣いて縋りもせず、恨み言も言わず、綺麗に辞退の書状を出した。それが令嬢の作法だと思っていた。
あれも、そうだったのだろうか。
「エリナ様」
「……はい」
「これを」
セシリアが、折り畳んだ紙を差し出した。
「取り次ぎの者が置いていきました。書き付けです」
受け取って、開いた。
几帳面な字だった。表題も署名もない。ただ箇条書きだけが並んでいる。
『セルバンテス嬢について』
一行目を読んだところで、指先が冷たくなった。
『一、当人は自らを聡いと思っている。聡さを否定されると、自ら退く』
喉の奥が、締まった。
当たっている。
三日かかって隣領の帳簿に思い至ったとき、私は指先が震えるほど嬉しかった。記憶ではなく自分の頭で辿り着いたのだと、そのことに救われていた。あれを「たまたまでしょう」と笑われていたら、私はきっと二度と口を開かなかった。
この人たちは、それを知っている。
『一、当人は誰にも頼らぬことを誇りとしている。頼れる相手を減らせば、判断が鈍る』
『一、当人は東部の商いに詳しい。父の帳簿を幼少より読んでいるため』
息が、浅くなった。
父の帳簿を幼少より読んでいる。
誰にも言ったことがない。父ですら忘れているような話だ。私が八つの頃、屋敷の書斎に忍び込んで、数字を眺めるのが好きだった。それだけの、誰の記憶にも残らない子どもの遊び。
なぜ、これを知っている。
『一、当人は婚約に期待していない。既に諦めている』
紙を持つ手が、震え始めた。
『一、よって、期待を持たせてから折るのが最も効く』
私は、その一行を二度読んだ。
期待を持たせてから、折る。
——では。
この二か月は、何だったのだろう。
婚約初日の「ずっと探していた」も。夜の執務室の「また明日」も。ショールを丁寧に畳んだ手も。「ずっと、それが見たかった」も。
全部、この一行の通りに進んでいる。
いや。違う。
違うはずだ。あれは仕組まれたものではない。あの人は——
根拠は、と自分に問い返して、答えられなかった。
私が持っているのは「そうであってほしい」という願いだけだ。二度分の記憶ですら、この人の何ひとつ保証してくれない。
それでも、と思った。
それでも違う、と思いたい自分がいることが、この紙を書いた誰かの計算の内側にいる証拠のような気がして、私は目を閉じた。
「……エリナ様?」
セシリアの声が、遠かった。
私は最後の一行を読んだ。
そこには、こうあった。
『前の二度は放置で足りた。今回は退かせろ』
時間が、止まった。
前の、二度は。
放置で、足りた。
紙の上の文字が、輪郭を失ってぼやけた。目の焦点が合わないのではない。手が震えているせいだと、少し遅れて気づいた。
「エリナ様!」
セシリアが私の腕を掴んだ。
「お顔が真っ白です。どうなさいました」
「……この、最後の行は」
「はい」
「どういう意味だと、思われますか」
セシリアは紙を覗き込んで、少し首を傾げた。
「前の二度、というのは……過去に二度、似た婚約があったということでしょうか。王太子殿下の婚約は今回が初めてのはずですが」
「そうですね」
「他家の話と混ざったのかもしれません。あの方たちは、いくつも手を回しておりますから」
違う。
そう言いたかった。
違う。これは私の話だ。一度目と二度目の私の話だ。私が二年で捨てられて、一年半で捨てられて、どちらも自分から身を引いた、あの二度の話だ。
放置で足りた、というのはそういう意味だ。
何もしなくても、私は勝手に消えた。
でも今回は消えない。だから手を打て、と書いてある。
——誰かが、覚えている。
殿下だけではない。
この繰り返しを、他にも知っている者がいる。
しかも、私を「放置で足りた」と書ける側に。
「セシリア様」
「はい」
「この紙、お預かりしても」
「もちろんです。そのつもりで持ってまいりました」
彼女は少し身を乗り出した。
「ただ、写しを取られたら困ります。私が渡したと知れれば——」
「知られません」
私は紙を畳んだ。
「これは、誰にも見せません」
言ってから、自分の言葉に引っかかった。
誰にも。
本当に?
殿下にも?
礼拝室を出て、廊下を歩いた。
足が勝手に、執務室の方へ向かっていた。
考えがまとまらないまま、歩きながら並べてみる。
この紙を見せれば、殿下は動く。黒幕の存在が確実になる。調査は前に進む。
でも、見せれば必ず聞かれる。
最後の一行は何のことか、と。
あの人はもう気づいている。焼き菓子のとき、「初めて食べた気がしない」と言った人だ。この紙を読めば、必ず引っかかる。そして、私に聞く。
答えるということは、全部言うということだ。
三度目です、と。
あなたは二度、私を捨てました、と。
——言えるはずがない。
言えるはずがないのに、足は止まらなかった。
回廊の角を曲がった。執務室の扉が見えた。
その前に、人が立っていた。
殿下だった。
扉に手をかけたまま、こちらを見ていた。まるで、私が来るのを知っていたように。
いや——待っていたのだ。
どれくらいそこにいたのかは分からない。ただ、その顔には見覚えがあった。
一度目の終わり頃、この人がよくしていた顔。
何かを言おうとして、やめる顔。
でも今日は、やめなかった。
「エリナ」
殿下が言った。
「話がある」
私は立ち止まった。
手の中で、紙が硬く畳まれたままだった。
「……私も、です」
声が、掠れた。
殿下が扉を開けた。
「入ってくれ。——長い話になる」
(第二章 終わり)




