第十三話 「知っている顔」
執務室には、燭台が二つしか灯っていなかった。
いつもは書類で埋まっている机の上が、今日は片付いていた。ただ一枚、紙が置かれている。
「座ってくれ」
私は言われた通りにした。手の中の書き付けは、袖に隠したままだった。
殿下は座らなかった。机の向こうに立って、その一枚の紙を見下ろしている。
「先に、こちらの話をさせてほしい」
「……はい」
「聞いたあとで、君が私を疑ってもいい。狂っていると思ってもいい。ただ、最後まで聞いてくれ」
この人がこんな前置きをするのを、私は知らない。
二度分の記憶のどこにも、ない。
「これを」
紙が、こちらへ滑らされた。
受け取って、開いた。
箇条書きだった。几帳面な、見覚えのある筆跡。
『理由なく知っていること』
一行目を読んで、息が止まった。
『一、セルバンテス家の焼き菓子の味。食したことはない』
『一、彼女は緊張すると、帳簿の角を指で撫でる』
『一、彼女の「大丈夫です」は、大丈夫ではないという意味である』
『一、彼女は雨の日、少し歩くのが遅い』
紙を持つ手が、動かなくなった。
雨の日。
私は雨の日、少しだけ足を引く。子どもの頃に階段から落ちて、右の膝を痛めたことがある。とうに治っているけれど、湿った日にはわずかに響く。
言ったことはない。父も母も知らない。リムだけが知っていて、それも私が頼んだわけではなく、勝手に気づいただけだ。
この人に、言うはずがない。
二度分の人生でも、一度も。
「……殿下」
「まだある」
殿下が言った。
私は次の行を読んだ。
『一、彼女は必ず、私の前からいなくなる』
燭台の火が、揺れた。
『一、それが二度あったことを、私は知っている。覚えてはいない』
「——っ」
紙が、膝に落ちた。
拾おうとして、手が言うことを聞かなかった。
「エリナ」
殿下が机を回って、こちらへ来た。
でも、触れなかった。少し離れたところで足を止めて、そのまま立っていた。
「順に話す」
その声は、驚くほど静かだった。
「一年ほど前から、妙なことが起き始めた。初めて行く場所を知っている。初めて会う人間の癖を知っている。最初は疲れているのだと思った。医師にも診せた。異常はなかった」
「…………」
「そのうち、規則性に気づいた。全部、君に関わることだった」
私は、顔を上げられなかった。
「君の名を初めて聞いたのは、去年の冬だ。婚約の候補として、名簿の中に一行あっただけだった。会ったこともない令嬢の名だ」
殿下が、少し息を吐いた。
「その一行を見た瞬間に、私は泣きそうになった」
膝の上で、指が震えた。
「意味が分からなかった。分からないまま、その名を三日眺めた。それから、他の候補を全部断った」
……三日。
私が知らないところで、この人は三日、私の名前を見ていた。
「儀式の日、君が入ってきた。顔を見て、確信した」
殿下の声が、初めて少し掠れた。
「この顔を、私は知っている。話したことも、触れたこともないのに、知っている。しかもそれが——もう終わった記憶として、頭の中にある」
終わった記憶。
「だから聞いた。何度目だと思っている、と」
私は、両手で顔を覆った。
あの日、儀式の最中に投げられた問い。あれからずっと、私の頭を離れなかった一言。
あれは、確かめる言葉ではなかった。
あれは——
「……助けを、求めていらしたのですか」
私は言った。
声が、自分のものではないみたいだった。
殿下は、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「エリナ」
「はい」
「君が三度目だと言う前から、私は感じていた」
顔を上げた。
灰色の目が、真っすぐ私を見ていた。あの婚約初日と同じ目だった。切迫していて、少しも余裕がない、王太子らしくない目。
「何が起きているのかは分からない。なぜ私が知っているのかも分からない。だが、これだけは分かる」
殿下が、言った。
「二度、間に合わなかった。だから今度こそ、間に合いたかった」
——間に合わない。
あの夜、机に突っ伏して眠っていた人の口から零れた、意味も文脈もない四文字。
文脈は、ここにあった。
私は、泣かなかった。
泣けなかった、と言うほうが正しい。胸の中で何かが膨れ上がって、喉のところで詰まって、涙になる手前で止まっていた。
嬉しさではなかった。
安堵でもなかった。
名前のつけようがない、ただ重たいものだった。
「殿下」
「ああ」
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「なんでも」
「一度目の私が、どんな顔で最後の書状を書いたか、ご存知ですか」
殿下が、口を開いた。
そして、閉じた。
長い沈黙があった。
「……知らない」
やがて、そう言った。
「二度目の私が、何を言われて捨てられたかは」
「知らない」
「私がいなくなったあと、あなたが何をしていたかは」
「知らない」
殿下は、三度そう言った。
声が、少しずつ小さくなっていた。
「私が知っているのは、こういうことだけだ」
殿下は、机の上の紙を指した。
「菓子の味。歩き方。笑い方。——君が消えたという、事実だけ」
私は、目を閉じた。
そうか。
この人は、覚えていない。
覚えているのは、私の輪郭だけだ。
二度分の私が何を思って、どんなふうに傷ついて、どんな夜を過ごしたか。そういうものは、何ひとつ持っていない。
それでも、この人は。
名簿の一行で泣きそうになって、他の候補を全部断って、儀式の場で確かめようとして、一年間ずっと、理由の分からない確信だけを抱えて生きてきた。
——ずるい。
こんなの、どう受け止めろというのだろう。
「エリナ」
殿下が言った。
「教えてくれ」
その一言が、部屋に落ちた。
「君が知っていることを。私が知らないことを。……頼む」
王太子が、頼む、と言った。
言わせてしまった。
私は、袖の中の書き付けを握った。
紙の角が、手のひらに食い込んだ。
——期待を持たせてから折るのが最も効く。
あの一行が、頭の中で光った。
違う。この人は違う。
そう思いたい。思いたいけれど、その「思いたい」こそが、あの紙を書いた誰かの狙いだったとしたら。
もし今、全部を話して。
この人が本当は覚えていて、私を試していただけだったら。
あるいは——この人の「知っている」が、誰かに仕込まれたものだったら。
私はもう、立ち上がれない。
三度目で、終わりだ。
「……少し」
私は言った。
「少し、時間をいただけませんか」
殿下の表情が、動かなくなった。
怒りではなかった。落胆ですらなかった。ただ、何かがゆっくりと降りてくるような顔だった。
……ああ。
その顔も、知っている。
一度目の終わり頃、この人がしていた顔だ。
「……そうか」
殿下は言った。
「分かった」
「殿下、あの、これは」
「いい」
彼は首を振った。
「二度、間に合わなかった男が、一度で信じてもらえると思うほうがどうかしている」
私は、何も言えなかった。
殿下は机に戻って、紙を一枚取り上げた。『理由なく知っていること』と書かれた、あの紙を。
そして、私の方へ差し出した。
「持っていけ」
「え」
「君のものだ。……全部、君のことしか書いていない」
私は受け取った。
部屋を出るとき、一度だけ振り返った。
殿下は、窓の外を見ていた。
待っている顔で。




