第十四話 「間に合うという言葉」
四日、呼ばれなかった。
執務室には毎日行った。書類も渡された。殿下は普通に話しかけてきたし、必要な指示も出した。
ただ、それだけだった。
「エリナ嬢。この分は、私が引き取ります」
五日目の朝、ユリウス卿がそう言って、私の机から帳簿の束を持っていった。
「あの、それは私が」
「殿下のご指示です。エリナ嬢の負担を減らすようにと」
卿は少し困った顔をした。
「……ご心配なさっているのだと思います」
私は、笑顔で頷いた。
完璧な笑顔だった。
自室に戻ってから、私はしばらく窓辺に立っていた。
負担を減らす。
その言葉を、頭の中で何度も転がした。
一度目のときも、同じことを言われた。
婚約して一年半が過ぎた頃だ。社交の席が減った。届く書状が減った。「君は無理をしすぎる」と言われて、私は気遣われているのだと思った。
半年後、婚約は終わった。
二度目も似ていた。始まりは、いつも「君のためだ」だった。
「エリナ様」
リムが後ろに立っていた。
「なに」
「お顔が」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないお顔をしています」
私は振り返らなかった。
窓の外では、庭師が薔薇の枝を切っていた。伸びすぎた枝を落として、形を整えている。切られた枝は籠に集められて、そのまま運ばれていく。
「……リム」
「はい」
「私、あの人の紙を、まだ持っているの」
「『理由なく知っていること』の」
「ええ」
毎晩読んでいる、とは言わなかった。言わなくてもリムは知っている顔をしていた。
「雨の日に歩くのが遅い、って書いてあったわ」
「はい」
「膝のこと、あなたしか知らないのに」
「はい」
「……なのに、あの人は私が何を考えているかは何ひとつ知らない」
庭師が籠を持ち上げた。
「知らないまま、私を遠ざけようとしている」
その日の夕方、私は執務室の扉を叩いた。
中には殿下一人だった。ユリウス卿は席を外していた。
「エリナ。どうした」
「帳簿を返していただけますか」
殿下が顔を上げた。
「あれは私が見ます」
「無理をしなくていい」
「無理はしておりません」
「顔色が悪い」
「殿下」
私は、一歩前に出た。
「五日前から、私に仕事を回されなくなりました」
「……減らした。休んだほうがいいと思った」
「なぜです」
「君は考えることが多すぎる。少し離れたほうが」
「離れる」
私は、その言葉を繰り返した。
自分の声が、思っていたより低かった。
「離れたほうがいい、と。あなたが、おっしゃるのですか」
殿下の表情が変わった。何かに気づいた顔だった。
「エリナ、そういう意味では」
「一度目も、そうでした」
言葉が、勝手に出た。
「一度目も、始まりは気遣いでした。無理をするな、休め、君のためだ。そうやって少しずつ減らされて、気づいたら私の席はどこにもありませんでした」
「……エリナ」
「二度目もです。同じでした。全部同じでした」
止まらなかった。
四日間、胸の底で溜まっていたものが、堰を越えていた。
「あなたは、間に合いたかったとおっしゃいましたね」
「言った」
「何に、間に合うおつもりだったんですか」
殿下が、口を開いた。
でも私は待たなかった。
「あなたが遅れたのではありません。あなたが、終わらせたんです」
燭台の火が揺れた。
「一度目、あなたは私に『愛する人ができた』と言いました。二度目は『価値観が合わない』と。どちらも穏やかに、天気の話をするみたいに。私はそれを聞いて、頷いて、辞退の書状を書きました」
喉が痛かった。
「間に合わなかったのではありません。あなたは、間に合わないところにすら、いなかった」
殿下は、何も言わなかった。
顔から血の気が引いていた。
「あなたが持っているのは、菓子の味と、雨の日の歩き方と、笑い方です」
私は続けた。
やめられなかった。
「私が二度、何を思っていたかは、ひとつもご存じない。二度分の夜を、私が一人でどう過ごしたかも。それでも間に合いたかったと言えるのは——」
言葉を切った。
言ってはいけない、と頭のどこかが言った。
言った。
「——それが、あなたの気が済む言い方だからでしょう」
部屋が、静かになった。
殿下は、机に手をついた。
立っていられないのだろうと、私は分かってしまった。分かってしまう程度には、この人を見てきた。
「……そうかもしれない」
やがて、殿下が言った。
「え」
「私には、反論する材料がない」
彼は顔を上げなかった。
「君の言う一度目も二度目も、私は知らない。私が『愛する人ができた』と言ったことも、君が書状を書いたことも、聞いて初めて知った。だから」
声が、掠れた。
「君の言うことを、否定できない。私が何をしたのかを、私だけが知らない」
私は、動けなかった。
「エリナ。ひとつだけ、言わせてくれ」
「……はい」
「仕事を減らしたのは、遠ざけるためではない」
殿下が、ようやくこちらを見た。
「あの日、君は時間がほしいと言った。だから、作った」
——時間。
私が、自分で頼んだものだ。
考えさせてください、と言ったのは私だった。
この人は、それを言葉通りに受け取って、私の手元から急ぐ理由を取り除いた。それだけのことだった。
全身から、力が抜けた。
「……申し訳、ありません」
「謝らなくていい」
「いえ」
「君が二度、同じ形で終わったのなら、同じ形を恐れるのは当然だ」
殿下は静かに言った。
「私は、その形を知らずに繰り返した。それだけの話だ」
私は、その場に立ち尽くしていた。
怒鳴った相手が、一つも言い返してこない。
言い返してこないどころか、こちらの言い分を全部引き受けてしまう。
——ずるい。
こんなの、どうやって怒ればいいのだろう。
「殿下、私は」
「今日は帰ってくれ」
その声は、優しかった。
優しかったから、余計にこたえた。
「明日、帳簿を返す。……君の席は、そこにある」
自室に戻って、扉を閉めた。
背中を扉につけて、そのまま座り込んだ。
息が上がっていた。走ったわけでもないのに。
私は何をしたのだろう。
あの人は五日間、私が頼んだ時間を守っていただけだった。それを私は勝手に「遠ざけられている」と読み替えて、二度分の記憶を根拠に、怒鳴りつけた。
二度分の記憶。
私の武器。私の唯一の優位。
——本当に?
私は袖から、あの書き付けを取り出した。
燭台に近づけて、もう一度読んだ。
『一、当人は誰にも頼らぬことを誇りとしている。頼れる相手を減らせば、判断が鈍る』
指が、止まった。
『一、当人は婚約に期待していない。既に諦めている』
『一、よって、期待を持たせてから折るのが最も効く』
……ああ。
誰も、私を遠ざけてなどいなかった。
私が勝手に、一人になろうとしていた。
書いた通りに。
紙の上の文字が、静かにこちらを見ている気がした。
この人たちは、私が何をするかを知っている。
殿下より、ずっと正確に。




